日曜学校 月報集

2009年度の月報です。

下線の付いたさんびかは「改訂版こどもさんびか」です。

2010年度

4月

主題「使徒信条 (2)」

聖書と説教 交読文 さんびか
5ルカ 22・54~64
「 わたしは知らない 」
611、53、16
12
イースター礼拝
マタイ 28・1~10
「 復活されたイエス様 」
75、90、16
19マタイ 4・1~4
「 神さまの言葉を聴いている私たち 」
912、51、16
26マタイ 13・1~9
「 いっしょうけんめい聞く 」
101、56、16

明解カテキズム 第14章 使徒信条 (2)全能

問26
「我は全能の父なる神を信ず」の「全能」とは、どのような意味ですか。
「全能」とは、神さまが何でもおできになるということです。でも一番大切なことは、神さまがご自分を低くして、私たち人間を心から愛してくださるということです。愛せない者をも愛することができるということこそ、本当の「全能」なのです。
  1. 「全能」とは、スーパーマンのような方という意味ですか。私たちも、神さまのように「全能」になれますか。
  2. 神の御子イエス・キリストも全能なる方ですか。

天地を造られた神は、全能の神です。全能とは、神さまがスーパーマンのように何でもおできになるということではありません。私たち人間の目には、到底不可能であると思われることを可能にしてくださる神さまのご意志と、愛の大きさと、測りがたさが全能と呼ばれます。

神さまは、私たちを愛してくださったゆえに、御子イエス・キリストを私たちの世界に送ってくださいました。これが、神さまの全能ゆえになされた出来事です。また、神さまは、イエスさまをマリアというガリラヤのおとめから生まれさせてくださいました。私たちを罪から救うために「神にできないことは何一つない」という天使ガブリエルの言葉が、全能の意味なのです。

日本基督教団全国連合長老会 日曜学校委員会 編
「子どもと共に学ぶ明解カテキズム」より

5月

主題「使徒信条 (3)」

聖書と説教 交読文 さんびか
3ルカ 4・16~21
「 神さまのことば 」
112、50、16
10ヨハネ 16・13
「 神さまの言葉を聞く 」
143、122、16
17Ⅰコリント 10・16
「 しゅ われを あいす 」
135、35、16
24マルコ 1・1~8
「 洗礼を受けよう 」
154、20、16
31
ペンテコステ礼拝
使徒言行録 2・1~13
「 聖霊が降り給うとき 」
127、94、16

明解カテキズム 第14章 使徒信条 (3) 父

問27
なぜ神さまを「父」と呼ぶのですか
全能の神さまは、イエス・キリストの父です。しかし、イエスさまご自身が、神さまを「父よ」と呼ぶことを私たちに許してくださっているからです。
  1. 私たちの人間のお父さんと「父なる」神さまは、どう違うのですか。
  2. 「父よ」「お父さん」と呼びかけることで、神さまが一層近くにおられると感じますか。

神さまを父と呼ぶことができるのは、神さまの独り子であるイエスさまだけです。しかし、私たち人間は、神さまの恵みによって、自分の父を「お父さん」と呼ぶのと同じように、天の神さまを「父」と親しく呼ぶことが許されています。

神さまは、「アッバ、父よ」と呼ぶ霊を送って、私たちが神の子であることを知らせてくださっています。神さまの子どもとされているとは、父なる神さまのたくさんのすばらしさや宝物をいただけるということを意味します。

私たちは、自分の父親から相続して財産をいただくように、天の父なる神さまから、愛というかけがえのない財産をいただきます。神さまからいただいた愛は、信仰と希望とともに、いつまでも変わることのない宝です。このいただいた愛をもって、私たちは隣人を愛します。

日本基督教団全国連合長老会 日曜学校委員会 編
「子どもと共に学ぶ明解カテキズム」より

6月

主題「使徒信条 (4)」

聖書と説教 交読文 さんびか
7マタイ 3・13~17
「 救いへの道 」
168、120、16
14マタイ 3・11
「 感謝して、洗礼を受けよう 」
1710、20、16
21ルカ 18・18~30
「 イエス様にとらえられて 」
19、124、16
28ルカ 18・15~17
「 幼子を招くイエス様 」
311、61、16

