日曜学校 月報集

2005年度の月報です。

下線の付いたさんびかは「改訂版こどもさんびか」です。

2006年度

4月

主題「十字架と復活」

聖書と説教 交読文 さんびか
3ルカ 24・28~35
「 心燃えていたではないか 」
173、37、16
10ルカ 24・36~43
「 わたしの手を見なさい 」
15、82、16
27ルカ 24・44~49
「 心の目を開いてくださる主 」
24、84、16
24使徒言行録 1・3~11
「 主イエスの昇天 」
36、38、16

10日 入学・進級式

『十字架と復活』

イエスさまは神の御子でいらっしゃいますから、他の人とはちがった自由と力をもっておられました。 けれどもまた、人となられたイエスさまは、他の人と同じように人間としての制限の中におられました。 そのイエスさまが十字架にかかって死なれ、三日目に死者の中から復活なさってからは、どうだったでしょう。

主イエスさまは「戸の閉ざされている家」(ヨハネ20・19、26)の中へ自由に入って来られました。 弟子たちの中に自由にあらわれ、また自由に姿を消されました。復活なさったイエスさまは、これまでとは「ちがった姿」(マルコ16・12)で、ご自分をあらわされたのでした。 どういうふうにちがっておられたか、その外見のお姿を、私たちは詮索する必要は無いでしょう。ただ、ちがっているということ、何か全く新しいお姿、自由で栄光にみちた勝利のお姿であるということを知るだけで充分です。

そして「なぜ」そんなお姿に変わられたのかを知ることのほうが大切なのです。

「なぜ?」その答えは簡単です。「復活されたから」。

「なぜ、復活されたのか?」それは、主イエスさまが、ご自分の死をとおして、罪とサタンの力に打ち克たれたからです。 その勝利が復活となってあらわれたのです。その勝利は、もはや罪に苦しめられない、新しい存在に転回 ― 変化しました。その変化が、イエスさまの「ちがった姿」でのあらわれとなったのです。

(永井春子 著 「キリスト教教理」より一部抜粋)

5月

主題「教会」

聖書と説教 交読文 さんびか
1使徒言行録 1・12~14
「 心を合わせて祈る 」
57、95、16
8使徒言行録 1・15~26
「 マティアの選任 」
78、94、16
15
ペンテコステ礼拝
使徒言行録 2・1~13
「 教会の誕生 」
129、93、16
22使徒言行録 3・1~10
「 ナザレのイエスの名によって 」
610、95、16
29使徒言行録 7・58~8・1
「 ステファノの殉教 」
41、96、16

15日 ペンテコステ(聖霊降臨日)

聖霊が降る

五旬際の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。

さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まってきた。 そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。人々は驚き怪しんで言った。 「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。 わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。 また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」 人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。

(使徒言行録 2章1~13節)

6月

主題「契約」

聖書と説教 交読文 さんびか
5創世記 9・1~17
「 ノアとの契約 」
12、113、16
12創世記 15・1~21
「 アブラムとの契約 」
34、109、16
19出エジプト記 24・1~8
「 民との契約 」
25、46、16
26エレミヤ書 31・31~34
「 新しい契約 」
43、114、16

『契約』

この救いの歴史では、「えらび」によって、神様を信じる人びとが起こされました。 たとえば、アダムの子セツの系図で、人びとは神さまのみ名を呼びました(創世記 4章26節)。また、神さまとともに歩みました(創世記 5章24節、6章9節)。 それは後に「えらばれた民イスラエル」となって現れてきました。こうして神さまは、自分では罪の道・滅びの道しか歩むことのできない人間に、神さまへの道を開いてくださったのです。

神さまは、このえらびの民との間に「契約(約束)」を結ばれました。それは、この民を神の民としてくださること、ちょうど、花嫁にされるようなものでした。 神さまはこの民に、ご自分の愛と真実さを示されるとともに、この契約を守って、主なる神さまだけを神さまとしてあがめ、その方にだけ忠誠をつくして生きるようにお求めになりました。

神さまは、民がこの契約を守ってゆくために、また、ここから脱線してゆかないように「律法」をお与えになりました。 「律法」によって、神さまのみこころをよく知り、神の民として、罪に走らないで、たえず神さまのみもとに立ち帰り、正しく礼拝をささげつつ生きるためでした。

(永井春子 著 「キリスト教教理」より一部抜粋)

