◆中学生の成人式〜 2004.1.13 鏡裕之  
   

 家裁調査官という職業がある。
 少し乱暴にいえば、非行を犯した少年少女やその保護者と面接をし、どういう処分がいいのを裁判官に意見を掲出する調査官のことだ。
 その家裁調査官が書いた本で、以前面白い記述に出会ったことがある。曰く、一昔に比べれば、子供の精神年齢が3つは下がっている──。
 ちょうど、成人式での新成人の行状が問題になり始めた頃だった。ピンと来るものがあって知人にその話をしたところ、高校生の子を持つ母親が、それ、わかると言い出した。
 3年生になる息子の友達が泊まりに来た時のこと。お風呂場の更衣室に入ると、ちょうど友達の子が着替えている真っ最中だった。だが、パンツいっちょの17歳はまるで子供のような顔をしていたという。
 どうやら、3つどころか、5つほど精神年齢は低くなっているらしい。5つだとすると、当該の少年の精神年齢は12。まだ小学生から中学生になったばかりで、自分の身体意識への幼稚さもぴったりと符合する。本当に精神年齢が17歳の子なら、自分の友人の母親にパンツ姿を見られて普通でいられるはずがない。
 さらに精神年齢が5つ下だとすると、成人式での新成人の横暴ぶりも納得がゆく。
 新成人の年齢は、もちろん二十歳だが、精神年齢が5つ低いとすると、15歳。ちょうど中学3年生が暴れ回っているような計算になる。そう考えて今年の事件を見ると、どうだろう。
 大阪府交野市の成人式で、祝辞を述べている市長に生クリームをぶつけた無職二十歳。
 宮城県古川市で、成人式終了後に駆けつけた消防署員の頭を叩いたり、救急車を蹴ってへこませた新成人。
 開式前から一升瓶を回し飲みし、壇上でズボンを脱ごうとしたり花瓶の花を食べたり、市民憲章の書かれた懸垂幕5本を引きずり下ろしたりした静岡県伊東市の新成人。
 高校生の暴れ方というよりは、中学生の暴れ方に近い。中学生が酒をかっ喰らって暴れ回っているような感じだ。
 新成人の暴行は、市町村や地域社会という共同体が崩壊したことを改めて示しているが、それと同時に、彼らの精神年齢が驚くほど低いレベルにあることも示している。今の成人式は、とても成人とは呼べぬ、身体は二十歳、心は中学生の子たちが集まっているのだ。
 なぜそうなってしまったのか。少し予想図を描いてみよう。
 成人式の問題が起こり始めたのは、ハルマゲドンが来るはずだった1999年頃ではなかったかと思う。その頃、成人式を迎えるのは1979年生まれ。単純に考えると、父親は1950〜55年頃の生まれ、母親は55年頃の生まれだろう。
 1950年代前半といえば、高校時代に大学紛争を眺めていた世代だ。この世代の父親は、変に物分かりがよく、子供に対してかつてのような高圧的な態度をもってではなく、友人的な態度で接した人たちが多かったのではなかろうか。さらに母親は、物質的不足を知らず、物質経済を享受していった世代で、さらにいえば、進学熱が急速に過熱していった世代でもある。
 本来、親には子供の壁となって社会を知らしめる機能がある。だが、父親が友達感覚を選択したことによってこの機能は失われてしまった。さらに1970年の三種の神器の国民的普及によって、母親には余暇時間が生まれてしまった。この余暇時間を、母親は子供への教育愛に費やして、子供たちを母親べったりにしてしまった。突き放すことで成長するはずだった子供の精神的成長は、これによって阻害されてしまった。
 結果、生み出されたのは、60年代生まれの子供たちよりも3つも5つも精神年齢の低い、自律できない子供たちだった。父親と母親の機能不全と機能偏向が、精神的発達の未熟な子供たちを量産してしまったのだ。
 もちろん、これはひとつの分析予想である。けれども、決してありえない話ではない。深夜に娘を補導されながら、警察に対して「よろしくお願いします」と宿泊所代わりにしようとした母親。万引きした子を叱らず、塾に急かした母親。子供を引き取りに来てもご迷惑をおかけして……なんて言葉も言わなければ頭も下げず、逆に万引きぐらいで……とこぼした母親。親が十分に叱責していないこと、躾をしていないこと、社会の掟を教え込んでいないことは、川崎少年万引き事件を見るまでもなく、明らかだ。
 現代の少年は、精神年齢が5つ後退している。成人式の問題は、親が親として機能しない限り──いい加減な親が量産される限り──つづくだろう。今は、教育以前に躾が崩壊しているのだ。だからといって、精神年齢が本当の成人に達する25歳の年に成人式を行なうこともできまい。酒・煙草の年齢を5年引き上げるわけにもいくまい(経済的なマイナス効果で、企業は猛反対するはずだ)。
 78年以降の成人を、成人と思ってはならない。大学を卒業したからといって大人と思ってはならない。今、あなたの職場にいる子たち、短大を卒業して入っている子たちは、精神的に未成年なのだ。大学を卒業してもまだ高校生なのである。

   韓国では、成人式はない。だから、日本で成人式があると聞くと、市が式典など開いてくれるのかと驚きの方があるそうだ。
 成人式の是非はともかく、個人的には、成人式で問題を起こした新成人に対しては、成人なのであるから、名前を公表し、社会の洗礼を浴びせるという形を取ったほうが望ましいように思える。そのことによって、その新成人の将来を阻害する可能性はあるけれど、だからといって公表を控えたところでその新成人の反省や精神的発達が促されるわけではあるまい。
 知人曰く、成人になるということは、もはや少年Aや少女Bとはならぬことである。古代中国の言葉で信賞必罰というのがあるが、言い聞かせるだけでは二十歳の人間は直らぬのだ。痛い目に遭わないと、人間は己の過ちを悟らぬのである。
 社会がやわらかくなりすぎてはいけない。親がやさしくなりすぎてはいけない。そうしてしまっては、子供はキレやすくなり、精神は未熟になる。子供が精神的に発達するためには適切な刑罰──強固な壁──が必要なのだ。

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