明解カテキズム 第14章 使徒信条 (4) イエス・キリスト

問28
「我はその独り子、我らの主イエス・キリストを信ず」とありますが、「イエス・キリスト」という言葉の意味を教えてください。
「イエス」とは、「主は救い」という意味のお名前です。「キリスト」とは、旧約聖書の言葉ではメシアで、「油注がれた者」という意味です。イエスさまがキリストと呼ばれるのは、父なる神さまがイエスさまに油を注いで、まことの預言者・祭司・王として送ってくださったからです。
  1. イエス・キリストという名前は、いわゆる姓名ではないのですね。
  2. イエス・キリストという言葉は、イエスさまが救い主であるという信仰を告白した言葉と言えるでしょうか。

イエス・キリストというお名前を聞いて、イエスが名で、キリストが姓と思っている人も多いと思います。ジョン・レノンのジョンにあたるのがイエスで、レノンにあたるのがキリストという具合です。

しかし、これは誤解です。イエスとは、旧約聖書ではヨシュアにあたる固有の名前で「主は救い」を意味しました。キリストも、元来はヘブライ語で「油注がれた者」(メシア)に由来し、それをギリシャ語に翻訳したとき、キリストという語があてられました。 メシアとは、古代のイスラエルの王が即位するときに頭にオリーブの油を注がれたことに由来し、転じて「王」あるいは「王のような権威を持つ者」を意味しました。つまり、キリストとは王のような救い主を意味し、イエス・キリストとはイエスという名を持つ方が私たちのまことの王であり、救い主であることを言い表した言葉なのです。

日本基督教団全国連合長老会 日曜学校委員会 編
「子どもと共に学ぶ明解カテキズム」より

7月

主題「使徒信条 (5)」

聖書と説教 交読文 さんびか
5出エジプト記 16・35
「 神さまのご飯を食べ続けよう 」
212、135、16
12ヨハネ 15・1~5
「 イエスさまにつながる 」
414、60、16
19Ⅰコリント 11・26~29
「 神さまの子供になろう 」
51、124、16
26ヘブライ 10・19~25
「 イエスさまとの約束 」
82、137、16

明解カテキズム 第14章 使徒信条 (5) 独り子

問29
イエスさまが「独り子」であるとは、どういうことですか。
イエスさまは、神さまとまったく同じ力と権威を持たれる、ただ一人の方です。父なる神さまによって私たちの世界に遣わされた神と等しい方です。
  1. イエスさまを、神と呼ぶことができますか。
  2. 十字架で苦しまれた方が、どうして神の独り子なのですか。

イエスさまが神の独り子であるとは、父なる神さまとまったく同じ力と権威を持たれる方であることを意味します。ヨハネによる福音書が記すように、言(ロゴス)であるイエスさまは、肉体をとって、私たちの世界にお生まれになりました。肉体をとり、私たちをまったく同じ飢えや渇き、苦しみや恐れなどを経験されましたが、神であることをやめることはありませんでした。

つまり、イエスさまが神の独り子であられるとは、イエスさまも神さまとまったく同じように、常に私たちと共におられ、常に変わることなく、私たちを愛し続けられるということです。イエスさまは言(ロゴス)として、天地の創造にも関わり、世界の終りにも関わります。ですから、私たちがイエスさまを神と呼ぶことは、イエスさまに最もふさわしいことです。

日本基督教団全国連合長老会 日曜学校委員会 編
「子どもと共に学ぶ明解カテキズム」より

8月

主題「使徒信条 (6)」

聖書と説教 交読文 さんびか
2詩編 119・129~136
「 大好きな神さまの言葉=聖書 」
63、134、16
9ヨハネ 5・37~40
「 あきらめない愛 」
74、49、16
16ヨハネ 14・6~7
「 イエスさまの手をはなさないで 」
96、120、16
23ルカ 24・13~32
「 神さまに出会う道 」
117、88、16
30Ⅰコリント 15・1~8
「 神さまに包まれているわたし 」
105、135、16

