「リサーフェシング」は目覚ましのベルです!

 

以下のインタビューはアバター・ジャーナル誌、第ァ巻第4号から抜粋したものす。

 

リサーフェシング」ワークブックは、意識を探究したり変容させたりするための30の練習によって構成されています。これらの練習の成果は、自分の意識のメカニズムの明確な実体験が得られるということです。このワークブックの舞台と主役はあなた自身なのです。

 

「リサーフェシング」が1994年初めに米国で初めて紹介されて以来、その翻訳は、ドイツ、フランス、スロベニア、イスラエル、韓国、日本、オランダ、ロシア、ブラジルで出版されました。また、主要な大学のカリキュラムや州政府が後援する青少年更正プログラムで使用されたり、自己開発分野の年鑑の推薦図書リストに取り上げられたりしています。何百もの「リサーフェシング」勉強会も結成されています。

 

読者の皆さんからのご要望にお応えして、アバター・ジャーナル編集部は、「リサーフェシング」について著者ハリー・パルマーにいくつもの質問をしました。彼の回答をお楽しみください。

 

ジャーナル:「リサーフェシング」という題名はどこからとったのですか?

 

ハリー:スキューバダイビングをやったことのある人ならたぶん知っていると思いますが、ダイビングを終えてゆっくりと水の中を上昇し始めるときに起こる爽快な気分があるんです。この上昇の最中に、いくつかのことが起こります。水圧が減少するにつれて自然にリラックスできて、光はどんどん明るさを増していき、自分の呼吸の音が心を静める効果をもたらします。水の中から見れば、水面はひとつの現実の限界を成しています。「リサーフェシング(再び水面に浮上すること)」とは、いっきに限界を越えることです。ひとつの現実を去ること、もとに戻ることです。

 

こういう感じから、私はこの題名を選んだのです。海というものは、潮流、水の中に隠されている秘密、深さなどを持っていることから、「意識」に喩えられます。「リサーフェシング」の過程は、まさに意識の様々なレベルや流れを通り抜けて<気づき>へ戻るための上昇の道なのです。

 

ジャーナル:「意識」と「気づき」との区別を明確に説明していただけますか?

 

ハリー:「意識」とは、<気づき>に何かが加わったものです。「<気づき>プラス限定」、「<気づき>プラス価値判断」、「く気づき>プラス時間」、「<気づき>プラス努カ」、「<気づき>プラス欲求」、「<気づき>プラス抵抗」などです。<気づき>は、純枠な実存、無空間、無時間、無努力、無限定です。源です。それは意識のエッセンスです。

 

ジャーナル:これは、あなたがよくおっしゃる「理解すること」と「経験すること」との区別に似たことですか?

 

ハリー:似ていると言えば似ていますね。理解、誤解、混乱は、みな、意識の機能なのです。理解しているということは、単に「自分の意識的創造の数々を自分が納得できる秩序で配置するのに充分な空間がある」ということを意味しているにすぎません。この空間の大きさは自分で引き受ける責任の大きさによって決まります。理解を達成するには二つの方法があります。心を静めることによって意識的創造の数を減らすか、あるいは、自分の責任範囲を広げることによってもっと広い空間を創り出すか、です。瞑想するか、達成するかのどちらかということです。

 

混乱とは、無秩序、心配です。創造の数が多すぎて、空間が狭すぎる状態です。考えの数が多すぎて、充分な責任がとれないという状態です。人の所有物の状態は、その人の意識の状態の反映です。屋根裏部屋やガレージにあるがらくたを処分することには、意識を癒す効果があります。心配するよりもずっと効果的です。心配とは、小さすぎる空間の中に思考を押し込めようとすることなのです。心配することは、意識の「バミューダ海峡」みたいなものです。そこでは、不思議なことに<気づき>が消え失せてしまうのです。

 

経験するには、ある程度の<気づき>が必要です。理解することや考えることを経験の代わりにしている人に出会ったなら、それは<気づき>が枯渇してしまった人なのだと思っていいでしょう。こういう人々は意識の中に深く入り込みすぎているのです。

 

ジャーナル:ということは、理解というのは悪いことなのですか?

 

ハリー:満足の度合いということから言えば、理解することは、反応することよりは上のレベルにありますが、経験することよりは下にあります。あなたはリンゴを食べてみたいですか、それともリンゴを理解したいですか?どちらもリンゴを恐がることよりはいいでしょう。人生も同じことです。経験する方がいいのです。

 

ジャーナル:「意図的に生きる」の中だったと思いますが、あなたは「信じることが現実を限定し、経験することが現実を溶かす。それが創造の周期だ」と言っておられましたね。ということは、経験することができない人は創造することができないということですか?

 

ハリー:そうです。もし経験することができなければ、その人は自分の信念を変えることができません。これは創造することには不可欠な段階の一つです。

 

ジャーナル:わたしも「経験」という言集を使い、あなたも「経験」という言葉を使いますが、私たちは果たして同じことについて話しているのかどうか確信できないときがあるのですが、あなたが「経験」という言葉を使われるときに意味しておられることについて詳しく説明していただけませんか?

