Human Scramble

「人間交差点」

原作 矢島正雄/作画 弘兼憲史


『人間交差点』は
さまざまな人間の人生を問いただす素晴らしい短編集である。
人間の心の交流や、愛憎、葛藤がそこで展開し
マンガの域を越えているというか、どの作品を映画化しても
おそらく高い評価を受けることでしょう。



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第19話 老木の舞
 私立探偵・松本源助の元に能で有名な安西流宗家・安西泰雄から依頼が届いた。奥多摩のハイキングコース
で10日前に遺体で見つかった弟子の吉岡洋子は実は行方をくらましている同じく弟子の川島次郎に殺されたので
はないか?それを調べてほしいとのことだった。元警視庁の源助は昔のツテや安西に借りた資料を頼りに調査を
進めていくうちに意外な犯人像にたどり着く。それは周囲の目と己の欲望の間で葛藤する男の哀しい犯行だった。
 世間では歳をとるたびに、その歳相応の分別ある大人であるということが美徳とされている。老いてゆけばゆく
ほど今までの知恵を生かし、後に続く者への導きを施すのが筋だと考えられている。でもはたして本当にそうだろ
うか?生きているかぎり、生きながらにして枯れている人間などいるだろうか?老年期と呼ばれる年齢に入った男
が20代の女に恋をする。決して美談ではないかもしれない。でも理屈では語れないのが人間ではないだろうか?

第20話 春の惑い
 「わたし、エルメスのケリーバッグが欲しかったの」就職が決まっていた友子は小さな託児所でアルバイトを始め
た。ある日のバイトあがりの時間に長期滞在児として預けられていた二歳の良夫の様子がおかしいことに気づい
た友子だったが、同僚の留美に「いちいち気にしていたらこの仕事はきりがないから」と促されその場を去る。そし
て次にそのバイト先に現れた友子は、留美から驚愕の事実を知らされる。「夕べ遅くね、良夫君死んじゃったの」
 2週間のバイトで買えるような額じゃない。もし大変そうにしていたら父親がバッグを買ってくれるかも。そんな軽い
気持ちで始めたバイトで友子は取り返しのつかない場面に出会う。あの時留美の制止を振り切り高熱の良夫を病
院に連れて行ってさえいれば。そう思うと今まで友達と軽い気持ちで話していたすべてのことがすごく陳腐で滑稽な
ものに思えてきた。そう考えると良夫は友子を目覚めさせるために生まれてきた存在、と言えなくもないのだけど。

第21話 片隅
 新宿駅近くの連れ込みホテルで新井千恵という25歳のコールガールが殺された。捜査は難航を極めたが、彼女
は北海道出身で500万もの貯金を持っていたことがわかった。「帰りたかったが、帰れなかったんじゃないか」聞き
込みを続けていくうちに片田刑事はそう思うようになる。その矢先、意外にも犯人が自首をしてきた。山崎と名乗る
その男は誰かに身の上話を聞いてもらいたくて彼女を呼んだのだが。しかしここから物語はさらに急展開してゆく。
 集団就職で北海道からやって来た千恵の人生は東京という大都会で翻弄されてゆく。一方、実は山崎も北海道
からやって来た男だった。しかも彼は5歳の時に父親に先立たれ、9歳の姉と親類の家を転々としていく中で人間の
汚らわしさを幼い眼に焼きつけられる過酷な運命を辿る。千恵と山崎はちょっとした食い違いで被害者と加害者に
なってしまったが、実は二人にはさらに意外な接点があった。いくら創作とはいえ、これはあまりにも悲しい話だな。

第22話 腐葉の森
 由起子は夫である工場長の隆夫の妻として緑の多い野辺山の社宅に引っ越してきた。常に人目を気にしてきた
都会の暮らしと違い、森の木々の葉一枚一枚が由起子に生きている実感をくれた。そんな折、噂話が好きで町の
スピーカーとあだ名される田所巡査の妻・房子があることないことを言いふらしているのではないか?という強迫観
念にかられた由起子はある日房子に誘われたジョギングの途中で彼女に問いただす。が、その時不慮の事故が。
 由起子には常に人の目を気にせざるを得ない過去があった。覚醒剤に一度手に染めれば以前の自分に戻るこ
とはない。立ち直ったと思えても、皆が自分の悪口を言っているんじゃないかというあらぬ恐怖心や幻覚に襲われ
る症状が何年後かに出ることもある。房子が巡査の夫からその情報を仕入れて町じゅうに言いふらしているんじゃ
ないか?その時の由起子の目には、いきいきとしていたはずの森の木々の葉が腐って死んでいるように見えた。