明解カテキズム 第14章 使徒信条 (6) 主

問30
「我らの主、イエス・キリスト」の「主」とはどういう意味ですか。
わたしたちの主人ということです。わたしたちが唯一信頼し、すべてを委ね、従うべき方であるという意味です。
  1. 「主人」とはどういうことですか。
  2. 主なるイエスさまは、どのようにして本当の主人であることをわたしたちに示されましたか。

「我らの主、イエス・キリスト」の「主」とは、主人という意味です。イエスさまだけが、わたしたちの主人であるという信仰の告白がここでなされています。パウロは、自分自身のことを「キリスト・イエスの僕」(ローマの信徒への手紙1章1節)とはっきり語っています。

まことの主人は、僕が信頼して仕え、忠実に従うべき存在です。わたしたちは、主イエス・キリスト以外のものを主人として生きてはいないでしょうか。わたしたちにとって容易に主人となるのは、お金であったり、名誉であったり、自分の欲望であったりします。それら目に見えるものが主人となると、わたしたちはまるで、それに仕える奴隷となって、本当の自分を失います。文字どおり「お金の奴隷」になってしまうのです。

聖書がイエスさまを主人と呼ぶのは、イエスさまがどのような方であるかをはっきりと知っているからです。イエスさまは、何か偉そうなふりをしている「主人」ではありません。自分の権威を笠に着て、僕にあれこれと命令する主人でもありません。むしろ、僕のために生命を捨て、ご自分もまた僕のかたちを取られたご主人です。

ご主人のこのような姿に気付くとき、わたしたちは、主イエスの前にひざまずいて、イエスさまこそ主であると讃美し、告白するでしょう。

日本基督教団全国連合長老会 日曜学校委員会 編
「子どもと共に学ぶ明解カテキズム」より

9月

主題「使徒信条 (7)」

聖書と説教 交読文 さんびか
6出エジプト記 20・1~17
「 神さまのよしとする道 」
1212、46、16
13マタイ 22・37~39
「 イエスさまにつながる 」
131、97、16
20マタイ 4・7~11
「 神様を礼拝しよう 」
153、51、16
27申命記 4・15~19
「 本当の礼拝 」
142、12、16

明解カテキズム 第14章 使徒信条 (7) 聖霊によりてやどり、処女マリアより生まれ

問31
「主は聖霊によりてやどり、処女(おとめ)マリアより生まれ」とはどういうことですか。
イエスさまのお誕生は、神の子が人間となってくださったということです。神さまの力である聖霊によって、イエスさまは、マリアのお腹に宿りました。
  1. 聖霊によってマリアに宿った主イエス・キリストは、私たち人間とは違うということですか。
  2. マリアは、なぜ神の子の母となることを決心したのでしょうか。

聖霊とは、神さまご自身の力であり、神さまご自身です。主イエス・キリストは、神さまの働きかけによって、ガリラヤの一人のおとめマリアを母としてお生まれになりました。まことの人として誕生されたということです。

しかし、この誕生は、同時に神ご自身の働きかけによって、つまり聖霊によって起こりました。つまり、イエスさまは、まことの人であるとともに、神の独り子として誕生されたということです。神さまが、御子イエス・キリストをこのような姿で私たちの世界に送ってくださったのは、私たち人間に真の救いを与えるためでした。 イエスさまは、私たちとまったく同じ肉体をとって人間になられ、私たちの経験する苦しみや死を負って、私たちに徹底的に関わり、愛してくださいました。同時に、イエスさまは、人となっても神の御子であり続け、私たちを罪から救い出してくださいました。

日本基督教団全国連合長老会 日曜学校委員会 編
「子どもと共に学ぶ明解カテキズム」より

10月

主題「使徒信条 (8)」

聖書と説教 交読文 さんびか
5Ⅰヨハネ 4・7~12
「 あなたの宝ものは何 」
186、15、16
12詩編 51・5~6
「 心を洗ってくださる神さま 」
18、119、16
19ローマ 7・7~12
「 神さまのくださったいましめ 」
37、129、16
26使徒言行録 5・27~32
「 神さまの愛 」
29、124、16

