日曜学校 月報集

2010年度の月報です。

下線の付いたさんびかは「改訂版こどもさんびか」です。

2011年度

4月

主題「使徒信条 (14)」

聖書と説教 交読文 さんびか
4
イースター礼拝
マルコ 16・1~16
「 あの方は復活なさって、ここにはおられない 」
85、86、16
11出エジプト記 3・11~15
「 神さまを知る 」
76、134、16
18創世記 1・26~31
「 神さまを礼拝するためにわたしたちは生まれてきた 」
98、13、16
25Ⅰヨハネ 4・7~12
「 神さまを知っている 」
107、128、16

明解カテキズム 第14章 使徒信条 (14) かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを審きたまわん

問38
「かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを審きたまわん」の意味を教えてください。
「かしこ」すなわち神の右の座から、イエスさまは、もう一度この地上にこられるということです。そのときイエスさまは、生きている人間も死んでしまった人間も裁かれます。わたしたちはこの時を待ち望みます。その裁きこそ、救いの完成なのです。
  1. 神さまがわたしたちを裁かれるということは、やっぱり神さまは恐ろしい方なのではないですか。
  2. 裁かれないためには、善い行いをする必要がありますか。

イエスさまは、神の右に座して、神と等しくその全能の力を行使しておられます。同時に神さまは、全能ゆえに、わたしたち人間を愛し導くことをやめることなく、もう一度わたしたちの世界と歴史にイエスさまを遣わし、生きている人間にも死んだ人間にも等しく裁きを与えられます。神の裁きとは、神さまの全能が貫かれることでもあります。神さまは、わたしたちの正しさや善い行いを決して見過ごすことはありません。同じように、わたしたちの罪や過ちをも見逃しません。神の裁きは、神様が憐れむべき者を憐れみ、裁くべきものを裁くということにほかなりません。

日本基督教団全国連合長老会 日曜学校委員会 編
「子どもと共に学ぶ明解カテキズム」より

5月

主題「使徒信条 (14)」

聖書と説教 交読文 さんびか
2申命記 6・4~9
「 神さまからのラブレター 」
119、47、25
9使徒言行録 8・26~40
「 聖書が分かった 」
1411、102、25
16サムエル記上 3・10
「 神さまの言葉を聴こう 」
1310、47、16
23
ペンテコステ礼拝
使徒言行録 2・1~13
「 言葉の通じ合いを驚き、喜ぼう 」
1212、93、16
30出エジプト記 32・1~14
「 神を捨てる過ちを赦されて 」
1513、112、16

明解カテキズム 第14章 使徒信条 (14) かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを審きたまわん

問38
「かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを審きたまわん」の意味を教えてください。
「かしこ」すなわち神の右の座から、イエスさまは、もう一度この地上にこられるということです。そのときイエスさまは、生きている人間も死んでしまった人間も裁かれます。わたしたちはこの時を待ち望みます。その裁きこそ、救いの完成なのです。
  1. 神さまがわたしたちを裁かれるということは、やっぱり神さまは恐ろしい方なのではないですか。
  2. 裁かれないためには、善い行いをする必要がありますか。

イエスさまは、神の右に座して、神と等しくその全能の力を行使しておられます。同時に神さまは、全能ゆえに、わたしたち人間を愛し導くことをやめることなく、もう一度わたしたちの世界と歴史にイエスさまを遣わし、生きている人間にも死んだ人間にも等しく裁きを与えられます。神の裁きとは、神さまの全能が貫かれることでもあります。神さまは、わたしたちの正しさや善い行いを決して見過ごすことはありません。同じように、わたしたちの罪や過ちをも見逃しません。神の裁きは、神様が憐れむべき者を憐れみ、裁くべきものを裁くということにほかなりません。

ですから、神様の裁きとは、元来は神様の前にただしく生きている者にとっては、恐ろしいことではありません。むしろ、人間の善きわざを神さまがはっきりと見て取って、わたしたちに幸いを与えてくださる恵みの時とも言えます。

しかしながら、わたしたちの間には、完全にただしい人は誰一人いないのです。パウロが語ったように、義人はいない、誰一人いないのです。すべての人が罪の支配に服しています。ですから、裁きは、わたしたち人間にとって恐れと不安の時の到来なのです。

