日曜学校 月報集

2002年度の月報です。

2003年度

4月

主題「復活の主」

聖書と説教 交読文 さんびか
7ルカ 24・28~32
「 エマオの主 」
46、33、16
14ルカ 24・36~43
「 まさしくわたしだ 」
58、40、16
21ルカ 24・44~49
「 キリストの証人となる 」
69、36、16
28ヨハネ 16・33
「 既に世に勝っている 」
17、35、16

『復活の主』

イエスさまは、「戸の閉ざされている家」の中へ、自由に入ってこられました。弟子たちの中に自由にあらわれ、また、自由に姿を消されました。復活なさったイエスさまは、これまでとは「ちがった姿」で、ご自分をあらわされたのでした。 どういうふうにちがっておられたか、その外見のお姿を、わたしたちはせんさくする必要はないでしょう。ただ、ちがっているということ、何か全く新しいお姿、自由で栄光にみちた勝利のお姿であることを知るだけで充分です。 そして、「なぜ」そんなお姿に変わられたのかを知ることのほうが大切なのです。

「なぜ?」その答えは簡単です。「復活されたから。」

「なぜ、復活されたか?」それは、主イエスさまが、ご自分の死を通して、罪とサタンの力に打ち克たれたからです。その勝利が復活となってあらわれたのです。その勝利は、もはや罪に苦しめられない、新しい存在に、転回 - 変化しました。 その変化が、イエスさまの「ちがった姿」でのあらわれとなったのです。

(永井春子 著 「キリスト教教理」より)

5月

主題「聖霊」

聖書と説教 交読文 さんびか
5使徒言行録 1・3~5
「 聖霊の約束 」
21、44、16
12使徒言行録 1・9~11
「 天に上げられる 」
33、43、16
19使徒言行録 2・1~4
「 聖霊に満たされる 」
45、42、16
26使徒言行録 2・37~39
「 洗礼の恵み 」
54、45、16

5月19日 ペンテコステ

『聖霊』

イエスさまは復活されてから四十日間、弟子たちの前にたびたびおあらわれになって、復活が事実であることを弟子たちに確信させました。それから天にお昇りになりました。 天にお昇りになる前に「エルサレムから離れないで、かねてわたしから聞いていた父の約束を待っていなさい」といわれました。それは、まもなく聖霊がくだるというお約束でした。 それは、イエスさまが十字架におかかりになる前から、たびたび弟子たちにお話しておられたことでした。

いよいよイエスさまがいらっしゃらなくなって -天にお昇りになって- 弟子たちは、一ヶ所に集まって、熱心にお祈りをしていました。 今まで、イエスさまを中心に集められてきましたが、これからはどうなるのでしょう。もし、イエスさまのお約束がなかったら、弟子たちは途方にくれ、ばらばらになってしまったことでしょう。

約束の聖霊が、弟子たちの群れ全体に、そして一人一人にくだったのです。

(永井春子 著 「キリスト教教理」より)

6月

主題「主の証人」

聖書と説教 交読文 さんびか
2使徒言行録 3・1~10
「 イエス・キリストの名によって 」
13、36、16
9使徒言行録 7・54~60
「 主イエスよ、私の霊をお受けください 」
21、37、16
16使徒言行録 8・26~40
「 イエスについて福音を告げ知らせる 」
34、38、16
23使徒言行録 9・1~8
「 わたしはイエスである 」
72、53、16
30使徒言行録 20・17~24
「 主イエスからいただいた任務 」
85、52、16

『主の証人』

世界を救うためにおいでになったイエスさまは「罪人」を救うためでした。初代教会の人々は「キリスト・イエスは罪人を救うためにこの世にきてくださった」(Iテモテ1・15)と告白して、罪からの救い主として感謝したのでした。 さらに、その罪人とは、パウロのように、わたしのことなのだ、「わたしこそ、その罪人のうちで頭なのだ」と感じることが大切なのです。

