日曜学校 月報集

2008年度の月報です。

下線の付いたさんびかは「改訂版こどもさんびか」です。

2009年度

4月

主題「イエスの奇跡と権威」

聖書と説教 交読文 さんびか
6詩編 139・1~10
「 神さまを好きになる 」
98、137、16
13ヨブ記 1・21~22
「 神さまを信じること 」
1110、135、16
20ヨハネ 3・16~17
「 神さまを知らせてくださるイエスさま 」
109、124、16
27ルカ 24・44~49
「 素敵なプレゼント 」
311、92、16

13日 進級式

明解カテキズム 第6章 イエスの奇跡と権威

問10
地上に生きたイエスさまはただの人間だったのでしょうか。
いいえ、違います。イエスさまは、まことの人であると同時に、まことの神である方です。
  1. イエスさまは、半分人で半分神だったのですか。
  2. イエスさまは神なのに、どうして死んでしまわれたのですか。

地上に生きられたイエスさまは、私たちとまったく同じ体を持ち、飢え渇いたり、悩んだり、悲しんで涙を流されるような一人の人間でした。「言(ことば)は肉となった」とは、まことの言であるイエスさまが、私たちとまったく同じ肉体をとって人となられたことを意味しています。

しかし、イエスさまは、単なる人間であったのではなく、まことの人であり、同時にまことの神であられました。イエスさまが半分人であり、半分神であったと考えることは間違っています。

聖書は、十字架上で苦しみ死なれたイエスさまが、三日目に復活し、よみがえられたことを証言しています。主イエスの復活の体は、十字架の傷跡をはっきりと残したからでした。イエスさまは、十字架の苦しみと死によって、ご自分が神の子でありながら僕のようにご自分を低くされ、徹底して人に仕えてくださいました。 イエスさまが私たち罪人のために死に至るまでへりくだられたところに、イエスさまはただの人ではなく、私たちを徹底的に愛してくださる神さまの独り子であることが明らかにされています。

日本基督教団全国連合長老会 日曜学校委員会 編
「子どもと共に学ぶ明解カテキズム」より

5月

主題「教会の信仰」

聖書と説教 交読文 さんびか
4Ⅰコリント 14・23~25
「 礼拝で会ってくださる神さま 」
1412、4、16
11
ペンテコステ礼拝
ヨハネ 14・25~27
「 聖霊が答えを下さる 」
121、93、16
18詩編 8・4~10
「 神さまにかたどってつくられた人間 」
1513、112、16
25創世記 11・1~9
「 真の慰めと希望 」
1614、134、16

明解カテキズム 第8章 教会の信仰

問15
教会の人々は、何を信じているのですか。
それは、使徒信条に表されています。
  1. 使徒信条とは何ですか。
  2. 使徒信条の全文を言ってみましょう。
  3. なぜ使徒信条を繰り返し唱えるのですか。

使徒信条とは、わたしたちの教会が受け継ぐべき聖書の信仰を要約し、父・子・聖霊なる神を讃美告白する信仰の言葉です。使徒信条は、古代ローマ帝国時代の教会が洗礼式で用いた信仰の言葉に起源をもちます。 キリスト教が迫害されていた2~3世紀に、人々は教会に集い、父・子・聖霊なる三位一体の神への信仰を告白し、洗礼を受け、罪の体が一度死んで、新しい生命に生きる恵みの経験を与えられました。

当時の洗礼式の様子は次のようなものでした。受洗者は司教や司祭と共に水辺に降りて行き、最初に「あなたは全能の父である神を信じますか」と問われます。「はい、信じます」と答えると、一度目の水に浸されます。 「あなたは処女マリアから生まれ、ポンテオ・ピラトの下で苦しみを受け、死んで葬られ、三日目に甦って、天に上げられたイエス・キリストを信じますか」とされに問われます。「はい、信じます」と答えると二度目の水に浸されました。 最後に、「あなたは聖霊を信じますか」と問われ、「はい、信じます」と答えると、三度目の水に浸されて洗礼式が終了しました。

洗礼式の際に洗礼志願者の信仰を問う言葉が使徒信条のもとになりました。ですから、使徒信条は、信仰を同じくする人々の、単純な意味での信仰の決意文あるいは表明文ではありません。また、信仰を持つ人々の団結のしるしでもありません。 御子イエス・キリストが私たちのために天の父より遣わされた方であり、私たちが主イエス・キリストにあってキリストのものとされているゆえに一つであることが、明らかになります。