日本基督教団全国連合長老会 日曜学校委員会 編
「子どもと共に学ぶ明解カテキズム」より

6月

主題「使徒信条 (15)」

聖書と説教 交読文 さんびか
6ローマ 8・31~39
「 招き、赦し、味方になってくださる神 」
1614、126、16
13ヘブライ 4・14~16
「 大胆に恵みの座に近づこう 」
11、121、16
20マタイ 17・1~8
「 イエスさまは神の子です 」
173、33、25
27マタイ 4・18~25
「 イエスさまの働きと弟子たちの務め 」
22、53、16

明解カテキズム 第14章 使徒信条 (15) 我は聖霊を信ず

問39
「我は聖霊を信ず」とはどういうことですか。
聖霊を信じるとは、父と子と聖霊なる神さまの霊を信じるということです。それは、幽霊や悪霊や人間の霊ではありません。聖霊によって、わたしたちは天におられるイエスさまをはっきりと知ることができます。
  1. 聖霊と人間の霊はどのように異なるのでしょうか。
  2. 聖霊は、どこに働きますか。

聖霊とは、わたしたち人間の霊や幽霊とは違います。あるいは何か特別な体験を起こさせる力、霊力でもありません。聖霊は、聖書が証言する神様の霊です。父なる神から出た真理の霊です。聖霊の助けによって、わたしたちは、父なる神さまのことも子なるイエスさまのこともはっきりと知ることができるようになります。

聖霊は、イエスさまと神さまとは違って、そっと隠れるようにしてわたしたちに働き、イエスさまと神さまがどのような方であるかを明らかにしてくれます。同時に、聖霊は、わたしたちの教会を生み出し、わたしたちの魂に聖書の内容を明らかに示し、御言葉の説教と聖礼典(洗礼と聖餐)が行われる際にはっきりと働きます。

聖霊と人間の霊はまったく違います。聖霊は、父なる神と子なるイエス・キリストと本質において等しい方です。聖霊もまた全能であり、永遠です。聖霊は、神様によって創造された方ではなく、三位一体なる神の一つとして、父なる神さまと子なるイエスさまと共に礼拝され、あがめられます。讃美や栄光は、常に聖霊にも帰せられます。

これに対して人間の霊は、人間の世界の内側から生まれるのが常です。敵意や争い、ねたみ、そねみという悪しき感情は、人間の霊としてわたしたちの中に生じます。人間の霊によって、わたしたち人間は肉の思いにとらわれながら生きることになります。

日本基督教団全国連合長老会 日曜学校委員会 編
「子どもと共に学ぶ明解カテキズム」より

7月

主題「使徒信条 (16)」

聖書と説教 交読文 さんびか
4ルカ 5・17~26
「 ほんとうのいやし 」
34、81、16
11ヨハネ 9・1~12
「 イエスさまの特別な力 」
46、121、16
18ヨハネ 5・1~18
「 わたしたちの神・イエスさま 」
85、114、16
25ルカ 11・1~4
「 祈りを教えてください 」
58、19、16

明解カテキズム 第14章 使徒信条 (16) 聖なる公同の教会

問40
「聖なる公同の教会」とはなんですか。
神さまによって集められ、選ばれた、いつの時代にも変わることのない教会で、天にある見えない教会と同時に、地上の教会の最後の目標を表しています。
  1. 教会のお誕生日に何が起こったか教えてください。
  2. どの国の教会も、父・子・聖霊なる神さまを礼拝していますか。

教会というと、すぐに教会堂や牧師、教会員、日曜学校の生徒たちのことを思い浮かべることでしょう。これらは、具体的で目に見える教会の姿です。しかし、わたしたちは、同時に天にある目に見えない教会を信じています。「聖なる公同の教会」とは、地上の目に見える教会が目標として信じている、見えない天の教会を表します。

「聖なる」とは、神さまに選ばれ、集められたということです。「聖」という語は、他から区別され、分離されるものという意味合いがあります。また、「公同の」とは、いつでもどこでもだれとでも分かち合える「普遍的な」という意味で、英語のカトリックという言葉にあたります。つまり、「聖なる公同の教会」とは、神さまによって選び集められ、同時にいつでもどこでもだれとでも分かち合える信仰に生きる教会ということです。

わたしたちプロテスタント教会も、普遍的で公同的な教会を信じます。カトリックという言葉は、ローマ・カトリック教会の専売特許ではありません。すでに学んだ、父と子と聖霊である三位一体の神を信じる教会は、いつどこにあっても、カトリック(公同的な)教会なのです。教会にとって大切なことは、外見的な姿よりも、霊による一致、すなわち復活の主をただ一人の主と仰ぎ、神と等しい方とするという一致した信仰なのです。

