◆親という人でなし〜川崎少年万引き事件〜 2003.2.4
   

 いつから、親は人でなしになったのだろう。いつから、当たり前のことをする人が人殺しと呼ばれるようになったのだろう。
 1月21日午後4時20分、川崎市内の、ある古書店チェーンの1店舗。
 15歳の川崎市内の中学3年生Aは漫画の単行本6冊を服の中に入れて店外へ出た。防犯カメラで様子を見ていた店長が呼び止めたが、生徒が正しい名前や学校名、連絡先などを話さなかったため、店員が警察に通報、署員4人が駆けつけた。生徒は万引きを認めたが連絡先を言わなかったため、署員が任意同行を求めたところ、少年は「自転車で来たので、鍵を掛けさせてほしい」と話して店外に出た。ところが、少年は署員の隙を見て、突然持っていたリュックサックを投げ捨てて逃走。署員1人が追跡したが、少年Aは遮断機の下をくぐって踏切に入り、午後4時50分、京浜急行・青砥発三崎口行き快速特急(8両編成)にはねられ、全身を強く打って死亡した。
 川崎万引き少年事件の顛末は以上である。だが、問題はこの後に起こった。
 この事件が報じられた後、店長に対しての非難が続出。電話をかけてなじる者、店に来て「人殺し」と言う者までいたという(逃走させてしまった4人の警官に対する批判は、不思議と聞かなかった)。
 テレビのインタビューでも、ある女性は「私は(書店を)許せません! 何が何でもパトカーを呼んだりしたら子供が何を起こすかわからないと(書店に)言った」と答え、別の女性も「子供相手の商売してるなら万引きはよくある。(書店は)配慮してくれないと」と返答。「中学生くらいの子が万引きをしたりするのは、誰でもやっていることで、そんなことで警察を呼ぶなんてほんとうにひどい」 と言う女性もいた。死んだ少年の父親も、「廃業していただければ本当にうれしい。あそこを通るのはつらいし。本屋さんの中でウチの子はどんなつらい思いをしたか。きっと一生懸命、謝ったと思うんですよ。しかし、あんな形で死んでしまって本当に悲しい死に方でした」とインタビューに応じていた。
 精神的に追い詰められた店長は、26日朝、「意見を真摯に受け止め廃業します」との張り紙を張って店を閉めた。「特に落ち度はなかったと思っているが、それと1人の少年の死との折り合いがつけられなかった」「閉店が皆さん納得する形ではないか」と思ったのだという。廃業宣言をしてからも、「家に引きこもっていた。気持ちの整理をつけるため、テレビなどは見なかった」そうだ。