日本基督教団全国連合長老会 日曜学校委員会 編
「子どもと共に学ぶ明解カテキズム」より

6月

主題「礼拝」

聖書と説教 交読文 さんびか
1ホセア書 11・1~9
「 待ち続けてくださる神さま 」
172、40、16
8ヘブライ 4・14~16
「 神さまに近づこう 」
14、49、16
15フィリピ 2・6~11
「 まことの神であり、まことの人 」
33、79、16
22ヘブライ 7・26~28
「 大祭司イエスさま 」
26、80、16
29ルカ 11・14~23
「 イエスさまの力は、どこから 」
45、81、16

明解カテキズム 第9章 礼拝

問17
どこで神さまを正しく知ることができますか。
父なる神さまを礼拝し、キリストをあがめるところで、私たちは神さまを知ることができます。
  1. 神さまを知ることと、友だちや世界の事柄について知ることとの間には違いがあります。
  2. 神さまを礼拝し、あがめることは具体的にはどういうことですか。

神さまを知るためには、私たちが神さまを信じ、あがめることが必要です。神さまを知ることと私たちが友だちや世界の事柄について知ることとの間には、共通するところと違うところがあります。 友だちについて知るためには、友だちと出会って、遊んだり話したりすることが必要でしょう。神さまを知るためにも、祈ることで、神さまとお話することが必要です。神さまの言葉に耳を傾けて聴き、神さまの呼びかけに対して、「はい、神さま」と応えることで、神さまがどのような方であるかを知ることができるのです。 神さまの言葉は、聖書が記す神さまの独り子イエスさまご自身です。イエスさまを見るとき、私たちは神さまを知ることができます。

しかし、神さまは、私たちが神さまを知ろうとするときに、神さまのほうから私たちに姿を示してくださいます。神さまが聖霊によって私たちに働きかけて、私たちは神さまを知るようになるのです。この点で、神さまを知ることと世界の事柄を知ることとの間には、大きな違いがあります。

日本基督教団全国連合長老会 日曜学校委員会 編
「子どもと共に学ぶ明解カテキズム」より

7月

主題「礼拝」

聖書と説教 交読文 さんびか
6マルコ 8・34~38
「 イエスさまに従うこと 」
57、85、16
13使徒言行録 2・37~42
「 嬉しい呼びかけを聞こう 」
79、93、16
20Ⅰコリント 15・1~11
「 教会が信じていること 」
610、135、16
27ヨハネ 16・7~15
「 私たちを一つにするところ 」
88、131、16

明解カテキズム 第9章 礼拝

問18
神さまを正しく礼拝し、あがめる仕方を教えてください。
神さまを心から信頼し、神さまのお言葉を聞き、信仰を告白し、讃美歌を歌い、祈ることです。
  1. 礼拝することと祈ることは同じですか。
  2. 神様を信頼するとは、どのようにすればよいのでしょう。

神さまを正しく礼拝し、あがめるためには、日曜学校(教会学校)の礼拝に出席することが大切です。礼拝では、讃美歌を歌い祈りを合わせ、神さまのお言葉を聞き、信仰を告白します。また、私たちが神さまの恵みに応えて、すべてをささげるしるしとして献金をします。

これらの礼拝のすべてが、神を正しく礼拝し、あがめるための行為です。私たちの一週間の生活は、すべてこの礼拝から始まります。祈りは礼拝の中でもなされますが、同時に私たちが家庭や学校で、食前や寝る前にもささげられます。 その意味で、祈りはまったく同じではありません。祈りは、個人で隠れたところで日々行うことができます。礼拝は、教会という信仰の共同体がささげる公的な事柄です。

神様を信頼することは、わたしたちが、造り主であり救い主である神さまを心から愛することです。さらに神様を愛するゆえに、私たちは神さまの言葉を心にとめ、親しい人々にもそれを伝えることを怠りません。

初代の教会の人々は、主の日ごとにひたすら心を一つにして礼拝を守りました。同時に、喜びと讃美をもって共に集い、多くの人々が救いへと招かれました。神様を信頼する生活とは、神様を信頼する多くの人々と共に、教会における礼拝の生活を続けることです。