日本基督教団全国連合長老会 日曜学校委員会 編
「子どもと共に学ぶ明解カテキズム」より

8月

主題「使徒信条 (17)」

聖書と説教 交読文 さんびか
1イザヤ書 53・1~12
「 わたしの代わりに苦しまれる方 」
77、64、16
8ルカ 7・36~50
「 安心して神さまと共に生きる 」
98、130、16
15マタイ 9・9~13
「 イエスさまはあなたを呼んでおられる 」
109、52、16
22ルカ 23・32~43
「 罪の赦し 」
1211、54、16
29ヨハネ 20・19~23
「 主イエスのゆるし 」
1112、94、16

明解カテキズム 第14章 使徒信条 (17) 聖徒の交わり

問41
「聖徒の交わり」とは何ですか。
わたしたちが、イエスさまに結ばれて、神さまから与えられた賜物をお互いに分け合うことです。
  1. 聖徒とはだれのことですか。
  2. このような交わりはどこに生まれますか。

わたしたちがイエスさまを救い主と信じるということは、イエスさまの生命に結ばれて、イエスさまのうちに生きることです。自分が弱くても、自分が貧しくても、イエスさまにつながっていると、ぶどうの実がぶどうの木に連なっているように、その生命をいただけるのです。

わたしたちは、教会を通して、生けるイエスさまの言葉を聴き、イエスさまの体である教会の一部となります。教会のかしらであるイエスさまの生命を、ぶどうの木が地中から吸い上げる水のようにいただいて生きるのです。

使徒信条は、「聖徒の交わりを信ず」と告白しています。この「聖徒の交わり」とは、教会に集められたわたしたちが、聖なる御子イエス・キリストと交わりを持っているとともに、イエスさまに連なる一人一人が主にある相互の交わりをなしていることを意味します。この交わりに聖霊が働き、教会に集う一人一人は聖霊の満ちる宮となります。「聖徒」とは、何か立派で聖なる人という意味ではなく、どれほど貧しく小さくとも神が選び集めてくださった信仰者のことを指します。ここでも、「聖」の意味は、選び分かたれているということです。

わたしたちも、教会に通って信仰を言い表し、洗礼を受けたなら、神さまの恵みと選びゆえに「聖徒」と呼ばれます。「聖徒の交わり」は、教会の中に生み出されます。共に礼拝をささげ、神に祈りをささげることこそ、聖徒の交わりが実現する最も喜ばしいひとときです。

日本基督教団全国連合長老会 日曜学校委員会 編
「子どもと共に学ぶ明解カテキズム」より

9月

主題「使徒信条 (18)」

聖書と説教 交読文 さんびか
5マタイ 5・1~11
「 神さまの子どもです 」
1314、54、16
12マタイ 22・34~40
「 最も大切なことってなに? 」
1413、97、16
19Ⅰコリント 1・1~9
「 神さまに呼ばれ、神さまを呼ぶわたしたち 」
151、84、16
26エフェソ 1・3~7
「 神さまから祝福をいただく 」
162、118、16

明解カテキズム 第14章 使徒信条 (18) 罪の赦し

問42
「罪の赦し」の意味を教えてください。
神さまから離れ、神さまのことを忘れ、神さまに背いたわたしたちを、神さまは赦してくださいます。しかも、その赦しは、ご自分の愛する御子イエス・キリストの生命と引き換えに起こりました。
  1. 罪が赦されるために、わたしたちは何をする必要があるのでしょうか。
  2. 罪が赦されたわたしたちは、どのように生きることができますか。

わたしたちが罪の赦しを信じるのは、神の御子イエス・キリストの十字架と復活の出来事を信じるからです。神さまは、神さまのもとから離れて、あたかも自分の力で生きているかのように傲慢になり神さまを忘れてしまったわたしたちを、なおお見捨てになりませんでした。それどころか、ご自分の愛する御子イエス・キリストをわたしたちの世界に送って、失われた一匹の羊を捜し出すように、わたしたちを見つけ出し、救ってくださったのです。

このように、神の御子イエスさまの十字架と復活の出来事がわたしたちの罪の赦しのためであったと信じるときに、わたしたちは神さまからの罪の赦しをいただくのです。

罪の赦しを信じる者は、神さまの深い愛を信じる者です。神さまが、その独り子をわたしたちにお与えになるほど、わたしたちの世界を愛してくださったことを知るからです。御子による救いを信じる者は、一人も滅びることなく、永遠の生命を与えられると聖書は約束します。

