日曜学校 月報集

2004年度の月報です。

下線の付いたさんびかは「改訂版こどもさんびか」です。

2005年度

4月

主題「十字架と復活」

聖書と説教 交読文 さんびか
4マルコ 15・33~41
「 わが神わが神 」
71、38、16
11マルコ 16・1~8
「 転がされていた石 」
103、40、16
18Iコリント 15・20~24
「 よみがえりの初穂 」
84、39、16
25Iコリント 15・50~58
「 勝利を賜る主 」
132、41、16

11日 イースター(復活日)
18日 入学・進級式

イースター

この主イエスさまのご復活と共に、新しいいのちが私たちに開かれたのです。 イエスさまはもともと神さまのおひとり子で、真の神でいらっしゃるのですから、死者の中にとどまっておられるはずはありませんので、復活は当然のことと思われます。 しかし、ただそれだけではなく、私たちを新しい存在にするための新しい人類の代表者、また、新しい人間の初穂として復活なさったのです。 十字架にかかられた方が復活なさった方、復活なさった方が十字架にかかられた方であるので、私たちはこの方に合わせられるとき「罪の僕から義の僕へとうつされる」のですし、 「恵みの下にあって、罪に支配されることのない自分」を発見することができるのです。

(永井春子 著 「キリスト教教理」より一部抜粋)

5月

主題「復活の主」

聖書と説教 交読文 さんびか
2ヨハネ 14・18~20
「 わたしが生きるので 」
145、120、16
9ヨハネ 15・1~10
「 わたしにつながって 」
156、73、16
16ヨハネ 15・11~17
「 わたしの喜びが満ちる 」
179、51、16
23ヨハネ 16・31~33
「 わたしは既に勝っている 」
167、35、16
30使徒言行録 2・1~13
「 聖霊の降臨 」
128、42、16

9日 母の日、30日 ペンテコステ(聖霊降臨日)

ペンテコステ

5月30日がペンテコステです。聖霊がイエスさまの弟子たちに降り、聖霊に満たされた弟子たちは、いろいろな国の言葉で神さまのみことばについて語り始めました。 弟子たちの伝道のはじまりです。そして、このことからペンテコステは教会が誕生した日といわれています。

6月

主題「聖霊なる神」

聖書と説教 交読文 さんびか
6エフェソ 1・13~14
「 聖霊の証印を押された私達 」
311、50、16
13エフェソ 2・1~10
「 善い業のために 」
110、53、16
20エフェソ 4・25~32
「 聖霊の保証 」
21、54、16
27エフェソ 5・6~20
「 光の子として歩め 」
42、52、16

『聖霊なる神』

聖霊はわたしたちをキリストに結ばせ、キリストを信じさせてくださる霊であることを学びました。カルヴァン先生も「聖霊は、キリストがそれによって、わたしたちをご自分(キリスト)に結びつけるバンドである」といいました。 わたしたちは、聖霊のお働きがあるので、教会に来て礼拝しつつ聖書を学ぶとき、主イエス・キリストのこと、神さまのことが、よく分かってくるのです。そして、信じられるようになるのです。

イエスさまは十字架におかかりになる前に、弟子たちに、わたしが去っても、わたしの代わりをするかたとして「助け主」を送るよう、父なる神さまにお願いしようといわれました。 そして、その「助け主」は「真理の御霊」であって、あなたがたにすべてのことを教えるだろうといわれました。今月は、「助け主」「真理の御霊」としての聖霊について、また、その働きについてご一緒に学びましょう。

(永井春子 著 「キリスト教教理」より一部抜粋)

7月

主題「神と人間 (1)」

聖書と説教 交読文 さんびか
4創世記 1・1~25
「 天地の造り主 」
56、112、16
11創世記 1・26~31
「 私たちは神のかたち 」
73、13、16
18マタイ 10・26~31
「 神の守り 」
95、11、16
25マタイ 11・25~30
「 神への信頼 」
104、61、16

『神と人間』

7月は、神さまが宇宙を創造し、生き物や植物そして人間をお造りになられたこと。そして、その人間は神さまの姿にまねてつくられたこと。また、そのような神さまの力について学びます。