私たちは、雨や風の日には教会へ行きたくないと思うかもしれません。しかし、礼拝は、私たちが神様に奉仕するというより、神さまが私たちに奉仕をしてくださった出来事。すなわち、主イエスの受肉と謙遜と十字架の死の出来事に私たちがお応えするときです。イエスさまの苦しみを覚えるなら、私たちはどんなにつらくても教会へと押し出されて教会の礼拝に出ようと考えるはずです。

日本基督教団全国連合長老会 日曜学校委員会 編
「子どもと共に学ぶ明解カテキズム」より

8月

主題「信仰の表明」

聖書と説教 交読文 さんびか
3イザヤ書 43・1~7
「 どこまでも、共にいる 」
911、130、16
10創世記 28・10~22
「 わたしはあなたと共にいる 」
1013、45、16
17ルカ 19・1~10
「 あなたの家にとまりたい 」
1212、132、16
24Ⅰコリント 13・1~13
「 愛がなければ無に等しい 」
1314、125、16
31ヨハネ黙示録 21・1~4
「 いつまでも神さまといっしょに 」
111、134、16

明解カテキズム 第10章 信仰の表明

問19
神さまを礼拝するとき、わたしたちは心の中で、祈り信頼していればよいのでしょうか。
いいえ、違います。神さまを正しく礼拝し、祈るとは、心の中だけではなくて、口に出して、救いと幸いは神さまからだけ来ることを言い表すことです。
  1. 口に出して、言い表す言葉をどうやって見つけるのですか。
  2. 口に出して言い表しさえすれば、心で信じていなくてもよいのですか。

私たちが神さまを信頼するとき、それは心の中だけのことではありません。神さまへの信頼は、私たちの決意や行動となって必ず表されます。

教会の礼拝に出かけるのも、自分自身と大切な時間を神様にささげることにほかなりません。全身全霊で神さまを信じ、神様に従うということが、神様を信頼することです。

ですから、私たちが神さまを信頼するとき、心の中でだけそう思っているというのではなく、口に出して、「神さま、わたしはあなたを信じます」と言うことが大切です。使徒ペトロは「あなたはメシア、生ける神の子です。」と信仰を告白しました。

パウロは「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。」と述べています。

神さまを信じていることを言い表す言葉は、私たちが見つけ出すのではなく、聖書と教会が私たちに伝えてくれます。初代の教会は、イエスさまのご生涯とそこで語られた教え、そしてイエスさまの死と復活を伝承で口から口へと伝えました。使徒言行録15章によれば、「口からの福音の言葉」によったのです。

日本基督教団全国連合長老会 日曜学校委員会 編
「子どもと共に学ぶ明解カテキズム」より

9月

主題「信仰の表明」

聖書と説教 交読文 さんびか
7コロサイ 1・15~20
「 神さまを知る礼拝 」
142、100、16
14使徒言行録 2・43~47
「 皆一つになって 」
163、93、16
21使徒言行録 15・6~11
「 教会は宣べ伝える 」
155、95、16
28詩編 115・1~11
「 神さまの愛に生かされて 」
174、127、16

明解カテキズム 第10章 信仰の表明

問20
信仰を口で言い表すとき、最も大切なことは、何ですか。
私たちが、ただお一人の神さまに心から信頼することです。
  1. 一人の神さまに信頼するとは、どういうことでしょうか。
  2. 神さまに信頼するとは、人間の親や兄弟を信頼することと違いますか。

信仰を口で言い表すとき、最も大切なことは、私たちがただ一人の神さまに心から信頼することです。ただ一人の神さまは、イエス・キリストの父なる神さまです。また聖霊を注いで、私たちの教会を建ててくださった神さまです。口で、お一人の神さまに信頼しますと告白するとき、私たちはこの神さま以外のものを神さまとしないことを言い表しています。

どんなに美しい自然も、日本の伝統的な神さまや仏さまも、立派で偉大な人間も、私たちは神さまとして信頼することはありません。私たちの信じる神さまは、野の花や空の鳥を養い、育て、生かしてくださる方です。明日の食べ物のことを思い悩まなくても、それらを備え、私たちにくださる神さまです。そして、私たちの世界を支配して、神さまの御国を来たらせる約束を必ず実現してくださる方です。

すでに神さまは、この約束を旧約聖書のアブラハムの時代から私たち人間にくださいました。主なる神さまは、私たちの助けであり盾となってくださいます。私たちが本当に困ったとき、悩んだとき、私たちを助けてくださる方です。

