日曜学校 月報集

2003年度の月報です。

2004年度

4月

主題「十字架と復活」

聖書と説教 交読文 さんびか
6マタイ 27・32~44
「 十字架 」
182、112、16
13マタイ 27・57~61
「 墓に葬られる 」
74、41、16
20マタイ 28・1~10
「 主イエスの復活 」
83、115A、16
27ヨハネ 20・19~23
「 弟子達に現れる 」
135、39、16

13日 入学・進級式
20日 イースター(復活日)

イースター

今月はイースターです。月の主題は「十字架と復活」です。イエスさまが十字架についてくださったのは、わたしたちを罪から救い出してくださるためでした。 そして、イエスさまの復活によって、私たちもイエスさまと同じ復活が約束されたのです。その喜びを神さまに感謝しましょう。

5月

主題「復活の主」

聖書と説教 交読文 さんびか
4ヨハネ 20・24~29
「 信じる者になりなさい 」
96、41、16
11ヨハネ 21・1~14
「 ティベリアス湖の漁 」
107、39、16
18ヨハネ 21・15~19
「 わたしを愛しているか 」
128、30、16
25ヨハネ 3・16~21
「 あなたはわたしに従いなさい 」
149、36、16

『復活の主』

弟子たちは主の十字架の死が救いのみ業のためになくてはならない大切な死であるなどとても考えることができませんでした。それで、実際に、イエスさまが復活なさったときは、おどろき、とまどうばかりでした。なかなか信じられませんでしたし、うたがいをぬぐうことはできませんでした。

それは、そうでしょう。復活というのは、ちょうど、わたしたちの生きている世界を水平線とすると、それに垂直にたっている出来事なのですから。イエスさまというただ一点で、この世界とちがった世界が開かれているからです。

でも、復活の事実が、そして何よりも復活なさったそのかたご自身が、弟子たちの疑いと不信を解いて、確固とした信仰にまでみちびいてくださいました。こうして「主は、ほんとうによみがえって、わたしたちに現れなさった」ということが、弟子たちの宣教の第一声となりました。

(永井春子 著 「キリスト教教理」より一部抜粋)

6月

主題「聖霊と教会」

聖書と説教 交読文 さんびか
1マタイ 28・16~20
「 世の終わりまで 」
1310、53、16
8使徒言行録 2・1~11
「 聖霊が語らせるままに 」
121、42、16
15使徒言行録 2・43~47
「 一つになって 」
172、75、16
22使徒言行録 5・1~11
「 聖霊を侮るな 」
164、34、16
29使徒言行録 13・1~3
「 聖霊に送り出されて 」
13、51、16

『聖霊の降臨』

イエスさまは復活されてから40日間、弟子たちの前にたびたびおあらわれになって、復活が事実であることを弟子たちに確信させました。それから天にお昇りになる前に「エルサレムから離れないで、かねてわたしから聞いていた父の約束を待っていなさい」といわれました。 それは、間もなく聖霊がくだるというお約束でした。それは、イエスさまが十字架におかかりになる前から、たびたび弟子たちにお話しておられたことでした。

いよいよイエスさまがいらっしゃらなくなって ―天にお昇りになって― 弟子たちは、一ヶ所に集まって、熱心にお祈りをしていました。今まで、イエスさまを中心にあつめられてきましたが、これからはどうなるのでしょう。 「わたしが去っても、あなたがたを孤児とはしない」「わたしが去る方があなたがたの益になるのだ」とのお約束は弟子たちを勇気づけ、はなればなれになるのを防ぎ、心を一つにして祈らせました。このペンテコステの日の聖霊降臨の出来事は、特別の意味を持っているのです。

(永井春子 著 「キリスト教教理」より一部抜粋)

7月

主題「神と人間」

聖書と説教 交読文 さんびか
6出エジプト記 3・1~12
「 モーセの召命 」
25、65、16
13出エジプト記 3・13~15
「 神の名―わたしはある 」
47、50、16
20出エジプト記 13・17~22
「 民を導く神 」
36、60、16
27出エジプト記 16・1~6
「 民を養う神 」
58、61、16

