日曜学校 月報集

2006年度の月報です。

下線の付いたさんびかは「改訂版こどもさんびか」です。

2007年度

4月

主題「十字架につけられ」

聖書と説教 交読文 さんびか
2マタイ 6・25~34
「 生きるために大切なこと 」
79、32、16
9ルカ 23・44~49
「 十字架で死なれたイエス様 」
61、85、16
16
イースター礼拝
ルカ 24・1~12
「 イエス様は生きておられる 」
86、41、16
23使徒言行録 17・22~27
「 生かされている命 」
133、10、16
30ヨハネ 14・6~10
「 父にいたる道 」
142、120、16

9日 進級式、16日 イースター(復活日)

明解カテキズム 第14章 使徒信条(9)

問33
「十字架につけられ」とは、どのようなことですか。
神さまに呪われたということです。それは、わたしたちが神さまに赦され、永遠の福音を受けるためです。
  1. 十字架は呪いのしるしということですか。
  2. なぜ、イエスさまが呪われなければいけないのですか。

元来十字架につけられた者の苦難と死は、神様から呪われたしるしと考えられました。しかし、イエスさまが十字架につけられたのは、イエスさまの罪や悪行ゆえに呪いを受けるためではなく、わたしたち人間の罪にあるのです。 本来ならわたしたちが受けるべき神の裁きと呪いを、神の御子イエスさまがご自分の命で受け止め、わたしたちを助けてくださったのです。

日本基督教団全国連合長老会 日曜学校委員会 編
「子どもと共に学ぶ明解カテキズム」より

5月

主題「聖書」

聖書と説教 交読文 さんびか
7Ⅱテモテ 3・14~17
「 イエス様を知るために 」
154、124、16
14使徒言行録 8・26~40
「 み言葉を一緒に聴こう! 」
166、124、16
21創世記 1・24~27
「 大切だから 」
175、118、16
28創世記 3・1~19
「 約束をやぶってしまったとき 」
18、95、16

明解カテキズム 第2章 聖書

問4
それではイエスさまのことを何によって知ることができますか。
聖書によって知ることができます。
  1. 聖書とは、何ですか。聖書とは、旧約聖書39巻と新約聖書27巻の全体のことです。
  2. 旧約聖書も、新約聖書も神さまが私たちを徹底して愛してくださったということを語っています。イエス様のことを語っているのです。

わたしたちは、イエスさまのことを聖書によって知ることができます。聖書もまた、神さまがわたしたちにくださったプレゼントです。 誕生日に本をプレゼントしてもらうことがあるでしょう。何気なく読み始めていくうちに、本の世界に引き込まれ、感動し、涙を流したり笑ったりすることがあると思います。聖書も、わたしたちに感動を与えます。

しかし、聖書が他の書物と違うのは、主人公がいつも神さまとその独り子イエスさまであるということです。さらに、聖書を書いた人々も、主人公である神様の霊の導きによって、神さまに感動させられて神さまのことを書いたということです。 言い換えれば、聖書を書いた人々が、自分の考えや思想を明らかにしたのではなくて、神さまの力によって、神さまのご計画に従って、神さまを近くに感じながら神さまのことを書いたということです。 ここに、聖書が書かれたはっきりした目的があります。ですから、わたしたちも聖書を読むことによって、神さまがくださる聖霊による感動を味わうことができます。

日本基督教団全国連合長老会 日曜学校委員会 編
「子どもと共に学ぶ明解カテキズム」より

6月

主題「神の愛」

聖書と説教 交読文 さんびか
4
ペンテコステ礼拝
使徒言行録 2・1~13
「 教会の誕生日 」
127、93、16
11ルカ 15・11~32
「 愛はあきらめない 」
29、31、16
18ヨハネ 17・20~26
「 かみさまのあい 」
110、40、16
25ヨハネ 20・24~29
「 イエスさまと出会う喜び 」
31、123、16

明解カテキズム 第4章 神の愛

問8
わたしたちが神さまに背いたにもかかわらず、神さまはなおわたしたちを愛してくださるのですか。
はい、その通りです。
  1. 神様の愛と私たちの愛に違いがありますか。
  2. なぜ、神さまは、私たちが背き続けるのに愛し続けるのですか。