イエスさまをとおして、神さまを本当に知り、信頼することができることを勉強します。人間が人間らしく生きるということは、ちゃんと神さまの方に顔を向けて生きることです。 神さまに対して正しい態度をとるとき、人間ははじめて、他の人に対しても、正しく対することができるのです。また、自然界に対しても、正しい取り扱いができるのです。

(永井春子 著 「キリスト教教理」より一部抜粋)

8月

主題「神と人間 (2)」

聖書と説教 交読文 さんびか
1創世記 3・1~19
「 人間の罪 」
117、57、16
8Iヨハネ 1・5~10
「 神は真実で正しい方 」
138、52、16
15ルカ 5・1~11
「 わたしから離れてください 」
159、52、16
22ヨハネ 11・35~44
「 まことの人間I 」
121、119、16
29ヘブライ 4・14~16
「 まことの人間II 」
142、118、16

『神と人間』

イエスさまはだれからお生まれになりましたか? もちろん、マリヤさまからですね。でも、「聖霊によってみごもられた」ことを学びました。 イエスさまは神さまからおいでになられたということです。ところが、そのイエスさまは人間・処女マリヤから正真正銘の人間性をとってお生まれになったのです。 人間としてでした。人間に似ているというのでも、仮の姿というのでもありませんでした。わたしたちが、経験しているように、悩んだり、喜んだり、苦しんだり、楽しんだりされたわけです。

しかし、ただ一つ、わたしたちとちがっている点がありました。それはイエスさまには罪がなかったということです。 わたしたち人間はどんなすばらしい人、清い人でも、例外なく罪びとですのに、イエスさまには罪がなかったということです。 ですから、また、わたしたちみんなが神さまに対して、不従順であるのに比べて、イエスさまは徹底的に神さまに従順であられたということです。

そういう点で、イエスさまが「まことの人」であるということには、二つの意味があるのです。

一つは、イエスさまが本当に完全に人間であられるということ。

もう一つは、わたしたち人間が、もともと、そうあるべきだった、まことの姿の人間を示しておられるとうことです。

(永井春子 著 「キリスト教教理」より一部抜粋)

9月

主題「イエス・キリスト」

聖書と説教 交読文 さんびか
5Iヨハネ 2・1~6
「 全世界の罪を贖う方 」
163、35、16
12ヨハネ 18・36~37
「 王であるキリスト 」
175、33、16
19フィリピ 2・5~11
「 キリストの従順 」
24、79、16
26ローマ 5・12~21
「 ひとりの従順によって 」
16、31、16

『イエス・キリスト』

英国のウエスレーという牧師さんがいました。一生けんめいに神さまのことをのべ伝えましたが、どうしても力が湧いてきません。そこで他の牧師さんのところへ相談に行きました。 その人は「イエスさまはどんなかたですか」と質問されました。ウエスレーは「世界の救い主です」と答えました。 その時、その牧師さんは「そうです。しかし、イエスさまが、あなたの救い主だということをわすれないように!」といわれました。ウエスレーは、はじめて、自分に力が湧いてこない原因が分かりました。

わたしたちも、イエスさまをどんなかたとして信じているでしょうか。本当に、自分の罪をゆるしてくださったかたとして感謝しているでしょうか。 自分の罪との関係で、イエスさまとそのご生涯を見直すなら、イエスさまのうえに起こった一つ一つの出来事、イエスさまのなさった一つ一つのみわざ、イエスさまの語られた一つ一つのみことばが、わたしを救ってくださるためだったということがよく分かってくるのでしょう。

そのようなイエスさまをわたしの救い主として、しっかり信じ、告白するところから、わたしたちは、また、そのイエスさまが、わたしたちの周囲にある人びと、そして、全世界の人びとにとっても救い主であることを確認することができるのです。

(永井春子 著 「キリスト教教理」より一部抜粋)

