創造の周辺<2>


  ◆意見衝突のダイナミズム
  なべ君 企画を立てて、煮詰めていくうちに、修正とかありますよね?
例えば、それは納得できないー、なんてことはないんですか?
 
  企画を形にしていく段階で?  
  なべ君 そうです。  
  あるよ。  
  なべ君 そういうときって、やっぱり議論というか、そういう感じになるのですか?  
  自分処理で済ませられる場合もあるし、喧々諤々の議論になる場合もある。  
  なべ君 自分処理とは?  
  クライアントが別にこだわっている場所ではなく、でも、自分は凄く気になる部分の場合、「こうしちゃいましたけど、OKですか?」(笑)
もちろん、その逆もあるわけだけれど、そういう場合は書き手の自発的な部分に任されることが多い。ぼくの場合ね。
でも、クライアントがこだわっている場所となると、簡単には行かない。
 
  なべ君 そういうときって、例えば、自分では「XXとした方がいい(したい)」と考えている訳ですよね。
そしてクライアント側は別のことを考えている。
 
  そうね。自分の方が「これはまずいだろ」と思っている場合もあるし、クライアント側がまずいだろと思っている場合もあるね。  
  なべ君 で、そういう多くの場合、特に正解(というかそういうもの)なんていうのはそんなもん作ってみるまで分からないわけで、やっぱり最終的には、経験とか勘とかですよね。足掛かりになるものって。  
  つくってみるまでわからない、というほどまで不透明なわけじゃないよ。
ある程度は見える。しかし、ある部分で盲目になったりする。
 
  なべ君 それは互いにですよね?  
  いや、そうじゃなくて企画に対して。企画に対して、ある程度は見えるけど、ある部分は見えないということね。  
  なべ君 盲目な点というのが、議論の中心になる?  
  そうでもない。盲目と盲目が重なる場合もあるし、洞察と盲目が重なる場合もある。こちらは見えているのに相手は見えないとか、相手は見えているのにこちらが見えないとか、ともに見えないとかね。
大まかに言って、議論の中心になるのは2つあるのよ。
1つは、会議に参加している全員が、どうしたらいいのかわからない場合(お話をどう展開すればいいのかとか、どんなネタにすればいいのかとか)。
もう1つは、これはまずいだろうというラインをどちらかが押し進めようとした場合。
 
  なべ君 後者の場合は、押し進める側は「まずいだろう」と思ってないわけですよね。  
  もちろん(笑)。自分がそうである場合も相手がそうである場合も、どちらにせよ、いいものにしようと思って善意でそうなっている。
 
  なべ君 そのやり合いが、"1対多"の構造ならばある程度見えてくると思うけど、(多数決が正義という意味ではありません)半数対半数という感じだった場合は、ほんとのところはどっち? ってなるのではないかと。つまり、「まずいだろう」という部分が、本当に「マズい」のかどうか、それは神のみぞ知る……じゃないですけど(苦笑)  
  それはもう経験と直感でわかる。  