わたしたちは、神さまに背き続け、神さまから離れていきました。本当の神様でないものを拝み、自分を神さまと等しいと考え、いつも傲慢な心のままです。わたしたちは、神様の裁きを受けるのが当然です。

しかし、神さまは、このようなわたしたちを裁かれるどころか、赦してくださり、なお愛し続けてくださったことを、私たちはイエスさまのご生涯と教えによって知らされています。

放蕩息子のたとえは、父親から生前に遺産の分け前をもらった次男が身を持ち崩し、やがて食べる物にも事欠くようなひもじい生活を送っていたときに、悔い改めて、故郷の父親のところに戻ろうと決心した物語です。 「わたしは罪を犯しました。息子と呼ばれる資格はありません」と言って謝罪した次男を、父親は温かく迎え入れ、祝宴を催して、愛する息子の帰りを心から喜んでくれました。

日本基督教団全国連合長老会 日曜学校委員会 編
「子どもと共に学ぶ明解カテキズム」より

7月

主題「イエスの奇跡と権威」

聖書と説教 交読文 さんびか
2マルコ 1・21~28
「 権威ある新しい教え 」
42、118、16
9ルカ 4・38~41
「 イエスさまの力を頂いて 」
54、119、16
16マタイ 22・34~40
「 イエスさまの十字架を見上げよう 」
83、84、16
23Ⅰコリント 3・16~17
「 イエスさまにつながって 」
105、60、16
30ローマ 6・1~11
「 教会は何を信じているか 」
97、129、16

明解カテキズム 第6章 イエスの奇跡と権威

問12
イエスさまは、特別な力をお持ちになった方でしたか。
はい、そうです。何より、神の独り子として、奇跡を行い、悪霊を追い出し、病を癒す力をお持ちでした。
  1. なぜ、イエスさまはたびたび奇跡を行われたのですか。
  2. イエスさまの奇跡を見たり、体験したりした人たちはどうしましたか。

イエスさまが特別な力を持ち、奇跡を行い、悪霊を追い出し、病を癒されたことは、新約聖書の福音書に描かれています。 イエスさまがガリラヤ伝道を始めてから、一日たりとも休むことなく、これらの働きは続けられたことでしょう。

これらのわざは、人々を驚かすためになされたのではありません。あるいは、人々の気をひいて、何かを伝えようとしたのでもありません。 イエスさまは、悪霊につかれた人々や病気の人々を深く憐れまれたのです。イエスさまの憐れみと愛から、奇跡も癒しも行われました。

同時に、これらのわざを通して、イエスさまが、私たちの生きている世界や自然をすべて支配しておられることが明らかになります。 病が人の体をむしばみ、支配しているとき、イエスさまは病気を癒してくださいます。しかも、単に病の原因を取り去ってくださるだけではなくて、病人が自分の足で立ち上がり、自分の力で生きる元気をも与えてくださるのです。

日本基督教団全国連合長老会 日曜学校委員会 編
「子どもと共に学ぶ明解カテキズム」より

8月

主題「神への信頼」

聖書と説教 交読文 さんびか
6創世記 32・23~33
「 名前を変えられたヤコブ 」
116、45、16
13エフェソ 2・14~17
「 愛はあきらめない 」
138、118、16
20エフェソ 2・18~22
「 イエス様が平和をくださったので 」
1210、118、16
27ヨハネ黙示録 21・1~4
「 キリストこそ平和の主 」
149、31、16

明解カテキズム 第11章 神への信頼

問21
どうしてわたしたちは神さまに心から信頼することができるのですか。
神さまは、すべてを知っておられる方であり、わたしたちに必要なすべてのものを与えてくださるからです。
  1. 神さまを信頼したいと思いますが、そのために何か証拠がありますか。
  2. 神さまがすべてを知っておられるとはどういうことですか。

神さまは、私たちが必要としているものをすべて知っておられます。かつてイスラエルの民がモーセに率いられてエジプトを脱出したあと、食べ物がなくて、飢え渇いていたとき、神さまは必要な分だけ集めることのできる天からのパンを降らせてくださいました。 わたしたちの求めているもの、今のわたしたちに何が必要かを神さまはよくご存知です。

