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この小説はフィクションです。
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転載禁止、著作権保持
第一章
「ふーん、そんなサイトあるんだ。おもしろそうだね。」
次の日僕は、西麻布にある久遠の事務所を訪れた。事務所とは言っても久遠の職業は自由業で、住居兼事務所の応接間がその役を果たす。
久遠は、TVCMなどの演出家をしている。かなりの売れっ子で、業界では知らない人がいないという。
生活もそのおかげで不規則になるらしく、家の電話には出たことが無い。携帯電話にかけると出ないことが無いという、便利なんだか不便なんだかわからない忙しいやつだ。
久遠は、僕がまだ精神世界フリークだったころに、あるヒーリングセミナーで知りあった。
最初に久遠を見たときはてっきり女性だと思った、それもとびっきり美形の。男装の麗人という言葉がこれほどぴったり来るひとは他にいないだろう、という感じだった。あまりにきれいなので、近くにすら寄れないでいた僕のところに、彼はやってきて僕と友達になりたいといった。
そりゃどぎまぎしたさ。なんで僕のところなんかにくるんだろうってね。
ぎこちないながらも話をしていて、久遠が男性だって事がわかった。男だってわかったからってきれいなことには変わりがないんだから、やはりどきどきはしたさ。でも話していくうちにひょんなことから共通の趣味があることがわかって、意気投合したんだ。
「ああ、ちょっとみてみてくれよ。何だか気になるサイトなんだ。」
「何が気になる?」
「うまくはいえないんだけど、ずっと昔に知ってたような感じがするんだ。懐かしいような。」
「ずっと昔?」
「そう、はるかかなたの記憶ってやつかな、生まれる前に知っていたって感じ。変かも知れないけど。」
「変てことはないよ。何が起こっても不思議じゃないさ。」
「ああ、そうだったね。久遠は、前世のこととかも見えるんだったよね。忘れてたよ。」
「ぼくはただの演出家だよ。」
一度、久遠に僕の前世を見てくれって頼んだことがある。
久遠は言った。
「それは別にかまわないけど、
知るっていうことは、責任もともなうんだけど、それでも見て欲しいかい?」
「責任?」
「そう、責任。知らなければ知らなかったですむんだけど、知ってしまったら行動しなかった言い訳はできないよ。知っていたのに行動しなかったというのは、一番最悪の結果を招くんだよ。特に前世のことは気をつけなきゃいけない。僕らは、前世でできなかったこと、やり残したことをするために今居るわけだから、それを知ってしまってもやらなかったというのはね。」
そこまでいわれては、ただ単に興味本位で聞くことなどできなくなってしまった。
「この世に生まれてきた目的というのは、自らの探求にこそその価値があるんだ。他からの情報によってそれを知ることは、つまりはカンニングに過ぎないということさ。それでは、何のために前世での記憶を消去されて生まれてきているのかわからないじゃないか。」
久遠の声のトーンが変わった。さっきまでとは違って、落ち着いている。
「久遠どうしたの?」
「いや、あることに気づいたんだ。」
革張りのソファにゆったりと腰掛けて久遠はいった。
「価値観てなんだと思う?」
僕は、久遠のそのビスクドールのような美しさに、ぼうっと見いっていたのでその質問には咄嗟に答えられなかった。
「なんだよ、急に。話の脈絡と言うもんを考えてしゃべれ。」
久遠は、長い足を組み替えながら、僕の言ったことに気がつかない様子で言った。
「何だかこの頃その事が妙に気になるんだ。価値観の相違って言うことがね。
まあ、これは永遠の課題見たいなもんなんだけどさ。」
「ああ、だからなんなんだ。」
「自分は今なんのためにここにいるんだろうって考えたことあるか?」
「あたりまえだろ。いつもそう考えてるよ。何しろ生粋のニューエイジャーだからな。
でも答えがでたことは今までに一度もない。
自分が何のために今ここにいるのか、何をすればいいのか、どうすればいいのか、いまだに謎のまんまだ。」
「そうだろう。悩んで悩んでそれでも答えが出なくて、しまいには自分は悩むためにここにいるんじゃないだろうかなんて思い出しちまいそうになる。そんなはずはないのにな。」
「あたりまえだ。そんな悩むための人生だったらさっさと終わりにしたくなるじゃないか。益体もない悩みのために生きているなら、それこそ何のための人生なんだ?」
「そうだろ?そこで気になるのが価値観なんだよ、俺の場合。
価値観の相違ってもんが自分が今ここにいる理由なんじゃないかと思うんだ。」
「よくわかんないな。わかるように説明してくれよ。」
久遠は、ソファから立ち上がると
「酒でも飲むか?」
といって、レミー・マルタンのナポレオンを持ってきた。
「ちょっと、今日はつきあってくれ。」
といいながらレミーをブランデーグラスに注ぎ、口に含んで満足気な笑みを浮かべていった。
「今日は、遅くなってもいいんだろう?」
「ああ、ウチのは同窓会とやらで今晩は帰ってこないんだ。」
「結婚するって、どんな感じなんだい?」
「楽しいよ、今はね。」
「そうか、俺は今まで結婚したいと思ったことが無いからよくわかんないんだよ。どういうもんなのか」
「その美貌じゃ引く手あまただろうに。」
「ああ、うんざりするくらいにね。」
「うらやましいかぎりだ。」
「そんなもんじゃないって。こっちがその気にならないのに迫られたって、面白くもなんともない。」
「もしかしておまえホモだったっけか?」
「そういう趣味もない。安心しろ。」
そういわれるとなんだかちょっとさみしいのは自分でも驚きだったが。
「そうだな、そこでさっきの価値観てもんが出てくるんだろうと思うんだ。」
「そりゃ、価値観が違えば結婚はおろか友達にもなりたくないと思うんじゃないか?」
「じゃあ、価値観が全く同じだったら結婚するかい?