 

ハリー:経験する過程で実際に起こっていることは、意識を変換して<気づき>に還しているということです。ある創造が存在すると信じてそれを存在させることによって、意識が創造されます。<気づき>に創造を加えると、意識となります。根本的創造の一つ(唯一の根本的創造と言えないこともないくらいですが)は、「我あり」というものです。これが個人の意識の根底に存在します。

 

意識は「限定」と「分離」を含んでいます。「この概念とあのテーブル」というように、分離されている2つの限定です。私とあの天井...この2つの限定も分離しています。あなたと私...この2つの限定も分離しています。私たちがこの分離を識別するためには、空間か時間が必要です。

 

<気づき>、即ち<純枠な実存>が時間と空間の源であることは明らかですが、<気づき>自体は空間も時間も含んでいません。ゆえに、それには分離も限定もありません。ですから、経験するという過程は分離を取り除くということなのです。限定と出来事を消化するということです。

 

ジャーナル:そこまでは判るのですが、どうやってそれをやるのですか?

 

ハリー:分離をつなぐ橋は知覚です。あなたの知覚しているものを、ありのままに味わい愛でてください。価値判断や評価をせずに。欲求や抵抗を持たずに。そうすれば、分離が消滅して<気づき>が戻って来ます。人生をいくつもの出来事としてではなく連続した一つの流れとして知覚できる状態に近くなればなるほど、<気づき>に近づいていることになります。

 

ジャーナル:抵抗と意識との間の関係についてお話しいただけますか?

 

ハリー:抵抗とは、何らかの信念ゆえに、何かをあるがままに経験することに反抗することです。それは、<気づき>のレベルから創造する代わりに、意識のレベルから創造しようとする試みです。

 

時間とは意識が創造する主要な抵抗です。時間は、ある出来事を理解する猶予を得るために経験を遅らせます。ある出来事を理解するということは、保存されているそれまでに起こった出来事の数々に基づいて区別・分類して、それを意識として維持するということです。

 

時間を加えることによって、経験(今、起こっていること)という一つの流れが、初めと終わりのある限定されて分離された出来事の数々へと変わってしまいます。それらの出来事は創造における時間の流れの記録として保存されることになります。<気づき>には時間はありません。

 

このように抵抗されてきた出来事も、いつかは経験されることになります。長い歳月のあいだに少しずつ経験されることもあれば、意識が何回も何回も失敗したのちに何らかの臨界点に達した将来のいつか、一度に全部を経験するということもあります。

 

これが、カルマという概念の背後にあるメカニズムです。あなたが創造したものは何でも、いつかは経験することになる、ということです。出て行くものは必ず帰ってくるというわけです。

 

あなたが創り出した創造があなたのもとに戻って来たときに、その経験に苦しみが伴っていると知覚されるのか喜びが伴っていると知覚されるのかは、あなたがそれを創り出した時点で持っていた意図によって決まるのです。ですから、それを受け取るときに想い描く価値判断と、創造した時点でその創造に込められた意図との両方が、経験を色づけるのです。価値判断の方は静めて、創造に込められた意図の方は味わい愛でればいいのです。

 

経験することによって、限定が<気づき>に変換され、人生が「真に生きること」へと変わります。経験するということは、物事が創造されたままに知覚することです。新しい価値判断を加えたり、その創造がどのように知覚されるべきかという配慮を加えることなしに。

 

何かを理解しようという欲求は、神秘を経験することに対する抵抗となり得るのです。神秘への抵抗が、探求者の動機となります。神秘への抵抗から、人々は予言者や僧侶の言うことを筒単に信じ込んでしまうのです。多くのグループに共通の絆は、神秘についての解決法を共有しているということなのです。

 

神秘への抵抗の尺度を作るなら、「分析することへの欲求」から始まって、「意図」、「努力」、「エネルギー」、「空間」、「時間」、「物質」と下がっていくことでしょう。物質の最も小さな粒子は何だと思いますか?未知の粒子です!<神秘子>とでもいったところです。それがどんなに小さくても、その裏側の半分はどんなふうになっているのだろうと知りたくなってしまいます。

 

知識とは、未知を経験することに抵抗するための合理的で秩序立った計画です。それは、意識の死の時点で失敗に終わる計画です。

 

ジャーナル:欲求はどうなのでしょう?

 

ハリー:欲求とは、求めているものが無い状態で存在することへの抵抗です。欲求も低抗も、経験することを居心地が悪いとみなすという点では同じです。ある経験への欲求や抵抗の反対は、その場の経験を味わい愛でることです。抵抗(と欲求)は、意識の中へ深く入り込んでいく道です。

味わい愛でることは、<気づき>へ向かう道です。人生の中で<気づいている>状態、意識の中で<気づいている>状態、夢の中でく気づいている>状雌、死において<気づいている>状態。<気づいている>状態にあり続けることは、意識している状態にあり続けることと同じではありません。

 

ジャーナル:あなたは反意識論者なのですか?