御子イエス・キリストによる罪の赦しと救いの約束は、旧約聖書の時代には預言者イザヤやエレミヤによって語られました。それが今や、神の御子イエス・キリストの到来によって、完全に実現したのです。神さまの愛は、旧約の時代から新約の時代に一貫して、わたしたち人間に告げ知らされていたと言えましょう。

日本基督教団全国連合長老会 日曜学校委員会 編
「子どもと共に学ぶ明解カテキズム」より

10月

主題「使徒信条 (19)」

聖書と説教 交読文 さんびか
3コロサイ 2・9~15
「 神の喜びに満たされる 」
134、126、16
10ヨハネ 14・26
「 すぐそばにいてくださる神さま 」
143、130、16
17ヤコブ 5・13~18
「 いっしょに祈ろう 」
165、60、25
24マタイ 16・13~20
「 あなたはわたしの救い主 」
176、53、16
31Ⅱテモテ 1・9~14
「 いのちの息で神を呼ぼう 」
158、96、16

明解カテキズム 第14章 使徒信条 (19) 身体のよみがえり、永遠の生命

問43
「身体のよみがえり、永遠の生命を信ず」を説明してください。
イエスさまが復活されたように、わたしたちもまた、終わりの日に、イエスさまと同じ栄光の体をもって復活させられます。その栄光の体をもって、永遠にイエスさまと結ばれ、神さまと共に生きるのです。
  1. わたしたちは、終わりの日に新しい体でよみがえるのですか。
  2. すでに死んだ人々も皆復活するのですか。

イエスさまは死よりよみがえり、ご自分の姿を人々に現されました。そして、天に昇り、父なる神の右に座って、聖霊としてわたしたちに働き続け、わたしたちに永遠の生命をくださいます。イエスさまの復活によって、わたしたちもまた、終わりの日には、一瞬のうちに死者が復活して、朽ちない者とされると聖書は語ります。

終わりの日の復活によって、わたしたちは神さまに最初に創造された時のように、神の完全な似姿へと回復されます。そして、朽ちない生命と体を与えられ、永遠に神と共にいます幸いを与えられます。このとき、わたしたちのいやしい体は、主と共にあって栄光の体へと変えられます。

終わりの時の復活は、すでにその時までに亡くなっていた人々にも起こります。信じた人々はすべてよみがえらされ、イエスさまと共にあって、互いに再び見えることが許されます。

キリスト者は、この終わりの日の復活を信じます。それは、漠然とした期待や願望ではなく、主イエス・キリストが死人の復活の初穂となり、本当に人間の死と罪に打ち勝って、よみがえられた事実によるのです。言い換えれば、イエスさまの復活を信じるとき、終末の信仰もまた確かに与えられます。同時に、その日に備えて待ちつつ、急ぎつつ生きるわたしたちの信仰の生活が整えられていくのです。

日本基督教団全国連合長老会 日曜学校委員会 編
「子どもと共に学ぶ明解カテキズム」より

11月

主題「神を知る」

聖書と説教 交読文 さんびか
7ヨシュア記 22・1~5
「 赦し、愛してくださる神さま 」
17、130、16
14
子どもと大人の合同礼拝
出エジプト記 3・1~15
「 救いのやくそく 」
詩編
77・2~4
讃美歌21
484、186、459
21ローマ 3・9~20
「 自分自身を知る 」
29、129、16
28イザヤ書 40・1~2
「 イエスさまを待ち望む 」
1810、65、16

※14日 子どもと大人の合同礼拝 分級 9:00~、礼拝 10:30~

明解カテキズム 第1章 神を知る

問1
わたしたちが生きるために最も大切なことは何ですか。
神さまを知ることです。
  1. 生きるためにもっとも大切なのは、空気や食物や、父母や兄弟ではないのですか。
  2. 生きているとは、いったいどういうことですか。呼吸をし続けていることですか。

わたしたちが生きるために最も大切なことは、わたしたちの生命の創造者である神さまを知ることです。神さまがわたしたちのかけがえのない生命と人格を創造してくださったのは、わたしたちを愛して、わたしたちが生命をもって生きることを神さまご自身が喜んでくださるからです。神さまを知るとは、わたしたちを創造し、愛し、慈しみ、救ってくださる天の父なる神さまを知ることです。

