日曜学校 月報集

2001年度の月報です。

2002年度

9月

主題「救い」

聖書と説教 交読文 さんびか
2ルカ 7・36~50
「 罪の赦し 」
26、53、16
9ルカ 13・6~9
「 悔い改めの必要 」
15、49、16
16ルカ 17・11~19
「 本当に救われた者 」
38、51、16
23ルカ 18・9~14
「 ファリサイ派の人と徴税人 」
49、52、16
30ヨハネ 3・16~18
「 御子による救い 」
77、54、16

10月

主題「信仰生活」

聖書と説教 交読文 さんびか
7Ⅰテサロニケ 5・16~18
「 喜び、祈り、感謝しなさい 」
81、49、16
14マタイ 18・21~35
「 赦しなさい 」
53、50、16
21ヨハネ 13・12~15
「 互いに足を洗いなさい 」
14、43、16
28Ⅰヨハネ 4・7~12
「 互いに愛し合いなさい 」
22、44、16

『信仰生活』

今月は、「信仰生活」について勉強します。信仰生活とは何でしょうか。信仰生活とは、自分のおかした罪に気づき、罪を告白して神様のところへ帰ってゆき、神様のみことばに従った生活を行うことです。

また、神様への愛と奉仕と、隣人への愛と奉仕を行う生活のことです。それは、どこで実行されるのでしょうか。教会生活と社会生活においてです。教会生活というのは、教会の肢(えだ)としての生活です。

教会生活の中心は聖日礼拝です。人間の生きる第一の目的は神様を礼拝することなのです。社会生活というのは、この世の人びとと共同に生活することです。

教会に来ている人は、この二つの生活は、はなれていてもいけませんが、区別がなくてもいけません。それは、主と従の関係で十戒の前半から後半が出ているように、正しい教会生活から、正しい社会生活が出てくるのです。

(永井春子 著 「キリスト教教理」より)

11月

主題「終末」

聖書と説教 交読文 さんびか
4マタイ 24・3~14
「 終末のしるし 」
12、36、16
11創世記 15・1~6
「 神の約束 」
3546、8、34、16
18マタイ 25・1~13
「 目を覚ましていなさい 」
24、35、16
25マタイ 25・31~46
「 右と左に分ける 」
45、49、16

※11日は幼児祝福礼拝で大人礼拝と合同です。
時間は9時から分級で、10時30分から礼拝です。

『終末』

終末とは「終り」のことです。「終り」を知ることは、「神きまの前に立つこと」、また、「自分の死に直面すること」なのです。

みなさんは「明日、死ぬかもしれない」とき、どうしますか。「いつ、神さまに召されてもよいように」そういう生きかをすることが、終りの日にそなえて生きる生きかたです。「明日死ぬかもしれない」ときでも、もし、その人が、からだの死のことだけしか、考えないで、前に学んだ「魂の死」のことを知らなければ、あるいは「わたしたちは飲み食いしようではないか、あすもわからぬいのちなのだ」(Iコリント15章32節)といって、今の短い時を、ただたのしむことだけしかしないような生きかたをするかも知れません。

ジョン・ウエスレー先生だったと思います。ある人から「あす死ぬときはどうされますか」ときかれたとき「今日、予定していた、そのとおりのことをします」と答えたそうです。ウエスレー先生が毎日をどんなに真剣に、神さまのみ前での生活をたいせつにされていたかがわかります。

(永井春子 著 「キリスト教教理」より一部抜粋)

12月

主題「待降・クリスマス」

聖書と説教 交読文 さんびか
2ルカ 1・26~38
「 お言葉どおりに成りますように 」
53、23、16
9ルカ 1・39~56
「 マリアの讃歌 」
96、24、16
16ルカ 1・67~79
「 予言の実現 」
108、26、16
23ルカ 2・1~7
「 飼い葉桶の主 」
147、20、16
30ルカ 2・8~20
「 大きな喜び 」
169、25、16