『神と人間』

今月は出エジプト記をとおして、神さまがイスラエルの民をエジプトから導き出されたことを学びます。

神さまは、このえらびの民との間に「契約(約束)」を結ばれました。それは、この民を神の民としてくださること、ちょうど、花嫁にされるようなものでした。 神さまはこの民に、ご自分の愛と誠実さを示されると共に、民がこの約束を守って、主なる神さまだけを神さまとしてあがめ、その方にだけ忠誠をつくして生きるようにお求めになりました。

神さまは、民がこの約束を守ってゆくために、また、ここから脱線してゆかないように「律法」をおあたえになりました。 「律法」によって、神さまのみこころをよく知り、神の民として、罪に走らないで、たえず神さまのみもとに立ち帰り、正しく礼拝をささげつつ生きるためでした。

(永井春子 著 「キリスト教教理」より一部抜粋)

8月

主題「救い」

聖書と説教 交読文 さんびか
3マタイ 11・28~30
「 休ませてあげよう 」
86、48、16
10マタイ 18・10~14
「 迷い出た一匹を捜す 」
98、108、16
17マルコ 10・17~22
「 あなたに欠けているもの 」
117、116、16
24ヨハネ黙示録 3・20
「 戸口に立ってたたいている 」
1210、95、16
31Iテサロニケ 5・9~10
「 主と共に生きる 」
109、107、16

『救い』

キリスト教の救いは「罪からの救い」です。ですから、それはただ「病気からの救い」とか「悪い性質をなおすこと」「不安な心に安心をあたえる」とかいうようなものではありません。それらの救いというのは、人間の困ったことの一部をたすけてくれるだけです。 そして、長つづきもしないのです。罪の表面だけ、ちょっと洗っても、その中に深い罪をもっていれば決して本当に洗われたことにはならないでしょう。

ところが、イエスさまによる「罪からの救い」は、人間を根本から救いますから、その人の全体―全人格が救われるのです。

聖書はそのことを「罪の僕(しもべ)」であったものが、「義の僕」になった(ローマ6・16~18)とか、「その人は新しく造られた者である」「すべてが新しくなったのである」(IIコリント5・17)などと言っています。わたしの全体がつくりかえられるのです。

(永井春子 著 「キリスト教教理」より一部抜粋)

9月

主題「信仰生活」

聖書と説教 交読文 さんびか
7ルカ 12・13~21
「 愚かな金持ちのたとえ 」
112、54、16
14ルカ 21・1~4
「 貧しいやもめの献金 」
123、52、16
21フィリピ 2・1~11
「 へりくだって 」
131、53、16
28Iコリント 1・26~31
「 主を誇る 」
154、51、16

『信仰生活(神の前に生きる)』

教会生活(信仰生活)の中心は何でしょうか? それは聖日礼拝を守ることですね。前に「教会」というところで、教会は、まず第一には建物でなくて、キリストの血をもってあつめられた群れであること、そして教会の一員になることは礼拝の民になることを学びました。教会生活にとっての生命は礼拝です。

礼拝の大切なことは、前にも学びましたが、もう一度考えて見ましょう。礼拝はどうしてそんなに大切なのでしょうか。それは、神さまが人間をおつくりになったのは、神さまを礼拝するためであったからです。ですから、人間の生きる第一の目的は、神さまを礼拝することなのです。

ところが人間が罪を犯してからは、神さまを正しく礼拝することができなくなりました。それでも人間は何かを礼拝せずにはおれないので、まことの神さまの代わりに、他のものを拝むようになりました。それが偶像礼拝です。 人間が自分の手でつくったものや、自然や他の人間を、また、自分自身を神さまにするのです。ですから、この聖日礼拝に対してどんな理解をしているか、どんな態度をもっているかがその人の信仰生活全体、そして、社会生活全体を左右するのです。

(永井春子 著 「キリスト教教理」より一部抜粋)

10月

主題「祈り」

聖書と説教 交読文 さんびか
5マタイ 6・5~6
「 祈るときには(1) 」
165、59、16
12マタイ 6・7~8
「 祈るときには(2) 」
176、55、16
19マタイ 6・9
「 御名が崇められますように 」
18、56、16
26マタイ 6・10
「 御国がきますように 」
37、57、16

主の祈り

「主の祈り」はイエスさまが教えてくださったゆえに、「神からの語りかけ」であると同じに「神への語りかけ」である祈りです。聖書には、み言であって、祈りである祈りがその他にも沢山あります。

