Human Scramble

「人間交差点」

原作 矢島正雄/作画 弘兼憲史


『人間交差点』は
さまざまな人間の人生を問いただす素晴らしい短編集である。
人間の心の交流や、愛憎、葛藤がそこで展開し
マンガの域を越えているというか、どの作品を映画化しても
おそらく高い評価を受けることでしょう。



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第9話 遠い抱擁
 片田舎の小さな映画制作会社に勤めている小畑は、本来決して会うことのない娘・恵子を駅まで迎えに来た。
妻が妊娠中に離婚したせいである。女子少年院から出てきた恵子は別の男性と再婚した元の妻が引き取るは
ずが、恵子の希望で顔すら見たことのない実父・小畑を引取り人に選んだのだった。小畑は自分の生い立ちに
命を絶とうとさえした娘に自分に何ができるのかと悩む。が、自身を大切にしない娘に彼はついに手をあげる。
 男は家庭を顧みず「映画監督」になるため日夜走り続けていた。それが妻や生まれてくる子供のためなんだと
頭のどこかで考えていた。女は違った。いつしか身を崩し子供もろとも路頭に迷うのではないか、と。娘は両親の
痴話げんかに付き合わされたと思い込んでいた。そんなふたりから生まれた自分の存在なんか、と。が、真実は
違った。まだ愛してる人間を捨てることが愛してる人に捨てられることよりどんなにつらいか。刺さる言葉ですね。

第10話 従順なる復讐
 銀行員の石井優子は支店長と関係を持っていた。18歳から銀行に勤める優子ももう31歳。40歳を越えた支店
長にとってどんな仕事もそつなくこなし、長らく銀行員を勤め上げたその従順さと忍耐力を持つ優子は便利な存
在でもあった。そして自分の欲望を満たすことにおいても。ある日その銀行の出納の残高が合わなくなった。700
万円の誤差。土曜日にもかかわらず行員総出でチェックが始まった。が、支店長は優子を残し全員を帰らせる。
 そういや昔は銀行は土曜もやってたんだ(笑)。昭和の時代って仕事場において男尊女卑がひどかったんだろ
うな。この支店長を見てると男のズルい部分ばかりが見えてくる。彼が従順で忍耐力があると思い込んでいた優
子にも大学進学という夢があった。家庭の事情で進学できなかった彼女は仕事で社会に認めてもらおうと銀行
に入った。ところが支店長に手を出され、いつしか復讐を胸に秘めるようになる。そして物語は壮絶なラストへ。

第11話 あの日川を渡って
 若き刑事・片田良夫は殺人に関与した疑いのある井上という男のアパートの前で今日も張り込んでいた。そこ
へ初老の刑事・岡村が差し入れと電報を持ってやって来た。電報には「ハハキトク」の文字。すぐ行ってやれと親
心を見せる岡村刑事に片田は「たとえそうでも今ここから離れるわけにはいきません」と引かない。内心では女
手ひとつで育ててくれた母の元に今すぐにでも駆けつけたいという願いをこらえて。その時、井上が動き出した。
 母ひとり子ひとり。なのに息子の前では笑顔を絶やさず育ててくれた母。本来ならグレてもおかしくない環境な
のに彼が頑なな青年に成長できたのはいつも歯を食いしばり生きてきた母親の背中を見ながら育ってきたせい
だろう。滅多に一緒に出かけられないふたりに舞い込んだ東京オリンピックの入場券。だがそれはニセモノだっ
た。どんなに小さな罪も罪は罪。そんなまっすぐな彼を育てた母親は彼に看取られながら薄幸な生涯を遂げた。

第12話 象牙の罠
 東亜大学英文科の女性助手・大山は苦労を重ねて、29歳にして助教授昇進をほぼ確実にした。ところが別の
教授から横やりが入る。水野という若い女性講師を推薦してきたのだ。あまりにも理不尽なこの状況に気をとら
れていた彼女は、ふとしたことである男性を駐車場で死なせてしまう。「こんなところで人生を破滅させたくない」
そう思った彼女は死体を自分の車に隠す。部屋に戻ってきた大山を待っていたのは自身の助教授昇進だった。
 勉強が好きだから大学に残って教授になれば自分の生き方が間違いじゃなかった証明になる。彼女はそう考
えていたのだろう。でも実力よりコネや取り入りのうまい人間が重用されるのは、人々が学問を追求するはずの
大学でさえ例外じゃない。そしてその渦中で不運な事故に巻きこまれる。ところが助教授になったはずの彼女は
目指していた場所がいかにちっぽけなものだったのかを痛感する。いや、とっくに気づいていたのだ。なのに。

第13話 消えた国
 ある夏の夜、終電に近い時刻の列車の車輛の床にガソリンがまかれ、4人が焼死した。犯人は依然捕まらず
マスコミはいつまで経っても進展しない通り魔殺人事件への苛立ちの矛先を警察に向けていた。大やけどを負
いながらもその車両で唯一生き残った「マンジュウ爺さん」と呼ばれる男は有楽町界隈を根城とする浮浪者だっ
が元々口の聞けない彼から情報を得ることはできなかった。が、新人刑事・片田はこの爺さんに何かを感じる。
 人生のすべてを捨てて生きている人は以前よっぽどつらいことがあった人なのだろうと思うようになりました。
どうせなら忘れてしまいたい。いや、忘れられるぐらいなら人生を捨ててまで生きはしないだろう。この「マンジュ
ウ」という響きがこのお話のキーワードになります。実は「饅頭」ではなく戦時中に生まれ十三年で消えた「あの
国」のことをさしている。戦争はすべての人に爪痕を残す。その時代に生きたすべての人の生き方を狂わせる。