 店長はいきすぎた対応をしたのだろうか。本当に苦しんで当然のことをしたのだろうか。
 もし店長が怖い人を呼んで脅したとか、ぼこぼこにしたとかいうのならば非難されても仕方なかっただろうと思う。だが、記事を精読するに、書店側の対応は適宜で落ち度が見られない。
 まず、万引きについて。
 万引きというものは、ものを持って店を出たとたんに成立するものである。宝石だろうが本だろうが、それを店内で持っているだけでは万引きにはならない。それを持って店外に出た瞬間に万引きが成立するのである。今回の事件の場合、店長は、少年が本を持って店を出てから声をかけている。万引きは成立しているわけで、店長に不備はない。
 次に、警察への通報について。
 少年が素直に名前と連絡先を言っていれば、警察沙汰にはならなかったかもしれない。相手が未成年の場合は、基本的に親や学校の者に引き取りに来てもらうのが通常だからである。だが、少年は正しい名前も連絡先も言わなかった。つまり、埒があかなかったわけで、警察権力のない書店ではどうにもできない。そういう場合は、警察を呼ぶしかないわけである。実際、少年は連絡先を明かさなかったわけであり、店側としては警察に連絡するしかない状況であった。したがって、店側に落ち度はなく、むしろ理に適ったものと言える。
 にもかかわらず、なぜテレビのインタビューに応じた女性たちは書店を批判したのだろう。
 「パトカーを呼んだりしたら子供が何を起こすかわからない」というが、何を言うからわからないからパトカーを呼ぶなというのか? 少年が正しい名前も連絡先も言わなかったのに? そもそも、少年が素直に名前と連絡先を言っていれば、警察など呼ばなくてもすんだはずなのだ。悪いのは、正直に言わなかった少年なのか、それを聞き出せなかった書店なのか?
 おまけに少年は名前を言わなかったばかりか、「自転車で来たので、鍵を掛けさせてほしい」と隙を見て逃げ出している。それを卑怯と呼ばずして何と呼ぶのか。その逃走まで弁護するつもりなのか?
 「子供相手の商売してるなら万引きはよくある。(書店は)配慮してくれないと」というが、よくあるからといって泣き寝入りしろというのか? 配慮というのならば盗まれた本の代金は、あなたが全額支払ってくれるのか。
 「中学生くらいの子が万引きをしたりするのは、誰でもやっていることで、そんなことで警察を呼ぶなんてほんとうにひどい」 というけれど、では、そもそも万引きすることはいいことなのか? 万引きは犯罪ではないのか? みんながやっているからといって許されることなのか?
 少年の父親も父親だ。息子を失った悔しさから「廃業していただければ本当にうれしい」と失言してしまう気持ちはわかるが、「本屋さんの中でウチの子はどんなつらい思いをしたか」とはどういうことか。悪いことをしたのはどっちなのだ? 少年か? 書店か? 書店が法に触れることをしたのか? 悪いことをしてつかまってつらい思いをするのは当たり前。どこに同情の余地があるというのだ? 「きっと一生懸命、謝ったと思うんですよ」などというが、一生懸命とか謝れば済むという問題なのか?
 死は悲しい結末である。しかし、かわいそうだからといって書店を責める論理に、正当性はない。それはあまりにも倒錯した論理である。
 多くの人は知らないことだが、現在毎月50〜70店舗(2003年以降は、毎月役150店舗)の書店が潰れている。その大きな原因のひとつが、万引きなのだ。書店はもともと薄利多売である。非常に利益率の低い商売である。しかも今は不況で、どこも経営は逼迫している。そんな状況下で万引きが多くなれば、店を閉めざるをえなくなる。日本書店商業組合連合会などによれば、本の万引きはコミックなどを中心に増加、最近では換金を目的にした「大量・根こそぎ型」といわれる万引きが増えている。特に発売直後の人気コミックや高額な写真集の被害が急増中で、全国220店舗を展開する文教堂書店でも昨年だけで約4億円、紀伊国屋書店でも一昨年に約7億円、昨年4億円の被害を被っている。万引きによる年間被害総額は300億円。これはコミックにして750万冊、文庫にして500万冊相当の被害に当たる。コミックで考えた場合、1日に2万冊もが万引きされている計算になるのだ。
 中学生ぐらいなら誰でもやっているからといって、万引きは放置できるものではないのである。大事(おおごと)なのだ。
 那覇簡易裁判所も、昨年7月、発泡酒1缶を万引きした再犯者にこう判決している。「現物が返されて実害はないが、万引きを放置すれば商売が成り立たなくなる。苦しい生活をしている人もいるのに、安易に人のものに手を出した」。
 今回の事件にしても同じである。
 少年は本を盗んだ。その額は6冊合計にしてわずか1750円。本は書店に戻り、表面づら被害はなかったかのように見える。だが、万引きを放置すれば商売が成り立たなくなるのだ。こと、書店のように薄利多売で利益率の低い世界では、万引きの放置は命取りなのである。1冊盗まれた損失は、4冊売れなければ取り戻すことができない。
 30年ほど前なら、恐らくこの事件に対して人々の反応は、「アホか」「逃げるからや」の一言で済んだだろう。因果応報。盗むやつが悪い。祖母や祖父なら「そもそも悪いことをしたからそうなるんや、罰が当たったんや」とでも言っただろう。
 だが、最近悪いことをした者に対して不当な同情や正当化が行われているきらいがある。悪いことをした者に対して罰すると「それはやりすぎ」「かわいそう」とかばう、自称人権論者が増えているように思える。だが、かばっていい結果になるかというと、そうはならないのだ。
 万引きは麻薬に似て常習性のあるものである。一度万引きをすると、再犯する可能性が高い。今まではお金を払わないと絶対手に入れられないと思い込んでいたものが、うまくやればただで手に入れられるのだ。初めてやったときには罪悪感が残っているけれど、それもくり返すうちに「ただで手に入れられる」といううま味とスリルにだんだん消され、麻痺していく。カードを使うように、万引きをするようになってしまう。万引きというのは、それだけ常習性の高いものなのである。だから、自分で自分を律して、万引きというただで手に入れる方法を独力で捨てきることは難しいのだ。信賞必罰、社会が厳しい態度を示して反転させる以外に、なかなか道はないのである。
 そういう常習性の高いもの、なかなか断ち切るのが難しいものに対して、「みんなやっているから」なんてかばい方をしていいものなのか。「パトカーを呼ぶなんてひどい」なんて言い方をしていいものなのか。むしろ、パトカーを呼んでことの重大さを思い知らせてやることこそ、社会が示す愛ではないのか。
 店長を批判した者は、あまりにも想像力が欠落している。他人の立場を思いやるという想像力が欠落している。いざ自分が書店を経営する立場に立ったら、いったいどうする気なのだろう。テレビのインタビューで店長を批判した者、店まで押しかけて「人殺し」となじった者、電話をかけた者こそ、自分でお店を経営してさんざん万引きされて、経営難に陥ってみるがいい。その時でも、店長を人殺しと言えるかどうか。店長を批判することができるかどうか。こと、店長を人殺しとなじった者は、同じような目に遭って、「人殺し」と罵られるべきだろう。罪なき人に「人殺し」と呼ぶことがどれだけつらい思いを味わわせるのか、十分に思い知るべきだろう。
 少々脱線するが、店長を人殺しとなじった者に対しては許せない。理由は個人的なところにある。自分が小学生だった頃、友人と遊びに行ったことがある。メンバーは友人と兄と自分だった。少し高台に立って、三人で石を投げはじめた。──と、突然友人が泣きだしたのである。頭を押さえて猛烈に泣いていた。理由はさっぱりわからない。頭から血が出ていたように思う。友人が帰り、不思議な気持ちで自分と兄も帰宅した。その途中である。友人の家の前を通った時、突然、友人の母親に「人殺し」と罵られた。不意打ちだった。どうやら、自分が投げた石が当たってしまったらしいのだ。そういえば、ひとつ投げたはずの石が地面に落ちなかったような気がする。あとから考えるに、少し重い石を投げたから、投げる途中で手からこぼれ落ちて、それで友人に当たってしまったのだろう。でも、それは意図せずして起きたことだった。自分は地面に向かって石を投げたのに──友人に対して投げるつもりはなかったのに──不幸にも当たってしまったのだった。まったくの事故だった。だが、友人の母親は「人殺し」と自分を罵ったのだった。
 あの時のなんとも言えない気分は今でも覚えている。言われのない罵り。小学生の自分の心に響いた、あのいやな言葉の響き。自分の母は、自分がわざとやったのではないことをわかってくれたが、それでも「人殺し」と罵られた痛みは残った。今でもそれは覚えているし、心の傷となっている。その経験があるだけに、「人殺し」と他人をなじる者を見ると、許せないのだ。店長は、受けなくてもよい心の傷を受けてしまったのだから。
 