10月

主題「イエス・キリスト」

聖書と説教 交読文 さんびか
3Iペテロ 1・18~19
「 キリストの尊い血によって 」
37、30、16
10ヘブライ 2・14~15
「 死を滅ぼされた主 」
48、89、16
17エフェソ 1・20~23
「 教会の主、世界の主 」
59、32、16
24エフェソ 2・8~9
「 信仰によって 」
810、36、16
31詩編 119・105
「 御言葉の力 」
91、34、16

『イエス・キリスト』

イエスさまのご生涯について、知っているかぎりのことを、簡単にまとめていってごらんなさい。すると、イエスさまは私たち人間と全く同じ人間となられたけれども、また、私たちと随分ちがっておられたことにも気づくでしょう。 お誕生と、生涯の終わりがちがうでしょう。イエスさまは、私たちとちがって、神のみ子独特の生まれかたをなさいました。また生涯の終わり、人は死んで、お墓に埋められておしまいですのに、イエスさまにはそこから、まだ大変なことがつづいています。復活、昇天、神の右に座すこと、そして再臨です。

30何年のご生涯、その中でも、公の生涯といわれるのは、3年たらずでしたのに、その短い期間がたいへんな広がりにつづいていますね。 それは、永遠が、時間の中に入ってきた、ちょうどそんな風でした。

このようなイエスさまの本当のお姿を、誰も知ることはできませんでした。ただ、神さまにえらばれた人イエスさまを信じた人たちだけが、このすばらしいイエスさまとそのご生涯が、どんなに栄光に輝き、偉大なみわざをなされているかを知ることができたのです。

(永井春子 著 「キリスト教教理」より一部抜粋)

11月

主題「イエス・キリストの教え」

聖書と説教 交読文 さんびか
7マタイ 13・24~30
「 毒麦のたとえ 」
102、71、16
14マタイ 13・31~33
「 からし種のたとえ 」
145、72、16
21マタイ 13・47~50
「 網の中の魚のたとえ 」
114、123、16
28マタイ 22・1~14
「 王子の結婚のたとえ 」
125、48、16

※14日の礼拝は、大人と合同で10時30分から12時までです。分級は9時からページェントの練習をします。

『イエス・キリストの教え』

イエスさまは、神さまのみことばや教えを人びとにお話になるときは、たとえ話をもちいて話しました。今月はそのたとえ話を学びます。 7日「毒麦のたとえ」、14日「からし種のたとえ」、21日「網の中の魚のたとえ」、28日「王子の結婚のたとえ」です。

イエスさまがわたしたちに何を教えようとしたのかを学びましょう。

(永井春子 著 「キリスト教教理」より一部抜粋)

12月

主題「降誕・クリスマス」

聖書と説教 交読文 さんびか
5ルカ 1・5~25
「 ザカリヤへの約束 」
66、25、16
12ルカ 1・26~38
「 マリアへの約束 」
181、50、16
19ルカ 2・1~7
「 飼い葉桶の主 」
93、27、16
26ルカ 2・8~20
「 あなたがたのために 」
134、72、16

※19日のクリスマス礼拝は午前9時。分級の時間にプレゼント交換をします。
クリスマス祝会は午後3時30分からです。

『降誕・クリスマス』

その約束の救い主こそ、イエスさまでした。ですから、イエスさまがこの世界に誕生されたことによって、救い主の来臨は実現されたのです。 イエスさまは偶然この世界にこられたのでも、突然おいでになったのでもありませんでした。 神さまの救いの御計画の歴史の中心として、また、神さまを信じる人びとの長い待ち望みのうちにおいでになったのです。

人間の永い歴史は、ただ一点を目標にしています。またそのただ一点から、人間の本当に生きる生き方と、生きがいを得るのです。 そのただ一点、それはイエスさまにお会いすることです。

(永井春子 著 「キリスト教教理」より一部抜粋)

1月

主題「旧約の信仰者たち」

聖書と説教 交読文 さんびか
2出エジプト記 3・1~15
「 わたしはある 」
127、65、16
9ヨシュア記 1・1~9
「 ヨシュア 」
148、99、16
16士師記 7・1~7
「 ギデオン 」
159、81、16
23士師記 16・1~31
「 サムソン 」
131、100、16
30ヨブ記 1・1~22
「 ヨブ 」
162、49、16