神さまがわたしたちを愛してくださることは、モーセに語られたように、神さまが「いつも必ず共にいてくださる」(出エジプト記3章12節)ことに表されています。

日本基督教団全国連合長老会 日曜学校委員会 編
「子どもと共に学ぶ明解カテキズム」より

12月

主題「神を知る」

聖書と説教 交読文 さんびか
5ルカ 1・26~38
「 神さまのお言葉どおりに 」
611、50、16
12ルカ 1・39~45
「 神さまの御言葉を信じる幸い 」
1014、65、16
19
クリスマス礼拝
ルカ 2・8~20
「 賛美しながら帰ろう 」
91、67、16
26マタイ 2・13~23
「 全て神さまの御言葉どおりに 」
112、78、16

19日 クリスマス礼拝 9:00~、クリスマス祝会 15:30~

明解カテキズム 第1章 神を知る

問2
なぜ神さまを知ることが最も大切なのですか。
わたしたちの生命は、神さまによって与えられたものだからです。生命の源を知ることによって、わたしたちの生命がどのようなものであるかがわかります。
  1. 生命は、自分の力で生まれたり、成長したりするのではないのですか。
  2. わたしの生命は、父母から与えられたものではないのですか。

わたしたちが学校で教わるのは、人間や動物は、下等な生物から進化して、現在のかたちになったということです。アダムやエバの物語も作り話ではないか、物語としてなら興味はあるけれど、にわかには信じがたいと思うでしょう。

でも、そこからさらに一歩進んで考えてみてください。人間が進化して今の姿になったと考えても構いません。でも、「彼女」でも「彼」でもなく、わたしが「わたし」になった理由は何でしょうか。なぜ、わたしはあの人ではなく、「わたし」なのでしょうか。聖書は、この「なぜ」という問いに答えようとしています。「どのように」人間が人間になったかではなくて、なぜ、「わたし」が「わたし」なのかという問いなのです。

日本基督教団全国連合長老会 日曜学校委員会 編
「子どもと共に学ぶ明解カテキズム」より

1月

主題「神を知る」

聖書と説教 交読文 さんびか
2申命記 7・6~8
「 神さまに選ばれたわたしたち 」
144、99、16
9Ⅱコリント 5・16~21
「 キリストと結ばれる 」
133、99、16
16ルカ 15・11~32
「 おかえり! 」
155、122、16
23マタイ 19・16~22
「 それから、わたしに従いなさい 」
126、123、16
30ルカ 10・25~37
「 愛に生きるための力 」
178、108、16

明解カテキズム 第1章 神を知る

問3
どうしたら神さまを知ることができますか。
神さまは、目に見えない方ですが、イエスさまを通して神さまを知ることができます。神さまは、ご自分の御子イエス・キリストをわたしたちに与えてくださいました。わたしたちはこの御子イエス・キリストによって神さまを知ることができます。
  1. 神さまが、イエスさまをわたしたちにくださったというのは、どういうことですか。
  2. なぜイエスさまを通してでなければ、神さまを知ることができないのですか。

どこに行ったら神さまに出会えますか。神さまはどこにおられるのでしょうか。神さまは目に見えない方ですから、お友達に会うように出会うことはできません。でも、神さまは、わたしたちのために、神さまに出会う道を教えてくださいました。それは、イエスさまという「真理の道」を通っていけばよいのです。

それでは、その道はどこから始まっているのですか。わたしの家から遠いのでしょうか。あそこの角を曲がったら次にどのように行けばよいのでしょうか。

早く、その道にたどり着きたい気持ちはよくわかります。でも、神さまに出会う道は、玄関を出て、右に曲がって、さらに直進して……というふうにしてたどりつける道ではありません。神さまに出会う道は、聖書の中にあります。目に見えない神さまですから、聖書が記す神さまの言葉を通して、わたしたちは神さまのもとへと導かれます。ちょうど、飼い葉おけに寝かされている赤ん坊のイエスさまのように、聖書の中に神さまの独り子がおられるのです。この「しるし」を通して、神さまは、わたしたちが天の神さまに出会う道すじを示してくださったのです。

聖書の中に示された神さまの子を通して、神に至る道を見つけ出した人は幸いです。その道は、永遠の生命に至る道です。その道をたどる人は、一人も滅びることなく、神さまの救いへと入れられます。

日本基督教団全国連合長老会 日曜学校委員会 編
「子どもと共に学ぶ明解カテキズム」より

2月

主題「聖書」

聖書と説教 交読文 さんびか
6マタイ 25・14~30
「 あなたならできる 」
1610、9、16
13ヨハネ 15・1~10
「 イエスさまはぶどうの木 」
187、60、16
20マタイ 5・13~14
「 私たちは地の塩、世の光 」
111、121、16
27マタイ 5・43~48
「 神さまの子供らしく 」
212、123、16