 

ハリー:意識に抵抗するなんてとんでもない!そんなことしたら水に投げ込まれた岩のように深く沈んでしまいますよ。それより意識を味わい愛でる方がましです。意識とは生存のための道具や遊園地のようなものだと考えてください。要点は、何かを欲求したり抵抗したりしたことで、自分自身を責めたり、悪者やばか者だと思ったりしなくていいということです。肝心なことは、欲求や抵抗というその努力の感じに馴れて、それを経験することによって、<気づき>のレベルにまで浮上するということです。

 

水に潜るのと同じです。海の中の冒険に乗り出して行くのですが、そこには空気のタンクを持って行きます。そして、水面に浮上するのを忘れてしまうほどに深く潜ることはしません。意識を探検して、楽しんでかまわないけれども、<気づき>を枯渇させてしまわないようにしなけければならない、ということです。

 

ジャーナル:意識の底には何があるのですか?

 

ハリー:信念。抵抗。物質。神秘です。

 

ジャーナル:「リサーフェシング」の練習を行なうことに抵抗している人々にはどう対応したらいいでしようか?

 

ハリー:わたしなら、そういう人々には、その抵抗を味わい愛でて<気づき>に変換するように勧めます。身の安全のために<気づき>を手放すというのは危険なことです。それは飼い慣らされた動物のようになってしまうのと同じです。よほど良い奴隷かペットになれない限り、料理されて食卓に並べられてしまいます。<気づき>があれば自信が生まれます。

 

そこまで言ってもだめなら、あとは、「自分の家の中で独りで行なうというやり方ででも自分の人生を正直に見つめてみる用意がないなら、この本は本棚に置いたままにしておいた方がいい」と言うでしょう。ちょうどいいチャンスが巡って来るのを待つべきです。

 

ジャーナル:あなたの発言の中で「過去は人々に影響を与えない」というのがよく引用されていますが、私だけでなく、私が話をしたことのある他の人々も、過去に影響されていると感じています。どういう意味でそうおっしゃったのですか?

 

ハリー:まず定義について合意しておきましょう。過去とは「何かが済んでしまっている。過ぎ去ってしまっている。終わっている」という意味です。何かが済んでしまっていて、過ぎ去ってしまっていて、終わっているとき、それは今ここにあるあなたの経験に影響を与えません。あなたの現在の心の状態に影響を与え、それを形作りさえするのは、あなたが抵抗してきた出来事であり、まだこれから完全に展開されようとしている出来事なのです。これがあなたに影響を与えている「過去」というものなのですが、でも実際にはそれは過去ではないのではないでしょうか?まだ済んでいないし、過ぎ去ってもいないのですから。それは意識の中で依然として抵抗されていて、味わい愛でられるのを今でも待っているのです。

 

あなたは、あなたが経験したこと(本当の過去)によって影響を受けているのではありません。

あなたが経験することに抵抗したこと(今も続いている過去)の影響を受けているのです。

 

ジャーナル:<神の恩寵>について話していただけますか。

 

ハリー:恩寵はいつでも存在していると私は思います。人はそれを受け入れようと心が開いている度合いに応じて受け取るのです。抵抗しているときは心は開いていません。恩寵は受けられず、苦しみがあるだけです。感謝の気持ちは意識の中に割れ目を開き、恩寵を取り込むことができるようにします。ありがたく思うことは人を恩寵へと開きます。不平を言ったり、価値判断をくだしたり、抵抗したりすることはすべて、苦しみへ至る道です。

 

ジャーナル:「リサーフェシング」の本質的なメッセージは何ですか?

 

ハリー:メッセージは、読者がこのワークブックの中の練習に対してどのような関係で関わるかによって決まります。ある人が「リサーフェシング」のことを聞いたことがなければ、何のメッセージも伝わりません。ある人が「リサーフェシング」について聞いたことがあるというだけなら、伝えられるメッセージは、その人にこのワークブックについて知らせた人自身のメッセージということになります。人が実際に練習をやってみる時、魔法のようなことが起こります。「リサーフェシング」の本質的メッセージが読者自身の中から現れ出て来るのです。それは、新しい始まりを個人的に経験することです。

 

人々はどうすれば新しく始められるかを忘れてしまっています。乗り込んで行ける新しい未開拓分野がどんどん少なくなってしまっています。新しい始まりが無ければ死があるだけです、それこそが多くの人々が毎日やっていることです。死に向かって進むこと。自分で創り出したのに抵抗している創造の中にどんどん深く沈んでいくこと。死に向かって進んでいくことと抵抗することは同じプロセスです。それは「苦しみ」と呼ばれていて、実体のある粒子を創造すること以外にはあまり効果がありません。生はその逆の方向に向いているのです!

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