「主の祈り」も、十戒と同じように、前半は神様に関わることがら、後半は人間に関わる祈りです。そして、それは二つのものではなく、一つのものです。

すなわち、「神さまのご栄光・みこころ・ご支配が、完全になしとげられますように!」との祈りです。神さまの栄光のあらわれを願い、確信しつつ、讃美をもって応答したのです。「国とちからと栄とは、限りなくなんじのものなればなり。アーメン」と。

この主の祈りから、「さんび、かんしゃ、ざんげ、とりなし、ねがい」など、キリスト教の正しいのりが、み言の養いの中で、ゆたかにはば広く生まれてくるのです。 わたしたちは、いろいろのことを自由に祈ってよいわけですが、祈りにおいて、神さまを自分の方へひきよせるのではなく、神さまの中へ合わせられ、みこころをわたしたちのこころとすることが大切です。

(永井春子 著 「キリスト教教理」より一部抜粋)

11月

主題「祈り」

聖書と説教 交読文 さんびか
2マタイ 6・11
「 必要な糧を与えてください 」
29、58、16
9マタイ 6・12
「 罪のゆるし 」
956、461(讃美歌)、54
16マタイ 6・13
「 救ってください 」
411、61、16
23ルカ 11・9~13
「 聖霊を求める 」
51、60、16
30マルコ 1・1~8
「 主が来られる 」
62、18、16

※9日の礼拝は、大人と合同で10時30分から12時です。分級は、9時からページェントの練習をします。

『祈り』

祈りは、わたしたちに語りかけてくださる神さまが、わたしたちにお求めになっているものですから、「祈らないことはもっとも大きな罪」(フォーサイス)なのです。 わたしたちには、たえずどんな時にも(エペソ6・18)、ことごとに(Iテサロニケ5・17~18)祈ることが大切ですが、「みこころにかなった正しい祈り」をするように努めなければなりません。

「みこころにかなった正しい祈り」。それはみ言と聖霊のお働きの中で知らされ、導かれます。わたしたちが信仰生活をつづけている時、お祈りも変えられてゆきます。自己中心から、神さま中心へと。 ですから、イエスさまは、わたしたちが切実に求めなければならないのは聖霊であることを明らかにされ、「天の父は、求めて来る者に聖霊を与えてくださらないことがあろうか」といわれました(ルカ11・5~13)。

祈りは大きく分けて二つあります。公の祈りと密室の祈りです。公の祈りは、他の信仰者と共に祈る祈りで、その中心は、聖日礼拝での祈りです。密室の祈りは、ただ神さまと自分だけの祈りです。

(永井春子 著 「キリスト教教理」より一部抜粋)

12月

主題「降誕・クリスマス」

聖書と説教 交読文 さんびか
7ヨハネ 1・9~12
「 まことの光 」
93、24、16
14マタイ 1・18~25
「 インマヌエル 」
105、20、16
21ルカ 2・1~20
「 大きな喜び(クリスマス) 」
114、27、16
28ルカ 2・25~35
「 あなたの救いを見た 」
137、26、16

※21日のクリスマス礼拝は、午前9時、クリスマス祝会は、午後3時30分からです。

『降誕・クリスマス』

クリスマスは救い主の到来、それは神さまの愛のみこころの具体的な実行でした。こうして、イエスさまがおいでになったことによって、罪の世界に、救いが入ってきました。神の国がここに到来しました。神の国といっても、それは場所的であるよりは、神さまと人間との関係・交わりが問題になっているものでした。

このイエスさまの周りに、イスラエル人からだけでなく、全世界から人々があつめられ、新しいイスラエルの民が、イエスさまの教会としてはじまったのです。今、わたしたちが教会にきていることは、このイエスさま・救い主のもとにあつめられて、神の民の一員とされていることを意味するのです。

(永井春子 著 「キリスト教教理」より一部抜粋)

1月

主題「イエス・キリスト (1)」

聖書と説教 交読文 さんびか
4マルコ 1・16~20
「 わたしについて来なさい 」
148、30、16
11マルコ 1・40~45
「 御心ならば 」
59、31、16
18マルコ 2・23~28
「 安息日の主 」
1710、32、16
25マルコ 3・31~35
「 イエスの母・兄弟 」
121、35、16