明解カテキズム 第2章 聖書

問4
それではイエスさまのことを何によって知ることができますか。
聖書によって知ることができます。
  1. 聖書とは何ですか。聖書とは、旧約聖書39巻と新約聖書27巻の全体のことです。
  2. 旧約聖書も、新約聖書も神さまがわたしたちを徹底して愛してくださったということを語っています。イエスさまのことを語っているのです。

わたしたちは、イエスさまのことを聖書によって知ることができます。聖書もまた、神さまがわたしたちにくださったプレゼントです。誕生日に本をプレゼントしてもらうことがあるでしょう。何気なく読み進めていくうちに本の世界に引き込まれ、感動し、涙を流したり笑ったりすることがあると思います。聖書も、わたしたちに感動を与えます。しかし、聖書が他の書物と違うのは、主人公がいつも神さまとその独り子イエスさまであるということです。 さらに、聖書を書いた人々も、主人公である神さまの霊の導きによって、神さまに感動させられて神さまのことを書いたということです。言い換えれば、聖書を書いた人々が自分の考えや思想を明らかにしたのではなくて、神さまの力によって、神さまのご計画に従って、神さまを近くに感じながら、神さまのことを書いたということです。ここに、聖書が書かれたはっきりした目的があります。ですから、わたしたちも聖書を読むことによって、神さまがくださる聖霊による感動を味わうことができます。

聖書は、旧約聖書39巻と新約聖書27巻、合わせて66巻から成っています。聖書のどの部分も、神さまの霊の働きによって書かれています。そのすべてが、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を与えてくれます。この一点について、聖書の各書は一致しています。 ですから、聖書の中に患者を治療する方法や自然のしくみ、数学の解答などを求めても、失望に終わるでしょう。しかし、どのような医者になるべきか、自然や世界とは何か、歴史とは何かなどをはっきりと教えてくれます。

日本基督教団全国連合長老会 日曜学校委員会 編
「子どもと共に学ぶ明解カテキズム」より

3月

主題「聖書」

聖書と説教 交読文 さんびか
6マタイ 6・25~34
「 思い悩むのではなく、まず、神を求めよう 」
31、97、16
13マタイ 7・1~5
「 神さまのものさしで 」
43、58、16
20マタイ 7・7~12
「 求めなさい 」
52、54、16
27ルカ 9・21~27
「 神さまとともに生きる 」
74、84、16

明解カテキズム 第2章 聖書

問5
わたしたちは、聖書の言葉をどこで聴くことができますか。
教会の礼拝においてです。礼拝で聖書が読まれ、説教がなされるとき、生ける神さまと主イエス・キリストがはっきり示されます。
  1. 聖書はだれが書いたのですか。
  2. 聖書が難しいと感じるとき、どうしたらよいのでしょうか。

聖書は、教会の礼拝において、説教されることによって、神さまの言葉になります。聖書の言葉の説教は、今も生きて働いておられる復活の主イエス・キリストをはっきりと指し示します。今から二千年前、しかも日本とは隔たった古代のイスラエルに生きたイエスさまが、わたしたちの教会の礼拝に臨んでくださり、わたしたちを愛し、罪を赦し、慰め励ましてくださいます。

復活の主イエス・キリストは、目には見えませんが、聖書の言葉を聴くことによって、はっきりとここにおられることを知ることができます。目をつむって耳を澄ましてみましょう。日曜学校の先生や友達がそこにいるのが分かるでしょう。笑い声や息づかい、話し声が聞こえます。聖書もまた、主イエスご自身の言葉と主について語った言葉を通して、よみがえられたイエスさまが、わたしたちの真ん中におられることを示します。聖書を読むと、そこに神さまの霊とともに、その霊によって生きた人々の息づかいも感じることができます。

そのような聖書は、神さまの霊感によって、すなわち神さまご自身によって書かれました。確かに、福音書を書いた人々は、マタイやマルコ、ルカ、ヨハネです。また、使徒パウロもたくさんの手紙を書きました。これら聖書の各文書は、人間の手によるものですが、聖霊の導き、すなわち神さまご自身の働きによって書かれたものです。ですから、聖書を書いたのはわたしたち人間ではなくて、神さまご自身であると言えるのです。

日本基督教団全国連合長老会 日曜学校委員会 編
「子どもと共に学ぶ明解カテキズム」より