さらに神さまは、私たちの心の中までも知っておられます。かたちだけ善い行いをしても、私たちの心が偽りであることもあります。神さまは、私たちの心の中の誤りも見逃すことがないのです。

神さまは、私たち人間が神様から離れ、あたかも自分の力で生きているかのように思い違いをし、さらに自分だけが正しく、自分だけが幸せになりたいと願う悪い思いを抱いていることを初めから見抜いておられます。神さまは、私たち人間が救われねばならない存在であることをご存知です。

救いを必要とする私たちは、その救いを求めなければなりません。私たちが真剣に神様の名を呼び、「神さま、助けてください。神さま、罪深いわたしを救ってください」と願うとき、必ず助けと救いをお与えくださいます。 旧約聖書の時代から、救いの約束はイスラエルの人々に与えられておりました。

日本基督教団全国連合長老会 日曜学校委員会 編
「子どもと共に学ぶ明解カテキズム」より

9月

主題「教会の信仰」

聖書と説教 交読文 さんびか
3ヨハネ 3・16~18
「 神さまからの贈り物 」
1512、49、16
10申命記 6・4~15
「 自分の力ではありません 」
171、43、16
17ルカ 7・1~10
「 不思議な業 」
13、119、16
24出エジプト記 16・1~5
「 神さまと一緒に 」
24、136、16

明解カテキズム 第8章 教会の信仰

問16
使徒信条の言い表す信仰によって何を知ることができますか。
父なる神、子なるイエス・キリスト、聖霊なる神について知ることができます。
  1. 神さまを知ることは楽しいことですか。
  2. だれでも神さまから愛されているのですか。

使徒信条の言い表す信仰によって、わたしたちは父なる神、子なる神イエス・キリスト、そして聖霊なる神さまについて知ることができます。 父、子、聖霊なる神は、三つの別々な神さまではありません。あるいは、神様の三つの現れが、父と子と聖霊なのでもありません。 神さまはただ一人なる方ですが、同時に父・子・聖霊でもあります。言い換えれば、神さまは、一であるとともに三であるとともに一なのです。

なんだか分かったようで分からないと思われる方もいるでしょう。何か言葉の遊びのようではないかと感じる人もいるかもしれません。しかし、教会は二千年の間、このようにしか表現できない神さまを、三位一体の神として礼拝し、讃美をささげてきました。 三位一体の神は、何か合理的にその存在を明らかにできるような方ではありませんが、聖書にはそのような方としてはきりと証言され、わたしたちの讃美に応えてくださる方であると考えられてきたのです。

日本基督教団全国連合長老会 日曜学校委員会 編
「子どもと共に学ぶ明解カテキズム」より

10月

主題「神への信頼」

聖書と説教 交読文 さんびか
1ルカ 15・11~32
「 父なる神さまに頼る 」
32、55、16
8ガラテヤ 3・21~25
「 イエスさまの力を頂いて 」
55、40、16
15ローマ 5・17~21
「 神の恵みと義の賜物とを豊かに受ける 」
46、126、16
22イザヤ書 42・5~6
「 私たちの生きる目的 」
78、115、16
29Ⅰヨハネ 4・8~10
「 溢れる愛を注がれて 」
87、127、16

明解カテキズム 第11章 神への信頼

問22
私たちはそのような神さまを信頼し続けることができるでしょうか。
いいえ、私たちは、神さまがすべてを知っておられ、善い方であるにもかかわらず、そのような神さまをなかなか信頼し続けることができません。それが私たち人間の惨めさなのです。
  1. どうして、私たちは、神様を信頼できないのでしょうか。
  2. 私たちが神様を信頼しないのには、神様の方にも責任があるのではないでしょうか。

神さまは、私たちを愛して、私たちのために独り子を十字架にさえおかけになりました。それほど深く私たちの罪の現実を知るとともに、私たちを御子の生命をかけてまで救おうとされたのです。

しかし、わたしたち人間の愚かさは、神さまの愛とご計画を知らされながら、なかなか神様を信頼し続けることができないところにはっきりと表れています。 私たちは、いろいろと都合をつけて、神さまを讃美し礼拝することを怠ります。感謝をささげることも忘れてしまいます。神さまが、まず私たちに仕えてくださったにもかかわらず、私たちは、神さまを思い通りに何かをしてくれる存在にしようとしてしまいます。