 なお、事件のその後の顛末は次の通りだ。
 張り紙を見た商店街役員が「店を閉めるべきではない」との手紙を寄せ、さらに古書店チェーンの本社には「店をやめないで」「通報は正しい」などの店長への激励がメールで700〜800件、電話などで200件以上届いた。
 店長は「激励してくれる人の多さが分かった。(多くの激励を)結論を出すための考慮に入れたい」と店舗営業を再開したが、結局、店を閉めることとなった。脳味噌のない、ヒステリックな言動が一人の人生を狂わせたのだ。無責任とは、テレビを前にバカな発言をした恥さらしな者たち、電話をかけてなじった卑怯者たちのことであろう。少年の両親は、自分たちのせいで申し訳ないことになったと頭を下げているが、いささか遅すぎたと言わざるをえない。子供を失ったからといって、罪なき人の心を傷つけてよいことにはならないからである。
 なお、店長と、古書店がフランチャイズ契約を結んでいる会社の事業部長の記者会見は、ネット版の毎日新聞に掲載されている。興味ある方はご覧いただきたい。
 最後に、毎日新聞に寄せられた意見を引用して締めくくろうと思う。

 「万引きは犯罪だと、いったいだれが説明してやるのでしょうか。正義がなくなっていく昨今をうれえています」(埼玉県の主婦、40歳)

 
「世の中が変だ。なぜ万引きを注意した店が非難を浴びるのか。少年が亡くなったことは悲しいし、つらいが、注意したことは間違ってません」(神奈川県の主婦、34歳)

 「書店に『人殺し』と言ってしまう世相に大きな怒りを感じます。『万引きはそう悪いことではない』という感覚が、私たち自営業者を苦しめています。朝、息子と同じような少年、昼、同世代のサラリーマン、夜、母と同年齢の老人を捕まえた日など、やりきれなくなります。『悪いことを注意する』。それは大人が毅然とした態度でやるべきです」(北九州市でコンビニエンスストアを経営する女性、45歳)

   

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