メールマガジンを読んでると気づくことがある。つまり、メルマガには2つしかないということだ。
面白いものとつまらないものである。
あったりまえじゃん、と言うかもしれない。
そう、当たり前だ。しかし、この線引き、あるラインでされてたりするのよ。
それが、
開いているか、
閉じているかだ。それは、
他者を意識しているかどうかということと同じだったりする。
閉じている文章というのは、たいてい
自閉的な日記だったりするのよね。たとえば、
《今日、朝味噌汁を食べた。豆腐だったけど、あんまり煮てなくて冷たかった。そのことで母と喧嘩をしてしまった。どうしてぼくはいつもこうなのだろうと思う。いつも母に優しくしようと思うのだが、ついつい感情が出てしまうのだ。
たぶん、ぼくの中に甘えがあるのだろう。ぼくは、あまり人に甘えるのが好きではない》
自分の中しかないでしょ?
自分の内側の世界しか。母親出て来るけど、
その人との関わりのなかでの自分が問題になってるんであって、母親そのものの内部へ踏み込んでいるわけではない。母親は、その辺の器物と同じ。
こういうの
《閉じた文章》っておれは呼んでるんだけど、《閉じた文章》は間違いなくつまらないです。人さまが自分の内面をつらつら書いたってつまんないのよ。はっきり言やあおれと関係ねえんだもん。赤の他人の内面をぐだぐだ書かれたってねえ。
でも。
反対に、自分のことだけじゃなく、
他人のこともちゃんと書いてあったりするメルマガもある。
他人との関わりね。たとえば、浮気の話とか、友人との話とか。
他人との関係が出てくる話は、
自分との共約事項が含まれているので面白い。共約事項って、共通している事柄のことね。学校のことを話すのでも、自分の学校はこうだけど、別の学校ではこうだったりするとか書いてあると楽しいし、別の学校が出なくても、「自分の学校はこうだけど、みなさんの学校はどうですか?」なんてふうに、
明らかに自分以外の人を意識している場合は面白い。
こういうの、
《開いた文章》っておれは呼んでる。
《閉じた文章》と《開いた文章》の違いってなにか。
自分で満足するためだけに書いたのか、他人に伝えるために書いたのか、の違いだと思う。
外から見た自分を切り捨てて自分が考えている自分の内面しか扱っていないか、
自分以外の世界へ向かおうとしているか。思考的に自閉症的か、そうでないか。言ってみれば、マスタべーションか、二人で気持ちよくなるセックスかってことです。他人のマスタべーションなんか、おもしれえわけがない。自分を慰めるためだけに書いた文章、自分一人が悦に入るためだけに書いた文章ってのは、他人が読むとつまらんもんです。