この神さまの助けは、私たちが罪を犯して神さまのもとから離れ、悪を繰り返し行うときにも与えられました。私たちが神さまを憎み、神さまを裏切ったときにも、神さまは諦めることなく、私たちを救い出す約束を実現してくださいました。神さまの独り子イエスさまの到来は、神さまの約束の実現です。

日本基督教団全国連合長老会 日曜学校委員会 編
「子どもと共に学ぶ明解カテキズム」より

10月

主題「神への信頼」

聖書と説教 交読文 さんびか
5Ⅰヨハネ 4・7~12
「 あなたの宝ものは何 」
186、15、16
12詩編 51・5~6
「 心を洗ってくださる神さま 」
18、119、16
19ローマ 7・7~12
「 神さまのくださったいましめ 」
37、129、16
26使徒言行録 5・27~32
「 神さまの愛 」
29、124、16

明解カテキズム 第11章 神への信頼

問21
どうしてわたしたちは神さまに心から信頼することができるのですか。
神さまは、すべてを知っておられる方であり、わたしたちに必要なすべてのものを与えてくださるからです。
  1. 神さまを信頼したいと思いますが、そのために何か根拠がありますか。
  2. 神さまがすべてを知っておられるとはどういうことですか。

神さまは、私たちが必要としているものをすべて知っておられます。かつて、イスラエルの民がモーセに率いられてエジプトを脱出したあと、食べ物がなくて飢え渇いたとき、神さまは必要な分だけ集めることのできる天からのパンを降らせてくださいました。私たちの求めているもの、今の私たちに何が必要かを神さまはよくご存知です。

さらに神さまは、私たちの心の中までも知っておられます。かたちだけ善い行いをしても、私たちの心が偽りであることもあります。神さまに祈っているときさえ、人に見せるためにそうする偽善に陥ることもあります。神さまは、私たちの心の中の誤りも見逃すことがないのです。

神さまは、私たち人間が神様から離れ、あたかも自分の力で生きているかのように思い違いをし、さらに自分だけが正しく、自分だけが幸せになりたいと願う悪い思いを抱いていることを初めから見抜いておられます。神さまは、私たち人間が救われねばならない存在であることをご存知です。

救いを必要とする私たちは、その救いを求めなければなりません。私たちが真剣に神さまの名を呼び、「神さま、助けてください。神さま、罪深い私を救ってください」と願うとき、必ず助けと救いをお与えくださいます。旧約聖書の時代から、救いの約束はイスラエルの人々に与えられておりました。

神さまが私たちを必ず助けてくださる方であることは、神さまが独り子イエス・キリストを私たちの世界にお送りくださったことに、最もはっきりと示されています。このイエスさまの十字架と復活の出来事によって、神さまの救いが実現しました。何度もくり返していますように、神さまは、御子を惜しむことなく、私たちにプレゼントしてくださいました。救いを求める私たちの祈りと願いを聞き届けてくださったのです。ここには神さまの深い愛が示されています。

日本基督教団全国連合長老会 日曜学校委員会 編
「子どもと共に学ぶ明解カテキズム」より

11月

主題「神への信頼」

聖書と説教 交読文 さんびか
2詩編 115・12~18
「 たとえ見えなくても 」
172、40、16
9
子どもと大人の合同礼拝
ヨハネ 1・1~15
「 神の全能 」
詩編
105・1-11
おとなのさんびか
27、194、459、507
16Ⅰコリント 8・6
「 たったおひとりのすばらしい神さま 」
33、79、16
23ローマ 8・31~39
「 イエスさまはわたしの主 」
26、80、16
30ヨハネ 1・6~12
「 大きなやくめ 」
45、81、16

※9日 子どもと大人の合同礼拝 分級 9:00~、礼拝 10:30~

明解カテキズム 第11章 神への信頼

問22
わたしたちはそのような神さまを信頼し続けることができるでしょうか。
いいえ、私たちは、神さまがすべてを知っておられ、良い方であるにもかかわらず、そのような神さまをなかなか信頼し続けることができません。それが私たち人間の惨めさなのです。
  1. どうして、私たちは、神さまを信頼できないのでしょうか。
  2. 私たちが神さまを信頼しないのには、神さまのほうにも責任があるのではないでしょうか。