ここに人間の惨めさがあります。どうして私たちは、素直に神さまを信頼し続けることができないのでしょうか。 それは、私たちが、神さまに信頼することも神様から離れていくことも自分の意思でできないように創造されているからです。

日本基督教団全国連合長老会 日曜学校委員会 編
「子どもと共に学ぶ明解カテキズム」より

11月

主題「神を知る」

聖書と説教 交読文 さんびか
5ローマ 8・14~17
「 私たちは神さまの子ども 」
810、123、16
12
子どもと大人の合同礼拝
創世記 18・1~15
ローマ 9・1~9
「 神の民の選び(アブラハム) 」
詩編
23
讃美歌21
27、351、200、544
19ヨハネ 1・14~18
「 イエス様ってどんな方 」
109、75、16
26フィリピ 2・9~11
「 歌えなくなった天使 」
911、79、16

※12日 子どもと大人の合同礼拝 分級 9:00~、礼拝 10:30~

明解カテキズム 第1章 神を知る

問1
私たちが生きるために最も大切なことは何ですか。
神さまを知ることです。
  1. 生きるためにもっとも大切なのは、空気や食べ物や、父母や兄弟ではないのですか。
  2. 生きているとは、いったいどういうことですか。呼吸をし続けていることですか。

私たちが生きるために最も大切なことは、私たちの生命の創造者である神さまを知ることです。神さまが私たちのかけがえのない生命と人格を創造して下さったのは、私たちを愛して、私たちが生命をもって生きることを神さまご自身が喜んでくださるからです。 神さまを知るとは、私たちを創造し、愛し、慈しみ、救ってくださる天の父なる神さまを知ることです。

神さまが、私たちを愛してくださることは、神がモーセに語られたように、神様が「いつも必ず共にいてくださる」(出エジプト記 3章12節)ことに表されています。

日本基督教団全国連合長老会 日曜学校委員会 編
「子どもと共に学ぶ明解カテキズム」より

12月

主題「使徒信条 (1)」

聖書と説教 交読文 さんびか
3ルカ 1・26~38
「 聖霊があなたに降り 」
1012、50、16
10ルカ 1・39~45
「 エリザベトの告げた言葉 」
61、63、16
17ルカ 1・46~56
「 喜びの日へ向けて 」
133、70、16
24
クリスマス礼拝
マタイ 2・1~12
「 クリスマスの喜び 」
94、77、16
31マタイ 2・13~18
「 預言の成就 」
112、76、16

24日 クリスマス礼拝 9:00~、クリスマス会 15:30~

明解カテキズム 第14章 使徒信条

(7) 聖霊によりてやどり、処女マリアより生まれ

問31
「主は聖霊によりてやどり、処女マリアより生まれ」とはどういうことですか。
イエスさまのお誕生は、神の子が人間となってくださったということです。神さまの力である聖霊によって、イエスさまは、マリアのお腹に宿りました。
日本基督教団全国連合長老会 日曜学校委員会 編
「子どもと共に学ぶ明解カテキズム」より

1月

主題「使徒信条 (2)」

聖書と説教 交読文 さんびか
7マタイ 27・11~26
「 イエスさまの裁判 」
145、99、16
14ガラテヤ 3・13
「 命をくださったイエスさま 」
176、40、16
21ルカ 23・44~56
「 力をもらおう 」
58、54、16
28ルカ 24・1~12
「 イエスさまは生きておられる 」
127、91、16

明解カテキズム 第14章 使徒信条

問32
「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」とはどういうことですか。
「ポンテオ・ピラト」とは、イエスさまを処刑したローマの総督です。イエスさまは、この世の権力によって、最も苦しい十字架刑で処刑されました。 イエスさまは、わたしたち人間が経験するあらゆる苦難と恐れを耐え忍んでくださいました。
  1. イエスさまが処刑されたのは、イエスさまも何か犯罪を犯したことによるのでしょうか。
  2. イエスさまを十字架につけろと叫んだのは、ユダヤの群集たちではなかったですか。

