◆リアリティに飢えた子供たち 99.9.4
   

 今の子たちは、リアリティ不足のなかに生きている。
 飯野賢治もこう言っている。「今の子たちは安全のなかに閉じ込められてしまって、果てし無くリアリティから遠ざけられてしまっている」。ゲームに走るのは、リアリティを求めてということなのかもしれない。
 慧眼だ。
 リアリティとは生々しい現実感のことである。現実味とは若干ずれるが、意味は近い。テレビで鳥のさえずりを聞いているとき、我々はブラウン管を通して「生の声」を聞いている気になっているが、実は違う。聞いている「気になっている」だけである。リアリティを経験している「気になっているだけ」なのだ。だから、実際に山野に入り本物の鳥のさえずりを耳にすると、思わず驚いてしまうのだ。新鮮な驚きに目を開き、意識が冴え、詰まっていた感覚が開かれる思いを味わうことになる。
 これがリアリティである。そして、テレビを通して得たと思っていたもののほうこそ、バーチャル・リアリティなのだ。
 ブラウン管(もっとはっきり言えばテレビ放送)は、バーチャル・リアリティを引き起こす。
 もう少し例を挙げよう。
 テレビのニュース。あれほどリアリティのないものはない。
 たとえば、オウムの毒ガス事件。
 ニュースを見ながら凄いことになってるなと思う。だが、「思う」だけで、本当に「実感」しているわけではない。
 阪神大震災もそうだ。
 ブラウン管に流れる映像は凄惨そのものだった。ひどかったんやなあ、と思ったものだ。だが、リアリティはなかった。馴染みのラーメン屋の店員から「友達7人なくしちゃいましたよ」と言われたとき、初めてそのことに気づいた。彼が目前でしてくれた話のほうが、はるかに現実味があったのだ。本当に凄かったんだと実感を伴って思えたものだ。
 日常的生活という文脈で、よく現実という言葉を使う。
 だが、今や「日常的生活」のほうがリアリティがなくなっているのだ。日常に現実はない。テレビを見ながらリアリティを経験している気になっても、所詮リアリティもどき。いくらバーチャル・リアリティをかき集めてもリアリティにはならない。日常を生きれば生きるほど、リアリティ不足に陥っているのだ。
 リアリティ不足の症例は、若い子どもたちに顕著に出ている。
 推測が正しければ、1975年以降の子供たちは、過保護によってことさら念入りに危険から遠ざけられてきた。かつては「使用法」が問題とされていたのに、今は「もの」自体が問題とされ、処分されてしまう。
 たとえばナイフ。
 20年前。学校で、自分のほうに向かって木を削っていて失明した子供がいた。手前から奥へ向かって削らないからだとその頃は言われた。
 現在。木を削っていて失明などしようものなら、即刻ナイフの使用が禁止されてしまう。脅威的なリアリティを持つ「危険物」は、極力排除されてしまうのだ。
 例はまだある。
 ボーイスカウト。
 20年前は、鉈を持っていた。森のなかを歩行中、邪魔になる草木を切り払うためだ。だが、今では「危ないから」という理由で持たせてもらえないのだ。この配慮を過保護と言わずして、なんと形容するのか。 
 こんな話を聞いた。
 教育実習期間中、小学生の子供が見習い教師のところへやってきた。
「先生、ええもんあげる。手え開いて」
 子供の言われた通りにすると、突然子供は手のひらに釘の先端を押しつけたそうだ。
「うわっ、なにすんねん」
「こうすると痛いんやでえ」
「当たり前や、痛いやないか」
 少年は、さもうれしそうににこにこ笑っていたという。
 いやがらせ、だったわけではあるまい。少年にとっては、きっと、それがもの凄い「発見」だったのだ。
 間違ってはならぬ。問題は、その少年への親の教育ではない。少年に、その痛みを「発見」と思わせた時代の背景だ。
 過保護によるリアリティの喪失。少年たちはリアリティに飢えているのだ。あまりにも過保護にされたために。あまりにも危険物から遠ざけられたために。ただ使用法を教えればすむことだったのに、禁じられてしまったために。
 大人たちが安全のためにと称して遠ざけている「危険物」。「自然」。それらは、脅威と危険を引き換えに、本物のリアリティを提供してくれる。
 釣りの流行も、そのこととあながち無関係ではあるまい。
 自然(=魚)との格闘は、街でもテレビでも体験できない強烈な、鮮烈なリアリティを体験させてくれる。かつてはおじさんの趣味と見なされていた釣りが若い子たちにうけたのは、彼らがリアリティ喪失世代の申し子だったからだろう。慢性的なリアリティ不足に陥っていたのだ。
 ホラーの流行も、決して世紀末という時代のせいだけではあるまい。ホラーは、恐怖によって最も峻烈にリアリティを引き起こすからだ。
 一時期流行った3D格闘ゲームも同じように考えることができる。2Dだけでは出来なかった新鮮なリアリティを、3D技術が提供してくれたからだ。大ヒットを記録した『ジュラシック・パーク』と『タイタニック』は、進化した3Dテクノロジーによるリアリティの演出に満ちている。
 「推理小説を読みすぎると犯罪を引き起こす」。
 かつてそう言われたことがあった。すでに推理小説が市民権を得た現在となってはあまりにも愚かしい言葉だ。今の人々は、それを馬鹿な言葉だと嗤って片づける。しかし、推理小説を「ゲーム」に置き換えたとき、どうか。
 ゲームはバーチャル・リアリティ。少年犯罪の間接的要因。
 社会の評価は途端にひっくり返ってしまう。推理小説は大人が読むもので、ゲームは子供がするものだからだろうか。
 そうではあるまい。両者は、フィクションという次元において同じものだ。慢性的リアリティ不足という状況への認識不足が、馬鹿げた言説を生んでいるのだ。

   

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