明解カテキズム 第14章 使徒信条 (8) ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け

問32
「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」とはどのようなことですか。
「ポンテオ・ピラト」とは、イエスさまを処刑したローマの総督です。イエスさまは、この世の権力によって、最も苦しい十字架刑で処刑されました。 イエスさまは、わたしたち人間が経験するあらゆる苦難と恐れを耐え忍んでくださいました。
  1. イエスさまが処刑されたのは、イエスさまも何か犯罪を犯したことによるのでしょうか。
  2. イエスさまを十字架につけろと叫んだのは、ユダヤの群集たちではなかったですか。

イエスさまは、ローマから派遣されて、ユダヤの地を支配していたポンテオ・ピラトの時代に、ピラト自身の決定によって、十字架刑に処せられました。十字架刑は、重罪を犯したローマ市民権を持たない人にのみ科せられた最高刑罰でした。処刑される人間は、釘で打ち付けられた木組みの上で長い時間苦しむとともに、人々の目にさらされ、見世物にされました。同時に、私たち人間の残忍な心や復讐心を満足させる悲惨な刑罰でもあったのです。

神の御子であるイエスさまは、何の罪も犯さなかったのに十字架の苦難を負われました。十字架の刑罰の残酷さ以上に、無実の人間の処刑は、どれほどその苦難を増したことでしょうか。イエスさまは、私たち人間が経験する最も大きな苦難を引き受け、耐え忍んでくださいました。

イエスさまを十字架につけろと叫んだのは、イエスさまの時代のユダヤ人たちでした。しかし、この叫び声の背後には、イエスさまにあれほど愛され、行動を共にした弟子達の姿が隠れています。さらに、通りすがりの人々の悪口、ローマの兵士達の嘲笑が十字架のまわりに渦巻きました。

日本基督教団全国連合長老会 日曜学校委員会 編
「子どもと共に学ぶ明解カテキズム」より

11月

主題「使徒信条 (9)」

聖書と説教 交読文 さんびか
1創世記 2・18~25
「 神さまが中心にいるよ 」
28、7、16
8
子どもと大人の合同礼拝
創世記 15・1~18
「 神の民の選び 」
9讃美歌21
24、120、451、184
15マタイ 15・10~20
「 神さま、真実の言葉を口に入れてください 」
411、127、16
22ルカ 12・13~21
「 神さまが守ってくださる 」
59、58、16
29イザヤ書 9・1~5
「 イエスさまを待ち望む 」
610、64、16

※8日 子どもと大人の合同礼拝 分級 9:00~、礼拝 10:30~

明解カテキズム 第14章 使徒信条 (9) 十字架につけられ

問33
「十字架につけられ」とは、どのようなことですか。
神様に呪われたということです。それは、わたしたちが神さまに赦され、永遠の祝福を受けるためです。
  1. 十字架は呪いのしるしということですか。
  2. なぜ、イエスさまが呪われなければいけないのですか。

イエスさまが十字架につけられたとは、イエスさまが父なる神さまの呪いをご自分で引き受けられたということです。

神さまは、罪ある者を罰するために、裁きのための怒りと呪いを注ぎます。ガラテヤの信徒への手紙3章に書かれているように、「木にかけられた者は皆、呪われている」と考えられていました。しかし、イエスさまは、わたしたち人間と違って一切罪を犯すことも無く、神の憤りを招くような方ではありませんでした。それどころか、常に父なる神さまのご意志に従い続けた御子であられました。

だとするなら、なぜイエスさまは十字架におかかりになったのでしょうか。それは、本来神様から呪われ、怒りを注がれるはずのわたしたち人間に代わって、イエスさまご自身が盾となってくださったからです。

元来、十字架につけられた者の苦難と死は、神さまから呪われたしるしと考えられました。しかし、イエスさまが十字架につけられたのは、イエスさまの罪や悪行のゆえに呪いを受けるためではなく、わたしたち人間の罪にあるのです。本来ならわたしたちが受けるべき神の裁きと呪いを、神の御子イエスさまがご自分の生命で受け止め、わたしたちを助けてくださったのです。