第14話 流された記憶(前編)
 昭和34年、深谷村。酒びたりの父親を抱えた小学2年の一(はじめ)は学校には行かず働かされていた。新米
教師・純子は父親に学校へ行かせるように説得しに来る。食い違いからいざこざとなり純子の危機に一は朦朧
とする中、斧を手にした。2日後、伊勢湾台風により父親はどこかへと流された。22年後、純子の献身的支援も
あり、一は村で誰からも慕われる医師に成長した。そこへ身元不明の白骨化死体が見つかったと一報が入る。
 一は本当は勉強好きな子だったのだろう。あてがわれたものは拒否し、手に入らないものには興味を示す。
勉強か好きか嫌いか、はそこに肝が隠されているんでしょうね。おっと話がそれた。母親のいない一の生い立
ちは不幸そのものだった。あえて僻地の学校に赴任してきた純子の一に対する想いも本当だったはず。幼くし
て父親の脳天に斧を振りかざした一。ところが後編でその事実は一変する。悪いのは誰なのか。その答えは?

第15話 流された記憶(後編)
 その白骨化死体が父親のものだと直感した一は伊勢湾台風の犠牲者だと駐在に報告する。その夜、純子が
一を訪ねてきた。純子は父親を殺したのは自分だと告白する。なんと22年もお互いがひとりの人間を殺したと思
い生きてきたのだ。一は純子を苦しめていると思い生きてきた。しかし純子はいつか一が父親殺しをバラすので
はないかと怯え、それを理由に支援してきたのだった。純子が好きだった一はすべて忘れようと純子を諭すが。
 教科書通りに生きることを理解するのはたやすい。ただ、それを実行しようとすることは難しい。それは関与し
ているのが人間だから。人生で「道を踏み外す」という言葉がよく使われるが実は踏み外すようにできているんじ
ゃないか。だからドラマが生まれる。東京の病院への栄転が決まっていた一は村に残り純子は東京へと出てい
った。そして純子は自ら生命を絶つ。すべてを解放されたかのような純子の安らかな死は是なのか、非なのか。

第16話 白い返事(メッセージ)
 ある女子刑務所。いずれここを辞めて小説家になる夢を持っていた新米の田村刑務官はすでに出所が決ま
っている女囚・村上優子と毎日乱闘騒ぎを起こしては上官に注意されていた。数多くの紙ヒコーキを折っては窓
の外に飛ばし、そのたび掃除をする田村を優子はからかう。なぜか田村にだけ悪態をつく優子を不思議に思っ
た所長。実はその悪態には「田村にはわかってもらえるんじゃないか?」という優子の身の上が関係していた。
 人生を思い描いた正義のまま終えることのできる人ってどのくらいいるのだろう。もしそう思えたとしても他人
から「ちっとも正しくないよそんなの」と言われる独り善がりなものを含めれば、ほとんどいないんじゃないかな。
いまだ「間違えていない」と言える人がいたとしてもこれから間違えるかもしれない。優子はそれでも愛する人た
ちが許してくれるのなら」という想いから紙ヒコーキを飛ばし、それを誰かにわかってもらいたかったんだろうな。

第17話 午後のフットワーク
 昭和26年夏、新宿のアパートで母娘が殺される事件が起こった。容疑者として逮捕された池沢善二は「ラッシ
ュ池沢」の名でリングに上がるプロボクサーだった。新米だった藤沢刑事は容疑を否認する池沢が嘘をついて
いるとは思えず「リングに上げてくれさえすれば無実は実証される。対戦相手の常田に聞いてくれさえすれば」
との言葉を信じ周囲の反対を押し切り、リングに上げる。しかしその対戦相手・常田が刑事に告げた言葉とは。
 昭和56年、広島の拘置所で肺炎をこじらせて池沢は死んだ。どうしてもこの事件が心のどこかにひっかかって
いた藤沢は30年の時を経て常田を訪ねる。戦後、折られたままの日本人の心をふたたび立ち直らせることをボ
クシングをやる目的にしていた池沢に対し、彼にどうやっても敵わない常田はあの日刑事に嘘をついた。どう答
えようが池沢の容疑がひるがえったわけでもない。が、常田も30年間池沢と同じように苦しみ続けてきたのだ。

第18話 海のある風景
 もうすぐ1児の父になる谷村健一は会社でもトップの営業成績。そんな彼が生まれてくる子供のためと1週間の
休暇願を出し、一方身重の妻には1週間の出張だと伝えた。「本当に父親になる資格のある人間なのだろうか」
そう思うようになった原因は、彼の父親にあった。お人好しでいつも家族をかえりみなかった父親を彼は捨てた。
最後に見た父親の寂しい後ろ姿が忘れられなかった健一はもらった一通の手紙をたよりにある場所へ向かう。
 誰にでも優しい人。それは誰からも好かれるはずである。ところが実際にはそうはいかないことの方が多い。
現実は誰かに優しくするということは誰かを傷つけることになるということばかりだからだ。欲のない健一の父親
はそんな人だったのだ。借金して誰かの保証人になり自分だけが馬鹿を見る。母親はそんな父親と知りつつ結
婚したのだろう。しかし少年時代の健一の怒りもまたわかる。誰かが笑えば誰かが泣く。そんな不合理な世界。


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