第23話 埋火(うずみび)
 岡村刑事の娘・美智子は以前付き合っていた妻子ある男を忘れられずにいた。そんな彼女があと1ヶ月後に父親
の決めた男と結婚するのはある意味父親に対する復讐かもしれない。小さな頃から家庭を顧みずただ仕事に邁進
し母親の今際の際にでさえ事件を追い駆けずり回っていた父親を彼女は冷ややかな目で見てきた。そんな父親が
生まれて初めて旅行に誘ってきたその旅先で、美智子は父親の今まで知ることのなかった過去を知ることになる。
 実際の刑事という仕事はテレビドラマに出てくるような颯爽とした華麗なものではない。神聖な職業として崇められ
たかと思えば権力の手先だと罵られたりもする。この刑事もまるで家に帰らなかった。母親が病気の際もそばにいる
ことさえせず、それが娘の反抗心へとつながっていた。でも父親は娘の叶わぬ恋に気づいていた。だから自身も同じ
ような経験をしたその場所に連れてきたのだろう。それを見抜けたのも刑事だから、というのがなんとも皮肉だけど。

第24話 左遷
 毎朝新聞社本社の遊軍記者きってのエースだった前田はなぜか新聞社の末端に置かれた通信部に配属された。
「欠員が出た」というのが理由だったが、彼は周りの連中がスクープを連発する自分に嫉妬し出世競争で先を越され
ることを怖れて通信部に左遷したのだと思い込み、死傷者が3人も出た火事の記事を書こうともしないというていたら
くだった。ところが記者の勘でその火事に不審さをおぼえた前田は、スクープを抜き本社の人間を見返そうと動くが。
 確かに「報道」とは真実を暴くことなのかもしれない。でもそれが誰かの人生を転落させるものだとしたら、それでも
真実を暴くことが正義なのか?と問われれば「そうだ」とも「そうではない」ともいえる。前田は自尊心からその火事の
秘密を暴き生き残った娘を自殺へと追い込んでしまう。一般的に正義だとされることが本当の正義だとは限らない。
彼はこの事件の後紆余曲折を経て改心することになるが、失われた生命はもう戻らない。何とも複雑なお話ですね。

第25話 さかな
 ある女子刑務所。もうすぐ出所が決まっている大塚めぐみは医務室の医師・落合駿介に呼び出された。彼女はか
つてモスクワ五輪を目指していた水泳界のエースだったが、その人生をすべてオリンピックに狂わされてこの刑務所
に服役していた。小さな頃から人よりちょっとだけ泳ぐのが早かった彼女は、いつしか好きだったはずの水泳にすべ
てを縛られるようになった。そして唯一の生きがいだった恋人に裏切られたあげく重い罪を犯してしまったのだった。
 たとえば水泳に限らずどんな競技でも始めるきっかけは「本人が楽しいかどうか」に尽きると思います。ただその
結果がちょっとでもいいと「素質がある」「将来が楽しみ」などと自分の意思で始めたはずの競技が、いつしか「誰か
のため」になってしまっていることがある。オリンピックなどはその最たる例でしょう。彼女は9歳からの10年間、その
すべてを水泳に捧げてきた。そのあげく極端に不幸な目にあわされた。彼女が水泳を憎む気持ちもわかりますね。