イエスさまがゴルゴタの丘で、「自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い」という通行人の声にじっと耐えられたのも、わたしたちを救おうとする強い意志とご計画ゆえだったのです。

日本基督教団全国連合長老会 日曜学校委員会 編
「子どもと共に学ぶ明解カテキズム」より

12月

主題「使徒信条 (10)」

聖書と説教 交読文 さんびか
6ルカ 1・5~25
「 こころを静かにして 」
102、66、16
13マタイ 1・18~25
「 恐れず、迎えなさい 」
91、50、16
20
クリスマス礼拝
ルカ 2・1~7
「 イエスさまは小さな赤ちゃんになって 」
135、74、16
27マタイ 2・13~23
「 救いへの一歩 」
113、68、16

20日 クリスマス礼拝 9:00~、クリスマス祝会 15:30~

明解カテキズム 第14章 使徒信条 (10) 死にて葬られ、陰府にくだり

問34
「死にて葬られ、陰府にくだり」の意味を説明してください。
イエスさまは、本当に死なれたのです。死者の世界である「陰府」にくだり、私たちと同じ経験をなさったのです。神の子の死という事実が、ここには言い表されています。
  1. 神の子が死なれるということは、イエスさまは神の子ではなかったという証拠にならないでしょうか。
  2. イエスさまを墓に納めたのは、だれだったのでしょうか。

聖書の世界の人々は、神さまのいる天と人間が生きている地、そして死んだ人々が赴く陰府という三つの世界を想定して物事を考えました。イエスさまが死んで葬られ陰府にくだられたとは、イエスさまが、ただ一時的に呼吸が止まり、仮に肉体が死んだということではなく、私たち人間の死とまったく同じ死を経験され、死者の世界にまでくだられたという信仰を言い表しています。神の御子は、格好だけ死んだのではなく、本当に死なれたのです。

日本基督教団全国連合長老会 日曜学校委員会 編
「子どもと共に学ぶ明解カテキズム」より

1月

主題「使徒信条 (11)」

聖書と説教 交読文 さんびか
3ルカ 11・5~13
「 祈りを教えてください 」
144、19、16
10創世記 32・23~31
「 神様に勝ったヤコブ 」
126、57、16
17マタイ 6・5~13
「 わたしたちの父に祈る 」
178、19、16
24マルコ 14・32~36
「 天の父なる神さま 」
59、83、16
31ヨブ記 1・20~22
「 神さまのほうが大事 」
167、135、16

明解カテキズム 第14章 使徒信条 (11) 三日目に死人のうちよりよみがえり

問35
「三日目に死人のうちよりよみがえり」の意味を説明してください。
お墓に納められたイエスさまは、約束のとおり三日目、すなわち日曜日の朝に復活されました。それによって、イエスさまがまことに神の子であられたことがすべての人に明らかなりました。
  1. 死んだ人間が復活するなど到底信じられません。キリスト教信仰を持つために、この部分を省いてよいでしょうか。
  2. 主の復活の場面は、新約聖書にはどのように描かれていますか。

アリマタヤのヨセフによって墓に納められたイエスさまは、約束どおり、三日目に、すなわち日曜日の朝に死より復活されました。イエスさまの復活によって、十字架上で苦しみ死なれたイエスさまが、本当に神の子であられたことが、誰の目にも明らかになりました。

死んだ人間が復活するということは、私たちの経験を超えた出来事です。私たちの経験に照らせば、到底信じることができない事柄です。しかし、イエスさまの復活という出来事の証言に私たちの心を向け、それを出発点として聖書を読み直すとき、証言の背後にある復活という出来事の真実に気付かされます。 同時に、復活によって、イエスさまのご生涯と十字架のすべての事柄が、私たちの救いのためであったことが明らかにされます。つまり、イエスさまの復活こそ私たちの信仰の要であり復活の出来事とその信仰なくしては、キリスト教信仰の内容を理解することはできません。ですから、この「三日目に死人のうちよりよみがえり」の部分を省いて、キリスト教信仰の内容を理解することはできません。福音書が例外なく、イエスさまの十字架と復活の出来事をはっきりと証言しているのも、同じ理由からです。