  ◆経験と直感を相対化する危険性
  なべ君 たしかに(笑)。創作において経験と直感ってのはこれ以上に大切なものはないけど、ある面であやふやさを持っていると私は感じてるんです。  
  ある面って?  
  なべ君 「その経験と直感ほんとかよ?」って。  
  それは実績がものを言う。市場を把握しているかどうかもね。  
  なべ君 自分の感覚に対して不安になることはありませんか?  
  ないよ。だいたい、いちいち自分の直感に対して「いまの直感は、もしかして間違いではないか?」なんて相対化の作業をやってたら、クリエイティブな仕事なんてできないよ。  
  なべ君 私はよくそう考えてしまうので、訊いてみました(^^;;  
  そういう問いは純粋でいいね。
よくね、むやみやたらに相対化をする人がいるのよ。特に書き手として若い人とか実践の足りない人、論に走りすぎる人って、変なところで相対化ばかりして絶対化というのを避けるのね。
でも、相対的ということと絶対的ということは決して矛盾することではなくて、位相が違うだけの話なわけ。レンズの倍率を変えると相対的になったり絶対的になったりするっていう、それだけなの。それは矛盾していなくて、それが真実の姿なわけ。
たとえば生きている人間の体を見ても、全体として見ると生きているけど、体のどこかでは細胞が常に死につづけているわけ。ある位相では死が生起しているけれど、ある位相では生が育まれている。そして全体としては生きている。それが真実の姿なわけよ。
でも、書き手として若い人や論にだけ走る人というのは、レンズが変えられない人が多くて、だいたいむやみに相対化に走るんだな。「まあ、ユーザーによりけりですからね」なんて言って片づけたり「結局、直感っていったってすべて当たるわけじゃないし、人それぞれですから」とか切り捨ててみたりね。それでかっこいいつもりなんだろうけど、知的にださいだけ。っていうか、愚か者の代表選手です。だいたいそんなこと言い出したら「おまえのその言葉だって相対的で当てにならねえだろ」ってことになって、すべての言説が無効になってしまう。
クレタ人のパラドックスってあるじゃない。クレタ人がクレタ人は嘘つきだと言ったってやつ。あれと同じだよ。
でも、本当はそうじゃない。位相というものがある。にもかわらず、位相というもの、レベルというもの、フェーズというものを全然区別せずに乱暴に相対化で切り捨てるからおかしなことになるんであってね。
──話を戻すけど、なべ君の場合は、多分自分というものに対して、自分の感覚というものに対して自信がないということがあるのだろうね。
 
  なべ君 そうだと思います。  
  どこまでが絶対的でどこまでが相対的か、どの位相が絶対的でどの位相が相対的かという問題はあるけど、ものづくりする人は、創作の瞬間、実作の瞬間においては自分の経験と直感を信じなきゃだめだよ。相対化なんかしてたらだめ。
なんでそういうことを言うかというと、おれもそういう時期あったわけ。自分の感覚に対して自信がないってことがね。中学高校大学の頃から自分の直感に対して自信があったわけじゃないもん。26、7のある恋愛事件がもとで、自分の直感は信じていいものなんだとわかったの。それからなのよ。
 
  なべ君 やっぱり "きっかけ" ってものがあるんですね(=最初からって訳ではないんですね)。  
  たいていの場合はあると思うよ。物心ついた時から自分の直感に対して自信がある人もいるだろうけど。  
  なべ君 そういう自分の感覚に対する自信というものを気にするのは、たしかに経験不足や、そういう面もあります。ただ、それだけじゃなくて、例えば、「何言ってるんだよー」って思うような相手ってのがいたりして、そいつはその「何言ってるんだよ」という面に対して自信を持っていることが多くて(私の経験上)。  
  他人の直感に対して難癖つける人間は、自分のつけた難癖に対して自信を持っているってこと?  
  なべ君 そうですね。例えば、そういうところで自信と自信がぶつかってしまうということもあり得ないケースではないと思うのです。  
  それは実践経験が圧倒的に少ない者が、実践経験が圧倒的に少ない場所で、論で戦おうとしているからだと思うよ。テニスを2、3回プレイしたやつがテニスについてああだこうだって言ってるのと同じでさ。おれも大学生の頃だったら、きっと水掛け論っぽい感じになってたんじゃないかという気がするよ。友人は創作をしているわけじゃなくて、純粋に読者としての感覚からものを言うだろうし、自分は下手な作者としてものを言うだろうし。相手は相手で読者としての自信があるかもしれない。こっちは書き手なりの頑な部分もあるかもしれない。そういう、結局双方実践経験が少ないレベルでは、永遠の水掛け論に墮してしまうよね。決定的な発言力を持っている人、実践に裏打ちされた言葉を言える人がいないんだから。  
  なべ君 年代の差というか、経験のある人と、若い人(経験がないという意味ではなく世代の差)でも、こういうことって発生するんじゃないかな、って感じてます。
 