わたしたちも、イエスさまをどんな方として信じているでしょうか。本当に、自分の罪を赦してくださった方として感謝しているでしょうか。

そのようなイエスさまをわたしの救い主として、しっかり信じ、告白するところから、わたしたちは、また、わたしたちの周囲の人びと、そして、全世界の人々にとっても救い主であることを確信することができるのです。イエスさまの証人として友達やお家の人に伝えましょう。

(永井春子 著 「キリスト教教理」より)

7月

主題「神と人間」

聖書と説教 交読文 さんびか
7創世記 12・1~7
「 主の言葉に従う 」
46、53、16
17創世記 22・1~14
「 イサクをささげる 」
58、51、16
21創世記 28・10~22
「 主がおられる 」
67、50、16
28創世記 45・3~8
「 神のご計画 」
71、54、16

『神と人間』

神さまはこの世界・宇宙、その中にあるもの、人間や動物や植物などをおつくりになりました。神さまは、それを見守り、導き、養い育ててくださっています。 神さまはつくられたすべてのものをみこころにかけ、それを恵みのみ手でもって支配しておられるのです。

神さまのご支配はあまりに大きので、わたしたちはその全体をみることはできません。神さまの知恵は、あまりに深いので、私たちはその深さまで至ることはできません。 けれども、私たちの眼をイエスさまという焦点に合わせますと、神さまのご支配の偉大さ、つくられた一つ一つ、どんな小さなものも、心を配られている神さまのみ恵み深いご配慮がよくわかるのです。

わたしたちは、ただ神さまに眼と心を集中して神さまにおまかせしながら、神さまのみこころは何であるのかをたずねてゆくことが大切です。

(永井春子 著 「キリスト教教理」より)

8月

主題「救い」

聖書と説教 交読文 さんびか
4ルカ 14・15~24
「 主の招き 」
82、48、16
11ルカ 15・11~24
「 放蕩息子のたとえ 」
13、51、16
18ルカ 19・1~10
「 今日救いがこの家を訪れた 」
24、68、16
25使徒言行録 16・25~34
「 主イエスを信じなさい 」
35、54、16

『救い』

ほんとうの救いというのは「罪からの救い」です。ほんとうの救い主というのは「罪から救ってくださるかた」です。そして、キリスト教の救いというのは「罪からの救い」です。 またイエスさまというかたは、わたしたちを「罪から救ってくださる救い主」わたしたちから「罪を除いてくださる救い主」なのです。

わたしたちは、このことをしっかり覚えておきましょう。そうでないと、ほかの人が「キリスト教たって、世の中にいろいろある宗教の一つだ」と言ったとき、教会へきている皆さんでも、そうかなと思ってしまうことがあるからです。

その宗教は、「何からの救い」を目的にしているのか、「救う方は誰なのか」「そのかたは、どんな方法で救われるのか」など、よくしらべることは、とても大切なのです。 そうしたら、同じ「救い」という言葉を使っていても、なかみがちがうことが分かるでしょう。そのなかみのちがいをはっきりさせて行ったら、キリスト教の特色がはっきりしてきます。

(永井春子 著 「キリスト教教理」より)

9月

主題「信仰生活」

聖書と説教 交読文 さんびか
1マタイ 5・13~16
「 地の塩・世の光 」
106、62、16
8マタイ 13・3~9
「 種まきのたとえ 」
412、71、16
15マタイ 25・14~30
「 タラントンのたとえ 」
58、50、16
22エフェソ 4・17~24
「 古い人を捨てて 」
89、53、16
29エフェソ 4・25~32
「 新しい生き方 」
91、52、16

『信仰生活(信仰者として生きる)』

先月勉強したザアカイは、イエスさまをお迎えして、自分からすすんで財産の半分を貧しい人々に分け与え、不法に税金をとりたてた人には4倍にして返すことを申し出ました。 今まで他の人々から、その罪を責められていたザアカイにはできなかったことが、主イエスさまによって、自由に喜んで、することができたのです。 それは、イエスさまの恵みに対する感謝の応答として自然にでてきたことでした。

このように、自分が罪人であることをみとめ、キリストによる罪の許しを信じて感謝している人々は、同時に、隣人に対して、ほんとうに善い業をすることができるのです。 ルター先生は「神の前には信仰のみが益がある。隣人の前には善き業が益がある。そしてキリストは罪人を、神と人との前に益あるものにしてくださった」といっています。