日本基督教団全国連合長老会 日曜学校委員会 編
「子どもと共に学ぶ明解カテキズム」より

2月

主題「使徒信条 (12)」

聖書と説教 交読文 さんびか
7ルカ 17・20~21
「 もうすぐ神様の国が完成する 」
111、6、16
14マタイ 16・21~24
「 みこころをおこなってください 」
410、84、16
21出エジプト記 16・12~16
「 求めて祈ろう 」
212、136、16
28ルカ 18・9~14
「 わたしたちを赦してくださる方 」
31、57、16

明解カテキズム 第14章 使徒信条 (12) 天に昇り

問36
「天に昇り」とはどういうことですか。
復活されたイエスさまは、父なる神のおられる天に昇られました。それゆえ、今わたしたちは、直接手で触れたり、目で見たりはできませんが、イエスさまは天から聖霊を注ぎ、わたしたちの信仰を導いてくださいます。
  1. 天とはどこにありますか。宇宙の彼方でしょうか
  2. 主イエスが天に昇られた場面を記した新約聖書の箇所を教えてください。

使徒言行録1章が記すように、復活されたイエスさまは、使徒たちが見ている前で天に上げられました。イエスさまは昇天されたのです。イエスさまが赴いたところは、神様の右の座、すなわち神さまとまったく等しいところでした。天とは、宇宙の果て、銀河系の彼方というような私たちの想像する空間ではなくて、復活の主イエスが父なる神と共におられるところです。

イエスさまは、父なる神のおられる天に帰られたゆえに、今私たちはイエスさまのことを直接見たり手で触れたりすることはできません。しかし、聖霊の働きによって、神様の言葉を通して、生きたイエスさまと出会うことができます。礼拝において説教がなされるとき、聖霊の言葉が生けるイエスさまを私たちのところに運び、イエスさまが、まことに私たちと共におられるという恵みの経験を準備してくださるのです。

天におられるイエスさまは、地上のご生涯を過ごしたときと同じように、私たちを愛し、憐れみ、また私たちの犯す罪に対しては、厳しい叱責と裁きを持って臨まれます。神様の前に私たちが隠し通すことができるものは何一つありません。イエスさまは、天におられ、父なる神と共に、全能の力をもって、私たちを救いへと導いてくださいます。

日本基督教団全国連合長老会 日曜学校委員会 編
「子どもと共に学ぶ明解カテキズム」より

3月

主題「使徒信条 (13)」

聖書と説教 交読文 さんびか
7ルカ 4・1~12
「 こころみにあったイエスさま 」
72、80、16
14ヨハネ 14・13~14
「 思い切ってお祈りしてみよう 」
53、58、16
21歴代誌上 16・28~36
「 アーメンとハレルヤ 」
185、41、16
28ルカ 23・44~56
「 真っ暗闇になった昼 」
64、79、16

明解カテキズム 第14章 使徒信条 (13) 全能の父なる神の右に坐したまへり

問37
「全能の父なる神の右に坐したまへり」の意味を説明してください。
全能の父なる神の右とは、全能の神さまと等しい地位という意味です。復活の主は、神の御力を持って私たちを守り、導き、支えていてくださいます。そのイエスさまをわたしたちは礼拝しています。
  1. 父なる神と御子イエス・キリストは、同じ方、本質を等しくする方といえますか。
  2. 神の右に坐しておられる主は、わたしたちと同じ体を持っておられるのですか。

すでに指摘しましたように、全能の父なる神さまは、スーパーマンのようにわたしたち人間が期待することにこたえてくださる方ではありません。わたしたちがどこにいても、わたしたちを愛し、育て、救ってくださることが全能の意味でした。イエスさまが復活して天に上げられ、全能の父なる神の右にお座りになったとは、全能の神さまと等しく、イエスさまが、わたしたちがどこにいても愛し続け、わたしたちを救いへと導いてくださることを意味します。

このような意味で、父なる神と御子イエス・キリストは、同じ方、本質を等しくする方であると言えます。

日本基督教団全国連合長老会 日曜学校委員会 編
「子どもと共に学ぶ明解カテキズム」より