真紀先生はいなかった。 出張で外出中だった。 二人は足を上げさせ頭を下に傾かせて夢彦をベッドに寝かせた。 「ごめんな、俊樹」 夢彦は紫色の唇でつぶやいた。 「なに言ってんだ。くだらん礼なんか言ってないで、早く治せ。いいな」 夢彦はうなずいた。 だが、その瞳はゆれていた。 「ちょっとゆり子ちゃん」 俊樹はゆり子に合図した。 ゆり子はついていった。 俊樹は夢彦に聞こえないところまで来ると、小声で話しかけた。 「あいつ、なんで貧血なんか起こしたんだ。そんな男じゃなかったけど、ゆり子ちゃん、 なにか知ってるんじゃないの」 「う、うん」 「知ってるんだな」 ゆり子はうつむいた。 「なんなんだ」 「たぶん、女の子のことだと思う」 「女の子? 付き合っていた子か?」 「うん。悦子ちゃんが誘いに来てたから」 「なに話したんだ」 「うん……」 ゆり子はそう言ったまま黙り込んだ。 「そうか。そういうことか」 俊樹はわかったようにつぶやいた。 「とにかく、おれは部に行ってくるから、あとは頼むよ」 「室町君」 「看病頼むぜ」 俊樹はウインクしてみせると、保健室を出ていった。 保健室は夢彦とゆり子の二人だけになった。 二人だけになるのは、これで三度目だった。 一度目はこの保健室。 二度目は昨日の帰り道。 そして、三度目は再び保健室。 ゆり子は胸の踊りを感じながらベッドに近づいていった。 夢彦は顔を腕で覆っていた。 「鏡君」 ゆり子は呼びかけた。 夢彦は返事しなかった。 「わたしも同じような経験があるからわかるけど、そんなに気落ちしないでね。悦子ちゃ んもほんとうに鏡君のことが嫌いで別れたわけじゃないと思うし」 「もういいんだ」 夢彦は投げやりな調子で言った。 「好きでも嫌いでも、もういいんだ。どっちにしても同じことだ」 「鏡君、そんな弱気なこと言わないで」 「強気になれっていうほうがおかしいよ。昨日電話がかかってきたときに変だとは思って たんだ。でも、それが……」 夢彦は言葉に詰まった。 「ごめん。おれもなさけないって思ってるんだ。自分がこんなに弱いなんて知らなかった よ」 「鏡君」 「いいよ、もう帰っても。おれひとりで寝ているから。楽になったら自分で帰るよ」 「でも」 「ひとりにしてほしいんだ」 ゆり子の表情が止まった。 悲しげな色が瞳を染め、ゆり子はうつむいた。 ゆり子は無言で静かに立ち上がった。 そして、ちらりと悲しい視線を夢彦に向け、歩きだそうとした。 そのとき、ふいに夢彦の顎に一筋の光が流れ落ちてくるのにゆり子は気づいた。 ゆり子はハッとした。 鏡君が泣いている……。 「鏡君……」 「香川さんも用事があるんだろう。いいよ、少ししたらおれ楽になるから。べつにいてく れなくてもいいよ」 夢彦は声をふるわせながら言った。 「ほんとうにひとりでいいの?」 夢彦はうなずいた。 ゆり子はかなしげにうつむいた。 「鏡君はわたしのこと嫌いなのね」 夢彦は腕を下げて顔を見せた。 目は真っ赤だった。 そして、頬は流れ落ちた涙で光っていた。 「わたしが邪魔なんでしょう」 「香川さん」 「ごめんなさい、変なこと言って。わたし、帰るね」 「待って」 夢彦はゆり子の腕をつかんだ。 「もう少しいっしょにいてよ」 ゆり子は驚いた表情で夢彦を見つめた。 「やっぱり、ひとりはさびしいから」 ゆり子の顔に微笑みの花が咲いた。 「ごめん、さっきは冷たいこと言って」 「ううん、いいの」 ゆり子はハンカチを出して夢彦の涙を拭った。 「やさしいんだね、香川さんって。この前のときもそうだったけど」 「う、うん、心配だったから」 「どうしてそんなに心配なの」 「え?」 「香川さんって、おれのような人間って友だちなんだろう?」 ゆり子はハッとした。 「違うの、あれは違うの」 「違うってなにが」 「だから違うの。ほんとは鏡君のこと……」 ゆり子はそこまで言ってうつむいた。 「おれのこと、嫌い?」 ゆり子は首を振った。 「嫌いなわけないじゃない。でも、鏡君はわたしのこと……」 「嫌いな子にいっしょにいてほしいなんて言わないよ」 ゆり子は顔をあげた。 「ずっと好きだったんだ」 夢彦の瞳が光っていた。 ゆり子の表情が少しずつ輝いた。 夢彦はゆり子を引き寄せた。 雨のキスだった。 窓の外は雨が降っていた。 だが、二人にはそれは祝福の雨でしかなかった。