神さまは、私たちを愛して、私たちのために独り子を十字架にさえおかけになりました。それほど深く私たちの罪の現実を知るとともに、私たちを御子の生命をかけてまで救おうとされたのです。

しかし、私たち人間の愚かさは、神さまの愛とご計画を知らされながら、なかなか神様を信頼し続けることができないところにはっきりと表れています。私たちは、いろいろと都合をつけて、神さまを讃美し、礼拝することを怠ります。感謝をささげることも忘れてしまいます。神さまがまず、私たちに仕えてくださったにもかかわらず、私たちは、むしろ神さまを思い通りに何かをしてくれる存在に、しばしばおとしめます。

日本基督教団全国連合長老会 日曜学校委員会 編
「子どもと共に学ぶ明解カテキズム」より

12月

主題「使徒信条」

聖書と説教 交読文 さんびか
7ルカ 1・26~38
「 おことばどおりこの身になりますように 」
66、50、16
14ルカ 1・39~56
「 約束を守ってくださる神さま 」
108、65、16
21
クリスマス礼拝
マタイ 2・1~12
「 クリスマスは誕生日 」
95、78、16
28エフェソ 1・15~23
「 イエス様はご主人様? 」
117、68、16

21日 クリスマス祝会・聖誕劇 午後3:30~

明解カテキズム 第14章 使徒信条

問31
「主は聖霊によりてやどり、処女マリアより生まれ」とはどういうことですか。
イエスさまのお誕生は、神の子が人間となってくださったということです。神さまの力である聖霊によって、イエスさまは、マリアのお腹に宿りました。
  1. 聖霊によってマリアに宿った主イエス・キリストは、私たち人間とは違うということですか。
  2. マリアは、なぜ神の子の母となることを決心したのでしょうか。

聖霊とは、神さまご自身の力であり、神さまご自身です。

主イエス・キリストは、神さまの働きかけによって、ガリラヤの一人のおとめマリアを母としてお生まれになりました。まことの人として誕生されたということです。

日本基督教団全国連合長老会 日曜学校委員会 編
「子どもと共に学ぶ明解カテキズム」より

1月

主題「人間の惨めさと罪」

聖書と説教 交読文 さんびか
4ヘブライ 2・14~18
「 死に勝利されたイエス様 」
51、89、16
11ルカ 23・13~25
「 わたしたちもそこにいた 」
1210、92、16
18申命記 21・22~23
「 私たちの身代わりとなられたイエス様 」
149、83、16
25Ⅰペトロ 3・18~20
「 イエス様が苦しまれた 」
1711、85、16

明解カテキズム 第12章 人間の惨めさと罪

問31
そのような人間の惨(みじ)めさは、何によってわかりますか。
それは神さまがくださった律法によってわかります。
  1. 律法とは何ですか。
  2. 律法とは、私たち人間に何を求めるのでしょうか。

私たちが神さまとしっかりと結びつくことができず、神さまの言うことを聞かないとき、私たちは罪にとらわれた惨めな状態にあります。なぜなら、私たちは、神さまから最も遠くに離れてしまっているからです。 この惨めな有様は、まことの神さまにつながっていなさいという命令を私たちが聴いたときに初めて分かります。この神さまのご命令は、私たちを愛し、救ってくださる神さまご自身から発せられた律法(とりわけ十戒)の言葉に最もよく示されています。

律法は、神さまが私たち人間にくださった命令です。私たちは、神さまのご命令に十分従うことができませんから、律法を聴くときに自分自身の罪が明らかにされます。 しかし、同時にイエスさまの到来によって、その罪が赦され、もはや律法の下に生きるのではなく、福音の恵みの下に生きることが許されていることを知ります。そのとき、律法は、私たちの罪を明らかにするだけではなく、私たちの感謝の生活を導くものであることが分かります。

神さまのご命令に背いて神さまから手を離してしまったときには、私たちは自分の力で生きているのだという思い上がりに陥って、罪によって支配されてしまいます。イエスさまの時代の人々もそうでした。 神の御子イエスさまが地上に来て、私たちに最も近いところで生きてくださったにもかかわらず、イエスさまを憎み、殺してしまいました。イエスさまが共に歩んでくださり、イエスさまが扉を開けて私たちのところに来られたのに、イエスさまなんか知らないと言って、イエスさまを拒みました。

