Human Scramble

「人間交差点」

原作 矢島正雄/作画 弘兼憲史


『人間交差点』は
さまざまな人間の人生を問いただす素晴らしい短編集である。
人間の心の交流や、愛憎、葛藤がそこで展開し
マンガの域を越えているというか、どの作品を映画化しても
おそらく高い評価を受けることでしょう。



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第1話 ガラスの靴ははかない
 松沢良子。22歳。彼女は今刑務所の中で、憎しみ抜いて殺した男の子供を産んだ。身体を売り生計を立て娘
に同じ道を進ませようとしていた母親から逃げ出した彼女は初めて自分の意思で選んだはずの男を、殺した。そ
の復讐心が我が子への殺意を駆り立てた。子の危険を察知した刑務所医師・早川は施設に預ける。8年後刑期
を終え出所した彼女は早川医師に再会。殺意しかなかった我が子への想いはいつしか愛情へと変わっていた。
 いきなり第1話からこういうお話。もう涙腺が止まりません。人間は生まれてくる場所を選べない。それはこの松
沢良子という女性もその子供も同じ。殺した男への復讐心もこんな自分に育ててしまった母親への復讐心も裏を
返せば「愛されたかった」に尽きるのではないでしょうか。刑務所を出たら必ず我が子を探し出し同じ痛みを与え
てやると思い続けていた彼女はいつしかその連鎖を止めようと思い始める。それが人間のサガなのでしょうか。

第2話 海の時間
 ある旅館の女中はその夜初めてお客をとり、小説家であるその男に抱かれた。話は10年前にさかのぼる。定
時制高校を卒業し工場に勤めていた彼女は燃える恋をしていた。昼休みの短い時間を使い、学生時代に自分
が教わっていた小説家志望の英語教師の元へ向かうのが彼女の日課だった。しかし彼には別の女性がいるこ
とがわかる。身を引いた彼女は忘れるためだけに10年この旅館で生きてきた。なのに偶然再会し、抱かれた。
 年上の男性に憧れるのは女の子にとって誰でも通る道、なのかな?(笑)ただ彼女は真剣だった。塞がれた
ような毎日の中で彼と会う時だけ生きていることが実感できた。ただ彼が自分に対し本気ではないこともわかっ
ていたのでしょう。だから彼の大切にしている腕時計をもらい彼の前から姿を消したのでしょう。ラストで彼女は
この10年を清算し、また別の場所に旅立ってゆく。やっぱり女性って強いね。引きずりまくる男とは違って(笑)。

第3話 教官の雨
 女子少年院の教官を務める野島洋平(34歳)は、十年務めてきた院で最も印象に残っている退院した「菊島
あけみ」という少女からずっと続いていた手紙が途絶えたことに胸騒ぎがしていた。日課や規律すべてにおいて
反抗的だった彼女はやがて脱走。かつて身を置いた暴力団に匿われるが、野島の命懸けの行動に心動かさ
れついに心を開いたのだった。彼女のことが心配でならない野島は最後の手紙の住所を宛てに訪ねてゆくが。
 どんな仕事でもそうだけど、仕事に終わりはない。しかも罪を犯した少女を「育てる」彼のような職業では、送
り出したはずの少女がまたそこに戻ってきてしまうことに自分の無力感やふがいなさを余計感じてしまうのだろ
う。彼のような教官ばかりであれば世の中もっとよくなっているはずだけどね。菊島あけみはがんばっていた。
でも次から次へ院に送られてくる少女がいるうちは彼にとってそれが終わりじゃない。また今日が始まるんだ。

第4話 ひび割れた土
 土以外に何もない貧しい家に生まれた少年・太地は壺を焼く鬼の才能と純粋さを持っていた。それを見初め
たある有名な陶芸家が太地をひきとってゆく。その家には絹江という一人娘がおり、ふたりは徐々に心を惹か
れあっていった。やがて陶芸家は死にふたりきりになった。ある日、太地は絹江を殺した。いつからか彼女は
彼が自分より愛している土に嫉妬していた。「愛してるなら私も土にしてほしい」それが絹江の願いでもあった。
 考え方の違いだろう。未開の地で暮らしてるのならともかく、この日本で暮らしていくなら「ずっとこのままでい
い」というわけにはいかない。太地は「このままがいい」と思っていた。絹江は「このままじゃだめだ」と思ってい
た。そのすれ違いが悲劇を生んだ。様々なコンクールで入賞し、太地と暮らしていくことを望んだ絹江。それを
垢れだと感じた太地。無垢のままでいてほしい。だがこの地球上に無垢のままいられるものは、何ひとつない。