7月

主題「十戒」

聖書と説教 交読文 さんびか
3出エジプト記 20・1~3
「 わたしの他に神はない 」
56、60、16
10出エジプト記 20・4~6
「 偶像をつくらない 」
87、121、16
17
大人と子供の合同礼拝
出エジプト記 20・1~21
「 十戒 」
65-1544、200、507
24出エジプト記 20・8~11
「 安息日を守る 」
913、4、16
31出エジプト記 20・12
「 父と母を敬え 」
108、118、16

17日 大人と子供の合同礼拝、17日~18日 夏期学校

『十戒』

たとえば、イエスさまをお迎えしたザアカイは、すすんで財産の半分を貧しい人びとに分け与え、不法に税金をとりたてた人には4倍にして返すことを申し出ました。 今まで、他の人からその罪を責められていたザアカイにはできなかったことが、主イエスさまによって、自由に喜んですることができたのです。それは、イエスさまの恵みに対する感謝の応答として、自然にでてきたことでした。

このように、自分が罪びとであることをみとめ、キリストによる罪の赦しを信じて感謝している人びとは、同時に、隣人に対して、ほんとうに善い業をすることができるのです。 ルター先生は「神の前には信仰のみが益がある。隣人の前には善き業が益がある。そしてキリストは罪人を、神と人との前に益あるものにしてくださった」と言っています。

罪から自由にされた人は、また、神と人とに仕える自由をもつのです。そしてその自由は、神様のご命令に喜んで心から聴き従い、それに自分の生活を合わせるのです。

神さまに対する感謝と服従の生活の規準として、神さまは、もちろん聖書全体をお与えくださっているわけですが、その中で特に律法、その要約である十戒をお与えくださいました。 十戒は、神さまがモーセを通して、神の民として生きるべきイスラエルにお与えになったルールですが、それはまた、新しいイスラエルであるキリストの民・福音に生きる人びとに自由の法律・新しい戒めとしてお与えになっているのです。

(永井春子 著 「キリスト教教理」より一部抜粋)

8月

主題「十戒 II」

聖書と説教 交読文 さんびか
7マタイ 5・21~22
「 殺してはならない 」
129、112、16
14ヘブライ 13・4
「 忠実に生きる 」
1110、120、16
21エフェソ 4・28
「 盗むな 」
1311、127、16
38箴言 19・5
「 偽ってはならない 」
141、128、16

『十戒』

十戒は二枚の石の板に、あるいは、一枚の石板の表と裏に書かれたということですが、それがどのようにわけられていたかは、分かりません。 十戒は十の言葉という意味ですから、二つに分けられるとき、五つずつに分けられたと理解するのが普通でしょう。しかし、

第一部が神さまに関する戒め、第二部が隣人に関する戒めであることは、前に学びました。すると、第五戒は、はたして第一部に入るのだろうか、それは第二部に入るのではなかろうかという疑問がおこります。 なぜなら、第五戒は「父母に対する態度についての戒め」であるからです。そこで、第五戒を第二部にかぞえ、第一~四戒を神さまに関するもの、第五~十戒を隣人に関するものと理解してきた人びとが多くいました。

しかし、よくしらべますと、第五戒は第一部に属していて、少しも差しつかえがないどころか、むしろ、それがふさわしいと思われます。 というのは、それは単に、親に対する服従を命じたものではないからです。

(永井春子 著 「キリスト教教理」より一部抜粋)

9月

主題「イエス・キリスト」

聖書と説教 交読文 さんびか
4Ⅰテモテ 6・2b~10
「 人の物を欲してはいけない 」
153、137、16
11マタイ 4・18~22
「 弟子を招く主 」
172、52、16
18マタイ 8・23~27
「 嵐をしずめる主 」
164、54、16
25マタイ 8・28~34
「 ガダラの豚 」
15、61、16

『イエス・キリスト』

イエスさまのご生涯について、知っているかぎりのことを、かんたんにまとめていってごらんなさい。 すると、イエスさまは私たち人間と全く同じ人間となられたけれども、また、私たちとずいぶんちがっておられたことにも気づくでしょう。お誕生日と、生涯の終わりとがちがうでしょう。 イエスさまは、わたしたちとちがって、神のみ子独特の生まれかたをなさいました。また、生涯の終わり、人は死んで、お墓に埋められておしまいですのに、イエスさまはそこから、まだ大変なことがつづいていますね。復活、昇天、神の右に坐すこと、そして再臨です。