(永井春子 著 「キリスト教教理」より)

10月

主題「十戒」

聖書と説教 交読文 さんびか
6マタイ 22・34~40
「 最も重要な二つの掟 」
12、51、16
13申命記 5・1~7
「 十戒(第1戒) 」
33、54、16
20申命記 5・8~10
「 十戒(第2戒) 」
24、52、16
27申命記 5・11
「 十戒(第3戒) 」
45、44、16

『十戒』

神さまに対する感謝と服従の生活の基準として、神さまは、もちろん、聖書全体をお与えくださっているわけですが、その中で、特に律法、その要約である十戒をお与えくださいました。 十戒は、神さまがモーセを通して、神の民として生きるべきイスラエルにお与えになったルールですが、それはまた、新しいイスラエルである、キリストの民・福音に生きる人々に自由の律法・新しい戒めとして、お与えになっているのです。

十戒は二枚の石の板、あるいは、一枚の石の表と裏とに書かれていたといわれますように、明らかに、二つの部分から成っています。

そして、前半が神さまに対する愛と奉仕になっています。この二つの部分は並んでいるのではなく、隣人への愛と奉仕は、神さまへの愛と奉仕の中に含まれているもの、あるいは付随しているものです。

(永井春子 著 「キリスト教教理」より)

11月

主題「十戒」

聖書と説教 交読文 さんびか
3申命記 5・12~15
「 十戒(第4戒) 」
56、49、16
10申命記 5・16
「 十戒(第5戒) 」
幼児祝福
大人と合同礼拝
17申命記 5・17~21
「 十戒(第6~10戒) 」
68、53、16
24ルカ 10・25~37
「 善いサマリヤ人 」
71、35、16

※10日の礼拝は、大人と合同で10時30分から12時です。
分級は9時からページェントの練習をします。

『十戒 (II)』

神さまへの愛と奉仕と、隣人への愛と奉仕とは、どこで実行されるのでしょうか。それは、教会生活と社会生活においてです。教会生活というのは、教会の肢としての生活です。社会生活というのは、この世の人々と共同に生活することです。 教会に来ている人は、この二つの共同体に参加して生きています。この二つの生活は、離れていてもいけませんが、区別がなくてもいけません。それは、主と従の関係で、十戒の前半から後半が出ているように、正しい教会生活から、正しい社会生活が出てくるのです。

この教会生活の中心は何でしょうか?それは聖日礼拝を守ることですね。前に「教会」というところで、教会は、まず第一には建物でなくて、キリストの血をもってあつめられた群れであること、そして教会の一員になることは礼拝の民になることを学びました。 教会生活にとっての生命は礼拝です。

(永井春子 著 「キリスト教教理」より一部抜粋)

12月

主題「降誕・クリスマス」

聖書と説教 交読文 さんびか
1イザヤ書 9・1~6
「 平和の君 」
12、25、16
8イザヤ書 40・3~5
「 道を備えよ 」
61、26、16
15マタイ 1・18~25
「 インマヌエル 」
93、23、16
22マタイ 2・1~12
「 東の学者たち 」
115、21、16
29マタイ 2・13~15
「 エジプトへの避難 」
134、19、16

※12月22日の祝会・聖誕劇は午後3時30分から

『降誕・クリスマス』

神さまは、罪におちて、神様の相手ができなくなった人間を救うために、救いのご計画をすすめてゆかれました。神さまはそのために多くの民のうちから、イスラエルの民をお選びになりました。 イスラエルの民は、本当は、神さまが人間にあわれみ深いか、人間は神さまに対して、どんなたいどで生きなければならないか、そのあかしをして、他の国のひとびとも、神様のもとに立ち帰り、正しい生き方をするようになるためでした。 そのための救い主をイスラエルの民は、長い間、待ち望んでいたのです。

(永井春子 著 「キリスト教教理」より一部抜粋)

