◆一般化の危険 2001.2.20
   
 松沢呉一の『魔羅の肖像』を読んでいて、なるほどな、と思った。
 別に、松沢氏がチンポに愛と情熱を持っていたからではない。
 ペニスについては、とやかく神話が多い。長い方がいいだの、短小でも問題がないだの、英雄神話と癒しの神話が、あやふやな根拠の上を彷徨っている。筆者は、その中で、《理想的なチンポ像》を確定するべく、情報の蒐集と検証を続けるのだが、曰く、
 限られた性体験の中で、「女というものは」「男というものは」、と一般化してものを言うことは危険であるし、不可能なのだ、と。
 たとえば。
 ある女性は、子宮が突かれる感覚がいいので、ペニスは長い方がいいと言う。
 別の女性は、痛いからペニスは長くなく、ほどほどがいいと言う。
 あるSM女王は、でっかいのを見ると「貴様〜〜っ!」と頭に来るので、短い方がいいと言う。彼女は、因みに子供の頃に父親に暴力を振る舞われるというトラウマを背負っている。
 今、3つだけ例を挙げたが、それだけでも答えはバラバラだ。
 セックスほど、徹底的に個別的なものはない。
 つまり、一般化してものを言うことが難しいものはない。にもかかわらず、自分の体験を集約してすぐ「男というものは」「女というものは」と語ってしまう。「長いのなんて、絶対駄目。そんなのいいって女はいないね」、なんて言い切ってみたり。一般命題として還元出来るほど情報がないにもかかわらず。

 一般化の危険。
 個別命題ではなく、一般命題として言い切る危険。暴挙。愚行。
 我々は、何かにつけ、「女というものは」「男というものは」「若者というものは」などと一般化してものを言いたがる。
 だが、本当にそう言えるのか。
 そう言えるほど、十分な情報は存在するだろうか。個別的でないと言い得るだろうか。一般化してものを言うたびに、誤った考えを他人に押しつけ、意識せずに傷つけてはいまいか。誤謬を撒き散らしてはいまいか。
 セックスは、極めて個別的なものだ。容易に一般化して言えるものではないし、言ってはならないだろう。
 興味深いことに、圧倒的にセックスと向き合っているトップクラスの風俗嬢に限って、「わたしの場合は」「うちのお店に来るお客さんの場合は」としっかり前置きをして話すものだ。セックスは人それぞれ、徹底して個別的であり、容易に一般化出来ないのだ、ということを、経験から知っているのだろう。
 松沢呉一氏の指摘する通り、セックスに対しての発言は、必ずかっこに入れなければならない。「個別的なことだけど」と断り書きを置かなければならない。容易に一般化して言い切ってはならない。
 でも、それはセックスだけだろうか。セックス以外でも、「男というものは」「子供というものは」「最近の子は」と、個別を一般にすり替えてものを言う過ちを犯していないだろうか。

 一般化の危険は、どの分野にも存在する。
 それは、言い切ることによって気に入らないものを捨象し、気持ちよくなりたいという我々の心理の奥に、潜んでいるのだ。
   

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