『救い主の到来』

旧約聖書の時代からの約束である救い主こそ、イエス様でした。イエス様がこの世界に誕生されたことによって、救い主の来臨は実現されたのです。

イエス様は偶然に世の世界に来られたのでも突然においでになったのでもありません。神様の救いのご計画の歴史の中心として、また、神様を信じる人々の長い待ち望みのうちにおいでになったのです。それがクリスマスです。

(永井春子 著 「キリスト教教理」より一部抜粋)

1月

主題「イエス・キリスト (1)」

聖書と説教 交読文 さんびか
6ルカ 4・1~13
「 荒野の誘惑 」
121、81、16
13ルカ 4・16~21
「 恵みの年の実現 」
12、31、16
20ルカ 5・27~32
「 罪人を招く 」
24、32、16
27ルカ 7・1~10
「 百人隊長の僕をいやす 」
35、53、16

『イエス・キリスト』

1月から3月までイエスさまがこの地上でどのように生きられたかを学びます。

まことの人イエスさまとはどういう意味でしょう。

それは本当に完全に人間であられるということです。もう一つは、私たち人間が、もともとあるべきだった、まことの姿の人間を示しておられるということです。 神様が人間となられ、このようなイエスさまがお生まれになったので、私たちは、神様のみ前に帰ることができるようになったのです。神様とお話をし、交わることができるようになったのです。 「まことの神にして、まことの人なる」お一人のかた、神性と人性をもったイエス・キリストだけが成しとげることができたみわざでした。

この恵みによって、私たちは今、イエスさまを信じさえすれば、神様のみ前に出られるように道が開かれているのです。

(永井春子 著 「キリスト教教理」より一部抜粋)

2月

主題「イエス・キリスト (2)」

聖書と説教 交読文 さんびか
3ルカ 10・38~42
「 マリアは良い方を選んだ 」
44、30、16
10ルカ 18・35~43
「 ダビデの子イエスよ 」
57、35、16
17ルカ 19・28~40
「 エルサレムに迎えられる 」
66、33、16
24ルカ 19・45~46
「 神殿の主 」
78、34、16

『イエス・キリスト』

まことの神でありながら、私たち人間を罪から救うために、まことの人となられたイエスさまは、どのようにして、救い主としての使命をはたされたのでしょうか。それは、預言者・祭司・王としての務めによってでした。

預言者は神さまのみ言をきいて、それを神さまに代わってひとびとに伝えます。祭司は神さまと人間との間をとりなす役目をもっています。ひとびとのために、それに代わって、神さまにお仕えします。 王は何か、分かるでしょう。国を治める役目です。イスラエルでは、王さまは民の上にただ支配するのではなく、真の王なる神さまのみ旨に従って、治め、秩序を保ち、神の民を偶像礼拝の民から守ってゆくのが務めでした。

イエスさまはお一人で、この三つの務めを全部かねておられ、この三つの務めを、誰もまねることのできないほど、完全になしとげられました。

(永井春子 著 「キリスト教教理」より一部抜粋)

3月

主題「イエス・キリスト (3)」

聖書と説教 交読文 さんびか
3ルカ 20・9~19
「 ぶどう園と農夫のたとえ 」
13、36、16
10ルカ 23・32~38
「 十字架 」
21、37、16
17ルカ 23・39~43
「 右と左の犯罪人 」
34、38、16
24ルカ 23・44~49
「 御手にゆだねます 」
72、39、16
31ルカ 24・1~12
「 主イエスの復活 」
85、41、16

『イエス・キリスト』

主イエスさまの十字架の死が敗北であったのではなく、勝利であったこと、罪と、罪の結果である死が、また、私たちを罪に誘うサタンの力が、決定的に打ち破られたことを知ったのです。 十字架の上で、本当に死んで、死の支配の中にまで入ってゆかれた方が、三日目に死者の中から復活されたのです。それは生き返ったのではありません。新しい生命へと復活されたのです。

(永井春子 著 「キリスト教教理」より一部抜粋)