30何年のご生涯、その中でも、公の生涯といわれるのは三年足らずでしたのに、その短い期間がたいへんな広がりにつづいていますね。それは、永遠が時間の中に入ってきた、ちょうど、そんな風でした。

(永井春子 著 「キリスト教教理」より一部抜粋)

10月

主題「イエス・キリスト」

聖書と説教 交読文 さんびか
2マタイ 9・18~26
「 死をも乗り越える希望 」
26、79、16
9マタイ 10・16~25
「 最後まで耐え忍ぶ者は救われる 」
47、80、16
16マタイ 10・26~31
「 本当に恐るべき方 」
38、81、16
23マタイ 11・25~30
「 わたしのもとに来なさい 」
59、119、16
30ローマ 1・16~17
「 福音を恥としない 」
610、123、16

『イエス・キリスト』

わたしたちもみんな、目的があって、この世に生まれてきました。みなさんも、自分が何の目的のために生まれてきたか、考えたことがありますか?

さて、ともかく、イエスさまは、わたしたち罪人を神さまのもとにかえしてくださるために、神さまであられながら、人間となられたのです。そして、その目的を果たされるために、イエスさまのご生涯がありました。

わたしたちは、イエスさまがなぜ、馬小屋の中にお生まれになり、そして十字架への道を行かれたのか、なぜ「侮られて人に捨てられ、悲しみの人で病を知っておられた」のか疑問に思うことがあるでしょう。 そうした疑問は、ぜんぶ、このイエスさまのお誕生の目的からはっきり答えを与えられるのです。イエスさまのご生涯は、わたしたち人間の罪をご自分の上にお引き受けになったご生涯でした。そして、わたしたちのために罪のつぐないを完成してくださったのです。 それは「まことの神にして、まことの人なる」お一人のかた、神性と人性とをもったお一人のかた、イエス・キリストだけが成しとげることのできた、みわざでした。 この恵みによってわたしたちは今、イエスさまを信じさえすれば、神さまのみ前に出られるように道が開けているのです。

(永井春子 著 「キリスト教教理」より一部抜粋)

11月

主題「イエス・キリストの教え」

聖書と説教 交読文 さんびか
6ルカ 15・3~10
「 失われた羊・銀貨 」
81、55、16
13
大人と子供の合同礼拝
ルカ 15・11~32
「 二人の息子 」
詩編
8・1-10
大人のさんびか
205、493、200
20ルカ 16・1~13
「 不正な管理人 」
102、121、16
27ルカ 16・19~31
「 金持ちとラザロ 」
113、124、16

※13日 大人と子供の合同礼拝。分級 9:00~、礼拝 10:30~

『イエス・キリストの教え』

イエスさまは、よく「たとえばなし」をされました。そのお話をとおして神さまの教えを話されたのですが、中には、難しくて人びとが分からないお話もありました。 今月は、迷子になった小羊、失くした銀貨、放蕩息子、悪い管理人、お金持ちとラザロのお話です。

このたとえばなしで神さまはわたしたちに何を教えたかったのかしっかり学びましょう。

12月

主題「降誕・クリスマス」

聖書と説教 交読文 さんびか
4ローマ 13・11~14
「 眠りから覚める時 」
64、64、16
11マタイ 11・2~6
「 来るべき方 」
96、65、16
18マタイ 1・18~25
「 神われらと共に 」
107、75、16
25
クリスマス礼拝
マタイ 2・1~12
「 東の国の学者たち 」
115、78、16

25日 クリスマス礼拝 9:00~。クリスマス祝会 15:30~

『降誕・クリスマス』

世界を救うためにおいでになったイエスさまは「罪人」を救うためでした。初代教会の人びとは「キリスト・イエスは罪人を救うためにこの世にきてくださった」(Iテモテ 1・15)と告白して、罪からの救世主として感謝したのでした。 さらに、その罪人とは、パウロのように「わたしのことなのだ。わたしこそ、その罪人のうちでかしらなのだ」と感じることが大切です。

(永井春子 著 「キリスト教教理」より一部抜粋)