『イエス・キリスト』

1月から「イエス・キリスト」という主題で、イエスさまが十字架に向かって歩まれたお姿を学びます。

イエスさまがこの世界にお生まれになったこと、それは、神さまが人類の中へ入ってこられたことなのだというのです。すなわち、イエスさまは、「神さまが人となられたかた」なのだということです。 「神さまが、神さまではなくなることなしに、真に人間になられた」のです。ですから、人魚みたいに、半分は神さまで、半分は人間であるようなのではないのです。また、日本にもよくある、ある人を神さまにまつりあげる、 そういう神さまということでもないのです。その本質がもともと、まことの神さまでいらっしゃるかたが人間となられたのです。

ですから、わたしたちがイエスさまのことを、ただ、すばらしい人間だ、などと思っているだけではだめなのです。イエスさまを神さまとして受け入れるときに、はじめて、イエスさまのみ言や、いろいろのみわざの謎はとけて、正しく分かるのです。

(永井春子 著 「キリスト教教理」より一部抜粋)

2月

主題「イエス・キリスト (2)」

聖書と説教 交読文 さんびか
1マルコ 5・25~34
「 あなたの信仰があなたを救った 」
132、34、16
8マルコ 9・14~29
「 信仰のないわたしをお助けください 」
154、33、16
15マルコ 10・13~16
「 子供たちを祝福する 」
163、105、16
22マルコ 10・35~45
「 仕える 」
16、36、16
29マルコ 14・22~26
「 新しい契約 」
25、37、16

『イエス・キリスト』

罪とは「神さまにききしたがわないこと、反抗すること、神さまからはなれてゆくこと」。罪とは「神さまとのお交わりをできなくしているもの」であることをこれまで学んできました。

ところが、わたしたちはイエスさまによって、神さまの敵になっている自分を、神さまと戦争している自分の姿を知らされるのです。世界ではあちこちで戦争や争いがあったり、憎しみやうらみ、けんかがたえませんね。 それで、みんなが強く、平和をねがっていますね。でも、みなさんは、神さまと戦争している自分のことを考えたことがあるでしょうか? 神さまを敵にするなんて、そんな大それたことをしているなど、想像することもできないでしょう。 ところが、わたしたちは、その大それたことをやっているのです。自分でも気づかず、思ってもいないことなのですが、わたしたちは神さまに敵対しているのです。

人間は自分で神さまのもとから出てゆきましたが、もう自分で神さまのもとへ帰れなくなってしまいました。神さまの聖なる怒りをやわらげることも、自分で和解を求めることもできなくなったのです。 この深い永遠の淵(ふち)、永遠の裂目(さけめ)をイエスさまが埋めてくださったのです。

(永井春子 著 「キリスト教教理」より一部抜粋)

3月

主題「イエス・キリスト (3)」

聖書と説教 交読文 さんびか
7マルコ 14・32~42
「 ゲツセマネの祈り 」
47、38、16
14マルコ 15・1~5
「 ピラトの尋問 」
59、37、16
21マルコ 15・6~15
「 十字架に引き渡された主 」
38、31、16
28マルコ 15・21~32
「 十字架 」
910、112、16

『イエス・キリスト』

聖書がわたしたちに告げていることは、

神さまの方から和解の手をのべてくださったということ。神さまご自身が、この永遠の淵をうずめてくださったということです。しかも、神さまは、ただ手をのべられた、ただ淵をうずめられたのではありません。 そのために、ご自分を犠牲にされたのです。それが、み子イエスさまをこの世界につかわし、罪を負う苦難の道を通っての十字架の死となられたのです。

イエスさまはその死によって

  1. わたしたちのために、わたしたちの代わりに、死んでくださいました。
  2. ご自分をあがないの供物として、神さまの聖なる怒りを和らげてくださいました。
  3. 神さまと人間の間を妨げていた、罪の力、サタンと死の力を打ち破って、わたしたちを罪から解放してくださいました。

イエスさまを十字架につけたのは、人間の罪でした。サタンのとりこになっている罪人のわざでした。わたしたちは主の十字架にこそ、はじめて、自分の罪、人類全体の罪を、最もあからさまにみるのです。

(永井春子 著 「キリスト教教理」より一部抜粋)