1月

主題「イエス・キリスト (1)」

聖書と説教 交読文 さんびか
5マタイ 3・13~17
「 主イエスの洗礼 」
56、30、16
12マタイ 4・12~17
「 天国は近づいた 」
127、31、16
19マタイ 8・23~27
「 嵐を静める 」
148、32、16
26マタイ 9・1~8
「 罪を許す権威 」
171、33、16

『イエス・キリスト』

12月はイエスさまの誕生について学びました。1月からはイエスさまの公生涯について勉強します。

イエスさまが、なぜ、馬小屋の中にお生まれになり、そして十字架への道を行かれたのか、なぜ「侮られて人に捨てられ、悲しみの人で病を知っておられた」のか疑問に思うことがあるでしょう。そうした疑問は、ぜんぶ、このイエスさまのお誕生の目的から、はっきり答えを与えられるのです。

イエスさまのご生涯は、わたしたち人間の罪をご自分の上にお引き受けになったご生涯でした。そして、わたしたちのために罪のつぐないを完成してくださったのです。 それは「まことの神にして、まことの人なる」お一人のかた、神性と人性とをもったお一人のかた、イエス・キリストだけが成しとげるのことのできた、みわざでした。

この恵みによって、わたしたちは今、イエスさまを信じさえすれば、神さまのみ前に出られるように道が開けているのです。そのイエスさまの歩まれたご生涯について学びます。

(永井春子 著 「キリスト教教理」より一部抜粋)

2月

主題「イエス・キリスト (2)」

聖書と説教 交読文 さんびか
2マタイ 11・2~6
「 来るべき方 」
132、36、16
9マタイ 14・13~21
「 欠乏の中の祝福 」
154、104、16
16マタイ 14・22~33
「 近づかれる主 」
163、53、16
23マタイ 16・13~16
「 あなたはメシヤ、神の子 」
15、67、16

『イエス・キリスト』

聖書がわたしたちにつげていることは、神さまの方から和解の手をのべてくださったということ。神さまご自身が、この永遠の淵をうずめてくださったということです。しかも、神さまは、ただ手をのべられ、ただ淵をうずめられたのではありませんでした。 そのために、ご自分を犠牲にされたのです。それが、み子イエスさまをこの世界につかわし、罪を負う苦難の道を通っての十字架の死となられたのです。

イエスさまはその死によって、

  1. わたしたちのために、わたしたちの代わりに、死んでくださいました。
  2. ご自分をあがないの供え物として、神さまの聖なる怒りを和らげてくださいました。
  3. 神さまと人間の間を妨げていた、罪の力、サタンと死の力を打ち破って、私たちを罪から解放してくださいました。
(永井春子 著 「キリスト教教理」より一部抜粋)

3月

主題「イエス・キリスト (3)」

聖書と説教 交読文 さんびか
2マタイ 16・21~23
「 死と復活の予告 」
176、31、16
9マタイ 26・6~13
「 葬りの中準備 」
38、70、16
16マタイ 26・47~56
「 逮捕される 」
27、37、16
23マタイ 26・57~68
「 最高法院での裁判 」
49、38、16
30マタイ 26・69~75
「 ペテロ、知らないと言う 」
51、35、16

『イエス・キリスト』

罪とは、「神さまにききしたがわないこと、反抗すること、神さまからはなれてゆくこと」 罪とは、「神さまとのお交わりをできなくしているもの」であることをこれまで学んできました。 ところが、わたしたちはイエスさまによって、神さまの敵になっている自分、神さまと戦争している自分の姿を知らされるのです。

世界ではあちこちで戦争や争いがあったり、憎しみやうらみ、けんかが絶えませんね。それで、みんなが強く、平和を願っていますね。

でも、みなさんは、神さまと戦争している自分のことを考えたことがあるでしょうか?神さまを敵にするなんて、そんな大それたことしているなど、想像することもできないでしょう。ところが、わたしたちは、その大それたことをやっているのです。 自分でも気づかず、思ってもいないことなんですが、わたしたちは神さまに敵対しているのです。そのような、わたしたちを赦すためにイエスさまが十字架についてくださったのです。

(永井春子 著 「キリスト教教理」より一部抜粋)