1月

主題「イエス・キリストの教え・わざ」

聖書と説教 交読文 さんびか
1ヨハネ 10・7~18
「 わたしは良い羊飼い 」
128、55、16
8ヨハネ 11・28~44
「 ラザロのよみがえり 」
1410、99、16
15ヨハネ 12・1~8
「 香油を塗ったマリア 」
179、122、16
22ヨハネ 12・12~19
「 エルサレム入城 」
111、82、16
29ヨハネ 13・1~20
「 弟子の足を洗う 」
812、114、16

『イエス・キリストの教え・わざ』

神さまと人間の出会い・交わりは、旧約時代にも、み言(ことば)による出会い・交わりでした。そして、み言そのものであるイエスさまがおいでになられてからは、なおのことでした。 神様のみ言は、人間に語りかけ、人間をお救いになる言、イエス・キリストとなって救いのわざをされる言でした。

ですから、教会は神のみ言が救いの出来事を起こしてくださるからです。み言をのべつたえることは、、キリストをのべつたえること、キリストをのべつたえることは、聖書のみ言を語ることです。 そして現在の教会は、その、のべつたえることを聖日礼拝において、なしているのです。

キリスト・聖書・説教、この三つのものは同じく神さまのみ言なのです。

人間(牧師さんなど)が語るとき、神さまのみ言をゆがめたり、まげたりしやすいのですが、教会に働いている聖霊が神さまのみ言として語らせ、また聞かせてくださるのです。 そしてそれは、日曜礼拝の説教だけでなく(それを中心としていますが)、そこからでる教会の宣教のわざ全体にわたって、聖霊が神の言として保ってくださるのです。 ですから、みなさんが教会でみ言をきくとき、神さまがわたしに語りかけ、わたしを救いにお招きくださっているみ言として、またわたしたちを神の国の子供に養い育ててくださるみ言として、深く心に聴くことが大切です。 教会の宣教と結びついて、家で、聖書を読むことも大切ですし、それをそのような神のみ言として信じ、受け入れることが必要です。

(永井春子 著 「キリスト教教理」より一部抜粋)

2月

主題「イエス・キリストの教え・わざ」

聖書と説教 交読文 さんびか
5ヨハネ 14・1~14
「 道・真理・命 」
21、120、16
12ヨハネ 15・1~10
「 わたしはぶどうの木 」
43、60、16
19ヨハネ 16・16~24
「 わたしを見る 」
32、126、16
26ヨハネ 16・25~33
「 勇気を出しなさい 」
84、131、16

『イエス・キリストの教え・わざ』

人間は自分で神さまのもとから出てゆきましたが、もう自分で神さまのもとへ帰れなくなってしまいました。 神さまの聖なる怒りをやわらげることも、自分で和解を求めることもできなくなったのです。

しかし、人間は神さまのもとに立ち帰らなければ、まともな人間には、なれないのです。神さまとの間が平和でなければ、神さまとお交わりすることはできないのです。 この深い永遠の淵(ふち)、永遠の裂目(さけめ)は、どのようにして埋められるのでしょうか。

哲学者のカント先生は「人間の自然の状態は戦争状態である。埋められるのでしょうか。だから、平和と言うことは、立てられなければならない」と、『永遠の平和のために』という本の中でいいました。 カント先生のおっしゃったのは、人間と人間との間は、生まれつき戦争のありさまだということ。だから、自然のままで放っておいたら人間はたえず戦争するものであるから、平和をつくるために努力しなければならないということでした。

(永井春子 著 「キリスト教教理」より一部抜粋)

3月

主題「十字架」

聖書と説教 交読文 さんびか
5ヨハネ 18・1~11
「 剣を納めなさい 」
56、37、16
12ヨハネ 18・33~40
「 真理の王 」
95、84、16
19ヨハネ 19・23~30
「 成しとげられた 」
118、85、16
26ヨハネ 19・31~37
「 血と水が流れた 」
127、83、16

『十字架』

イエスさまが、まことの神でありながら、まことの人となられ、キリストとしてのつとめを果たされたことをよくよく注意してみますと、一つの共通した目的のためであることがわかります。 それはいうまでもなく、罪人である私たち人間を罪から救ってくださること、もはや罪を犯さないような人間に、新しくつくり直してくださるためでした。その同じことを、神さまを中心にいいあらわすとき、聖書は「和解」という言葉を用いています。 「和解」といっても、ふつうの「仲直り」ではありません。それは、「贖罪(しょくざい)」(つみのあがない)という意味と一つになっている「和解」なのです。

(永井春子 著 「キリスト教教理」より一部抜粋)