旧約聖書と新約聖書

教会は最初のうちは、聖書としては旧約聖書しか持っていませんでした。ですから、新約聖書の中で聖書といっているのは旧約聖書をさしています。

ところが、イエスさまがおいでになったので、様子がすっかり変わってしまいました。 というのは、イエスさまこそ神の御子、そして神の御言そのものが人間となった方(ヨハネ1・14)なので、「神は、むかしは預言者たちにより、いろいろな時に、いろいろな方法で先祖に語られたが、その終わりの時には、御子によってわたしたちに語られたのである」(ヘブル1・1~2) とあるように、旧約時代は終わって、新しい時代がはじまったのです。それも、ただ終わったのではなく、イエスさまによって、旧約時代の目的がついに完成したのです。

これまで、神さまが預言者やその他の人々を通して人間に語ってくださったこと、神の民として選ばれたイスラエルを通して、歴史の中にいろいろなみ業をあらわされたこと、それらのすべては、実はこのイエス・キリストというかたが中身であり、命であったのです。(ヨハネ8・56)

(永井春子 著 「キリスト教教理」より一部抜粋)

2月

主題「十字架と復活 (1)」

聖書と説教 交読文 さんびか
6ルカ 22・31~34
「 私はあなたのために祈った 」
173、37、16
13ルカ 22・39~46
「 オリーブ山での祈り 」
15、82、16
20ルカ 22・47~53
「 闇の力 」
24、84、16
27ルカ 22・54~62
「 あの人を知らない 」
36、38、16

『十字架と復活』

イエスさまは神の御子でいらっしゃいますから、他の人とはちがった自由と力をもっておられました。 けれどもまた、人となられたイエスさまは、他の人と同じように人間としての制限の中におられました。 そのイエスさまが十字架にかかって死なれ、三日目に死者の中から復活なさってからは、どうだったでしょう。

主イエスさまは「戸の閉ざされている家」(ヨハネ20・19、26)の中へ自由に入って来られました。 弟子たちの中に自由にあらわれ、また自由に姿を消されました。復活なさったイエスさまは、これまでとは「ちがった姿」(マルコ16・12)で、ご自分をあらわされたのでした。 どういうふうにちがっておられたか、その外見のお姿を、私たちは詮索する必要は無いでしょう。 ただ、ちがっているということ、何か全く新しいお姿、自由で栄光にみちた勝利のお姿であるということを知るだけで充分です。

そして「なぜ」そんなお姿に変わられたのかを知ることのほうが大切なのです。

「なぜ?」その答えは簡単です。「復活されたから」。

「なぜ、復活されたのか?」それは、主イエスさまが、ご自分の死をとおして、罪とサタンの力に打ち克たれたからです。 その勝利が復活となってあらわれたのです。その勝利は、もはや罪に苦しめられない、新しい存在に転回 ― 変化しました。その変化が、イエスさまの「ちがった姿」でのあらわれとなったのです。

(永井春子 著 「キリスト教教理」より一部抜粋)

3月

主題「十字架と復活 (2)」

聖書と説教 交読文 さんびか
6ルカ 23・26~31
「 キレネ人シモン 」
61、85、16
13ルカ 23・32~38
「 父よ、彼らをおゆるしください 」
72、83、16
20ルカ 23・44~49
「 わたしの霊を御手にゆだねます 」
83、84、16
27
イースター礼拝
ルカ 24・1~12
「 復活なさった主 」
134、91、16

27日 イースター(復活日)

『イエスさまの復活』

この主イエスさまのご復活と共に、新しいいのちがわたしたちに開かれたのです。 イエスさまはもともと神さまのおひとり子で真の神でいらっしゃるのですから、死者の中にとどまっておられるはずはありませんので復活は当然のことと思われます。 しかしただそれだけではなく、わたしたちを新しい存在にするために、新しい人類の代表者、また新しい人間の初穂として復活なさったのです。

(永井春子 著 「キリスト教教理」より一部抜粋)