  それはお互いを「こいつは真実を言っているはずだ」と思わずに言い合うからでしょ。互いにカリスマを認め合えない関係での話ってのは、水掛け論に直行するんだよ。  

  ◆妥協点──クリエイターの外交力
  なべ君 企画ってのは結構がんじがらめに決まるもの……でもないですよね?  
  企画にもばらつきがあるのよ。キャラ、キャラ名、プロットまで決まっていることもあると聞いたことがある。  
  なべ君 そこまで決まってるのが普通かと思ってました。  
  一様じゃないのよ。ソフトハウスによって違いがある。「こんな感じのゲーム」という形、ゲームのカラーだけで、キャラもプロットも決まっていない場合だってあるし。イリュージョン時代なんか、そうだったもん。キャラもキャラクター名も決まってないの。ただ、ダークな雰囲気とか、館ものって<場>だけ決まってるわけ。  
  なべ君 シナリオを書いているうちに、企画とは違ってしまう部分はあるけど、こうした方が……みたいのってありませんか?  
  あるよ、というかあった(笑)。それは自分企画でも他人企画でもね。  
  なべ君 そういうときってどうするんですか?  
  2つある。
自分処理でも大丈夫そうな軽度の場合は、変更した後にクライアントに電話する。
そうでない場合や許可や議論が必要となる場合は、クライアントに電話する。
企画段階で頭で考える場合と、実際に書いていく場合で違うことっていうのは、どうしても出ちゃうからね。企画会議の段階ですべての問題を消化しきるのは難しいのよ。
 
  なべ君 そういう場合って、たいがい難なく通るんですか?  
  クライアントがこだわっていない場合はね。  
  なべ君 こだわってると激論?  
  そんな、毎回バトルやるわけじゃないよ(笑)。いくらシナリオ教室で助手を殴りまくっているといっても(笑)。
議論するのは、自分の意見を通すためではなくて、確かめるためであるわけ。
おれ、こう思っている。あなたどう思ってる? おれ間違ってる? っていう、確認作業ね。
ゲームってチーム作業なわけだからさ。特にクライアントと仕事している場合は、折衝作業は多くなる。特にディレクターを兼任するとね。
で、議論の話。
自分がすんなり間違いに気づけば議論終了。相手が「その方がいいですね」と言えば議論終了。
ともに納得しないときに、激論になる。それでも、激論をしても、「それでもクライアントがそうしたい」という部分は、引き下がることになるよね。逆に自分の判断が血迷いだったこともわかる時もあるし。何がなんでも自分の意見を通そうと思わなければ、議論は有効だよ。
 
  なべ君 でも、どこかでは妥協するわけですよね? 対談のテーマ的に言えば「妥協点」ってことになるんですが。  
  たとえば死んでもユーザーのためには守ってやらなきゃいけないって、そこまで思い切った部分は、妥協しないだろうね。
 
  なべ君 それはもう必死に?  
  もう必死に。このために諍いが起きて途中降板させられることがあってもいいとまで覚悟した部分についてはね。そういうことって滅多にないけど。  
  なべ君 やはりそういう部分ってあるんですね。 >最悪は途中降板覚悟みたいな。  
  あとで振り返ってみると、それが果たして正しかったのかどうかはわからないけれど。クライアントに迷惑をかけてしまったかもしれないしね。  
  なべ君 私にとっては新鮮です。  
  だって、ユーザーが腹を立てるとわかっているもの、ユーザーが満足しないとわかっているものをむざむざ出す気にはなれないよ。自分ひとりのエゴだったら握り潰せるし自分で呑み込めばいいだけだけど、ユーザーさんが……ってなると、引けなくなっちゃうよね。  
  なべ君 そういう情熱って、すごく大切だと思うんです。というか必須なんじゃないかって。
 
  もちろん。ゲームは特にユーザーの快感と不快感をコントロールするエンターテインメントだから、ユーザーのために戦う情熱はね。ただ、それだけだとただ頭の堅いだめだめ君になる。  

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