第26話 空想地図
 東京地検の検事である息子が心配してポストに放り込んで行った金を突っ返しに警視庁まで来た探偵・松本源助
はそこで校内暴力事件の主犯格となった高校生の少女・ユミと出会う。一ヶ月後、そのユミが「山本二郎という18歳
の少年を探してほしい」と源助の元へ依頼に来る。手書きの地図と依頼料を残して。さんざん探し回った挙句その
町を見つけられぬ源助だったが義娘の助言でついにその町にたどり着く。だがそこにはあまりにも哀しい真実が。
 人生を歩いてゆくうちにいつの間にか無感動になってゆく。以前はあまりにもうれしかったはずのことが普通のこ
とになり、やがてそれが当たり前だと気にしなくなってしまう。「初めて誰かに恋をする」ということはその人の人生に
とっては一大事。ところがいつしかそれさえも忘れてしまう。かっこ悪いぐらいみじめで情けなくて、でもどこか恥ずか
しくてうれしくて。それって人間の素晴らしさであるはずなのにいつしか誰もがそれを心の奥底に追いやってしまう。

第27話 夏の跡
 とある山奥の駅。観光シーズンである夏を除くとほぼわずかな地元民しか利用しない廃線寸前のこの駅で順二青
年は駅長とふたりで働いていた。夏の過ぎたある日、少女が電車にも乗らずホームと待合室を行ったり来たりしてい
た。そんなことが4日も続いたその夜中、少女はまた駅に現れた。宿泊するお金がないので駅舎に泊めてほしいと。
内規で禁止されていたが順二は彼女をこっそり駅舎に泊める。その夜、彼女を追う警察が駅長の元を訪ねてきた。
 まるで秘境のようで都会の暮らしに比べれば天国のように思える、ずっといたいと思える山奥のこの駅にも現実が
ある。そう思えるのは一年に一度かしかここを訪れないからであって、実際にそこで毎日暮らしてみればいかにそれ
が大変なことなのかがわかるだろう。順二は都会で男と暮らす毎日に疲れ果て戻ってきた姉と暮らしていた。その姉
の表情。その少女の表情。哀しく、でも優しい表情。女の人って、なんであんなに哀しい笑顔をつくれるのでしょうね。

第28話 遠い唸り
 診療時刻は守らない、昼からビールをかっくらっては診療するというていたらくの町医者・佐田医師。そんな折S県つ
くわ村で何人もの患者が原因不明の奇病に冒されているという新聞記事に目を止める。実は彼は10年前の東都医大
の助手時代にこの病気を独自に調べていたが師事する築岡教授に阻止され、しかもその研究をまるまる築岡教授の
成果として発表されて以来、町医者に身を落としていたのだった。だがある日、築岡教授が再び佐田の前に現れる。
 世の中のすべてのことはヒューマニズムであるべきなんじゃないかと思うのです。それはある人たちにとっては青くさ
く子供じみているように見えるかもしれない。世の中はそんなに単純にはできていないのだと。しかしその単純なはず
のヒューマニズムをなかなか達成できないから、さまざまな物事がねじ曲げられているんだと思う。医療の世界もそう。
「誰かが自分を必要としてくれている」それ以上の生き方があるだろうか。そういう生き方をするべきじゃないだろうか。

第29話 八月の空
 サナエ・マルホーランドは35年ぶりに日本へ帰ってきた。空港には清美という少女が出迎えに来ていた。というより彼
女は父親に頼まれ、一日サナエに付き合えば金をもらえるというバイト感覚で迎えに来ていたのだった。サナエが35年
ぶりに訪れた東京はすっかり変わっていた。しかしあるガード下にさしかかった瞬間、10代の頃の哀しくもみじめな記憶
が脳裏によみがえる。清美の友達を加えディスコや高級料理店をはしごしたサナエは彼女たちに身の上話を始める。
 戦争はさまざまな人たちの人生を狂わせる。いや、それがその人の歩むべき道だと決まっていたのだとしたら人生と
はいったい何なのだろう?サナエは空爆のドサクサのさなか14歳で顔も名も知らぬ男に乱暴され妊娠。しかもそのまま
戦後を迎え、生きる術も余裕もなく米軍兵士とアメリカへ。我が子を連れて行く訳にもいかずいつか呼び寄せようとして
いた矢先に兵士が殉職。そして息子からの「会いたくない」という手紙。それでも彼女はその空に生きがいを見つけた。


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