第5話 砂上の設計
 新進気鋭の建築家・橘健吾は建築の第一人者・鶴丸教授の娘と結婚し順風満帆な毎日を送っていた。とこ
ろが彼には誰にも言えぬ過去があった。大学生の頃、トルコ嬢のテル子と暮らしていた彼は彼女からもらう小
遣いのおかげでバイトもせずに建築の勉強に勤しめた。だがコンクールに彼の作品が入賞すると風向きは大
きく変わった。橘との結婚を夢見る彼女の存在が邪魔になったのだ。そして彼はテル子を旅行へ連れ出した。
 自分が今生きてるということは、知らないうちに誰かの人生を押しのけているということなのかもしれない。た
とえば誰かのマイナス1点が自分のプラス1点になるというように。この橘健吾という男は自分のためなら誰か
を犠牲にしてでも幸せになりたいと思っていたのだろう。それは責められない。が、やはり人を殺めたという時
点で彼の人生はもう終わっていた。そこで「名声だけが人生じゃない」と気づいたとしても、もう遅いことだけど。

第6話 谷口五郎の退官
 とある刑務所の看守兼死刑執行人を35年間務めてきた谷口五郎は、警官殺しの罪で収監されてから16年に
なる死刑囚赤岸源助と懇意になっていた。もうすぐ退官になる谷口はせめて赤岸の死刑執行には立ち合いた
くないと願っていたがついにその日はやって来てしまった。最後まで無実を訴えていた赤岸だったが観念した彼
は谷口にあることを告げる。それは捕まった時に3歳だったひとり娘に会いに行ってほしい、という願いだった。
 「死刑執行」は法務省から関係官庁へと書簡がまわされ、まるで事務仕事のように決められる。その死刑囚
の人生には最初から意味がなかったと言わんばかりに冷酷だ。彼は無実では?とにらんだ谷口の勘は的中
る。が、赤岸の死刑は執行されてしまっている。真犯人である男も16年間苦しみ抜いた末に自らの命を絶った。
その冤罪さえなければ、ふたりはまるで逆の人生を送っていたはずなのに。最後までなんともつらいお話です。

第7話 黒の牧歌
 殺人罪で懲役10年の鈴木平吉は仮釈放前日になると決まって刑務所からの脱獄を繰り返していた。理由は
一日でも多くそこにいたいという願いからだった。彼を逮捕した高橋刑事はそもそも平吉がその殺人の犯人で
あることに懐疑的だったが、彼の自白とアリバイのなさが決め手となった。なぜ刑務所から出たくなかったのか。
その秘密は生まれてからずっと不幸続きだった彼が殺したとされるたった3日間だけの夫婦だった女にあった。
 遊郭で生まれた平吉は母からも愛されず戦時中もなぜか生き延び30歳の時文子に出会う。一緒に暮らし始め
たわずか3日後、部屋に帰った平吉はメッタ刺しにされた文子を見つける。犯人はわからない。それより「初めて
この孤独をわかってくれた文子を俺が殺したことにしなければ同じような境遇を生きてきた文子がかわいそうだ」
と彼は自首する。「犯人でいるうちは文子の夫だ」と初めて居場所を刑務所に見つけた彼の純真さが、哀しい。

第8話 暗い傾斜
 「世の中で唯一信じられるのは金だけだ」を信条とする会社社長・塩見良夫は3年間暮らした後姿を消した若き
妻・夏子が若い男と山奥の小屋で一緒に暮らしていると聞きつけ、その山奥に来ていた。登るのがあまりにも険
しいために若い男のガイド・南条を雇った。が、この南条こそが夏子と一緒に暮らしている男だった。夏子でさえ
も金で買った女だと思い込んでいた塩見はいつしか心から彼女を愛していたことを、この後思い知ることになる。
 最初から南条は偽名を使ってガイドを依頼してきた塩見を見抜いていた。そして塩見もこの男が夏子と暮らして
いる男だと知っていた。子供の頃から天涯孤独の浮浪者だった境遇が塩見を人間を信じられない大人にしてしま
ったのだろう。興信所を使い夏子の身辺を調べたが何も出てこない。そんな夏子でも山小屋で男と暮らしてるとく
れば疑うのも当然だった。が、夏子も塩見の自分への愛を疑っていたのだ。そのすれ違いが哀しい結末を呼ぶ。



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