イエス様は、ローマから派遣されてユダヤの地を支配していたポンテオ・ピラトの時代に、ピラト自身の決定によって、十字架刑に処せられました。十字架刑は、重罪を犯したローマ市民権を持たない人にのみ科せられた最高刑罰でした。 処刑される人間は、木組みの十字架の上で釘で打ち付けられ、長い時間苦しむとともに人々の目にさらされ、見世物とされました。同時に、わたしたち人間の残忍な心や復讐心を満足させる悲惨な刑罰でもあったのです。

日本基督教団全国連合長老会 日曜学校委員会 編
「子どもと共に学ぶ明解カテキズム」より

2月

主題「使徒信条 (3)」

聖書と説教 交読文 さんびか
4使徒言行録 1・6~11
「 天に昇られたイエスさま 」
110、92、16
11使徒言行録 7・56~60
「 イエスさまを見上げて歩む 」
39、118、16
18Ⅰテサロニケ 4・15~18
「 死んでしまうことで終わらない希望 」
411、138、16
25ヨハネ 14・15~17
「 見えなくても
一緒にいてくださるイエスさま 」
212、120、16

明解カテキズム 第14章 使徒信条

問36
「天に昇り」とはどういうことですか。
復活されたイエスさまは、父なる神のおられる天に昇られました。 それゆえ、今わたしたちは、直接手で触れたり、目で見たりはできませんが、イエスさまは天から聖霊を注ぎ、わたしたちの信仰を導いてくださいます。 そして、終わりのときに天からくだってこられ、信じる人びとを父のもとへ導いてくださいます。
  1. 天とはどこにありますか。宇宙の彼方でしょうか。
  2. 主イエスが天に昇られた場面を記した新約聖書の個所を教えてください。

使徒言行録1章が記すように、復活されたイエスさまは、使徒たちが見ている前で天に上げられました。イエスさまは昇天されたのです。イエスさまがおもむいたところは、神さまの右の座、すなわち神さまとまったく等しいところでした。 天とは、宇宙の果て、銀河系の彼方というようなわたしたちの想像する空間ではなくて、復活の主が父なる神と共におられるところです。

イエスさまは、父なる神のおられる天に帰られたゆえに、今わたしたちはイエスさまのことを直接見たり、手で触れたりすることはできません。しかし、聖霊の働きによって、神さまの言葉を通して、生きたイエスさまに出会うことができます。 礼拝において説教がなされるとき、聖書の言葉が生けるイエスさまをわたしたちのところに運び、イエスさまが、まことにわたしたちと共におられるという恵みの経験を準備してくださるのです。

日本基督教団全国連合長老会 日曜学校委員会 編
「子どもと共に学ぶ明解カテキズム」より

3月

主題「使徒信条 (4)」

聖書と説教 交読文 さんびか
4エフェソ 4・3~6
「 神様によって集められ 」
513、95、16
11Ⅰコリント 12・12~26
「 わたしたちはイエスさまのもの 」
814、95、16
18ローマ 7・24~8・3
「 赦されて生きる 」
91、95、16
25Ⅰコリント 15・42~49
「 新しい体のプレゼント 」
103、95、16

明解カテキズム 第14章 使徒信条

問40
「聖なる公同の教会」とはなんですか。
神様によって集められ、選ばれた、いつの時代にも変わることのない教会で、天にある見えない教会と同時に、地上の教会の最後の目標を表しています。

教会というと、すぐに教会堂や牧師、教会員、日曜学校(教会学校)の生徒たちのことを思い浮かべることでしょう。これらは、具体的で目に見える教会の姿です。しかし、私たちは同時に、天にある目に見えない教会を信じています。 「聖なる公同の教会」とは、地上の目に見える教会が、目標として信じている、目に見えない天の教会を表します。

「聖なる」とは、神様に選ばれ、集められたということです。「聖」という語は、他から区別され分離されるものという意味合いがあります。また「公同の」とは、いつでもどこでもだれとでも分かち合える「普遍的な」という意味で、英語の「カトリック」という言葉にあたります。 つまり「聖なる公同の教会」とは、神様によって選び集められ、同時にいつでもどこでもだれとでも分かち合える信仰に生きる教会ということです。

日本基督教団全国連合長老会 日曜学校委員会 編
「子どもと共に学ぶ明解カテキズム」より