日本基督教団全国連合長老会 日曜学校委員会 編
「子どもと共に学ぶ明解カテキズム」より

2月

主題「救い」

聖書と説教 交読文 さんびか
1Ⅰコリント 15・12~22
「 キリストは復活されました 」
22、135、16
8ヨハネ 14・1~3
「 わたしたちの本当の家 」
34、120、16
15コロサイ 3・1~11
「 私たちとイエスさま 」
13、126、16
22マタイ 24・45~51
「 思いがけない時 」
45、85、16

明解カテキズム 第13章 救い

問24
神さまを信頼しない私たちがどうして救われるのですか。
神さまが私たちに与えてくださった、御子イエス・キリストによって救われます。
  1. 惨めな私たちが救われるとは、どのようなことですか。
  2. イエス・キリストが私たちへのプレゼントとはどういうことですか。

私たちがどれほど神さまから遠く離れていても、あるいはアダムとエバのように木の間にうまく身を隠していても、神さまは、ご自分から私たちに近づいて私たちを見つけ出し、救ってくださいます。

神さまのこのような徹底した愛は、神さまが一番大切にしていた御子イエスさまを、私たちの世界にプレゼントしてくださったことに最もよく表れています。

神様から遠く離れ惨めな状態にある私たちが救われるのは、御子イエス・キリストが、私たちの罪に満ちた世界に来られたからです。私たちは、イエスさまの誕生とご生涯、死と復活によって、神さまが私たちを本当に愛しておられることを知り、神さまが惨めな状態から救い出し、神さまから遠く離れてしまった罪を赦してくださることを信じることができます。神さまから罪を赦していただいた私たちは、神さまが与えてくださった和解のうちに生きることができます。

神さまの愛を信じて救われるとは、私たちがもはや罪の奴隷にならず、死の恐れに支配されることなく、神さまの恵みの下で神さまの時を生きるということです。それは、神さまのまなざしの中に生きると言い換えることもできます。神さまのまなざしと恵みのうちに生きる人間は、いつも信仰と希望に満ちています。

日本基督教団全国連合長老会 日曜学校委員会 編
「子どもと共に学ぶ明解カテキズム」より

3月

主題「使徒信条 (1)」

聖書と説教 交読文 さんびか
1ガラテヤ 5・16~26
「 聖霊を信じます 」
56、96、16
8Ⅰコリント 12・12~13
「 わたしたちはひとつの体 」
68、95、16
15使徒言行録 20・32~35
「 教会の子どもたち 」
710、123、16
22詩編 103・3~13
「 赦してくださった神さま 」
97、38、16
29フィリピ 3・20~21
「 始まったものは終わる 」
89、85、16

明解カテキズム 第14章 使徒信条 (1)天地の造り主

問25
「天地の造り主」を信じるとは、どういうことですか。
目に見えるものも見えないものも、すべて神さまによって造られたと信じることです。
  1. 神さまは、私たちの身のまわりの木々や山など自然にも宿る方ですか。
  2. どうして神さまは世界を造られたのですか。

神さまは、世界とそこにあるすべてのものをお造りになりました。創世記1章には、光が造られ、水と大空が分けられ、大地と海が造られ、植物と動物、太陽や月、星、そして最後に人間が創造されたと記されています。神さまは、目に見えるものだけでなく、光や風、空気、そして人間の息や心、魂など目に見えないものをすべてお造りになりました。

創造主である神さまは、お造りになったすべてのものを愛してくださいます。野の花や空の鳥も、神さまの愛のうちに美しく生きています。特に、私たち人間は、神さまにかたどって創造されました。「神のかたちに創造された」とは、私たちが神様に呼びかけると神さまは必ず答えてくださり、神さまと私たち人間との間には言葉を介して応答しあう関係が与えられたことを意味します。

ですから、神さまは自然の中に宿ったり、自然の一部ではありません。私たちの自然や世界よりも、はるかに大きく、はるかに偉大で、自然と世界を超えておられるのが神さまです。しかし、神さまは、私たちの世界とそこにあるすべてのものを愛しておられるので、植物も動物もその生命のすべてを養い、愛し、育ててくださるのです。神のかたちに創造された私たち人間を他の被造物にまさって愛してくださいました。

日本基督教団全国連合長老会 日曜学校委員会 編
「子どもと共に学ぶ明解カテキズム」より