いやいや価値観が全く同じ人と一緒にいて、なんか発展てものはあるんだろうか。」
「発展?」
「うん。同じ価値観の者同士が一緒になっても、そこにはせめぎ合いってもんが産まれないだろう。
そうすると変わりにあるものは、停滞なんじゃないか?
停滞はなにも生まないよ、産むのは、倦怠ぐらいじゃないのか?」
「こりゃ又手厳しいな。いつになくシリアスじゃないか、久遠。」
僕は何だか、久遠が酒を飲みたがったわけがわかったような気がした。
「人には、それぞれ生れ持った性格とかあるだろう?価値観というのもそういうもんだと思う。
勿論後天的な価値観もあるんだろうが、持って生まれたものに受け入れられなければ、後天的なもんてのは身に付かないからな。
しかし、本当にその自分の持っている価値観で、自分の行動を決定しているのかが問題なんだ。
人の価値観で行動していないと自信をもって言えるかい?」
久遠は、レミーを一息にあおると、またボトルからつぎ足した。
何だか話がシリアスになってきたので、僕もグラスを煽って景気付けをした。
「他人の価値観を自分の価値観と混同している人もいるだろう。例えば、親とか世間とかな。」
「ああ、いるだろう。僕だって、本当に自分の価値観で行動しているのかと言われると心もとないな。」
「考えてもみろよ。人の価値観にそって行動するって事は、自分の考えとは違う行動をするって事だろ?
とてつもなくつらいことだとは思わないか?」
「それはそれで楽なんじゃないかな。自分で考え無くてすむ。」
「自分で考えて、それにそって行動して、その行動の責任を取る。
その最初の考えが自分のものではなかったら、行動の責任は誰がとるんだい?やっぱり行動した本人がとるんだろ?だったら自分の考えの責任を取るほうが、納得できるんじゃないかな?」
「例えばどういうこと?」
「自分では、Aということをやりたいとする、でも、親はBということをさせたいとする。
僕は、親の勧めにしたがってBをする、うまくいけばいいんだが失敗した場合親が責任をとるかい?」
「さあ?」
「親の勧めにしたがってやったことだから、自分としてはやりたいことじゃない。
だから身が入らなくってうまくいかないってこともあるだろう。
でも本当の問題はそこじゃないんだ。
親の考え、価値観って言ってもいいけど、それを自分の考えとは違うのにあたかも自分の考えのように感じてしまってるとしたらどうだい?
つまり自分では気づかず人の価値観で行動しているということだろ。
そういう人生って楽しいと思うかい?」
「つまんないんじゃないかな?」
「僕もそう思うんだ。
自分は何のために生きているんだろうなんて何故考えるんだと思う?
自分のやるべきことをやっていないからじゃないのか?だから何だか満足感もなく、だらだらとやらねばならないことをしているだけになるんじゃないのかなあ?やりたいことはできずにね。」
久遠は何だか疲れているようだった。
「疲れてるんなら、おいとましようか?」
「いや、いてくれないか。”I wish You were here”って感じだよ。」
「Pink Floydだね、そうきたか。じゃあ、今日はとことんつきあおうか。
なんで急にそんなこと考え出したんだい?」
「さっきでていった女の子憶えてるかい?」
そう言えば僕がここに来たとき入れ違いに女性がでていったのを思い出した。
何だか思い詰めたような表情をしていた。
「結構かわいい子だったよね、暗い顔をしてたけど。彼女がどうかしたのか?」
「ああ、おまえも知ってる子だよ、とはいっても実際に会ったことはないはずだが。
あれが、みきだよ。チャットだといつも元気一杯に振る舞ってるけどな。」
「ええ?あの子がみきなの?」
みきは、いくつか同じMLで顔を合わせていたので自然とチャットなどでも話すようになった、いわゆるネット上の友人だ。
いつも元気で、言いたいことを言ってる子と言う印象だったが実際にあった感じとはまるで違っていた。
「そう、御本人だ。ちょっと前にチャットで、俺が前世を見れるっておまえが言ったことあったろ。そのあとすぐにDMで、見て欲しいって言ってきたんだ。」
「なんについて?」
「それはいえないよ。ただ言えることは、価値観の相違に関することだった。」
「それでか。人の悩みを自分の事として考えてるのか。」
「そういうわけじゃないんだけどね。自分の課題でもあるんだよ。
その証拠に、この頃価値観の相違についての相談が妙に多いんだ。」
そういいながら久遠は又グラスを開けている。
これはかなりこたえてるんだなあと思った。
僕は言った。
「自分の価値観を信用できるかどうかって事なんじゃないかな?問題は。」
「なんで信用できないんだろう?自分自身のことなのにね。」
「自分に自信がないからなんじゃないかな?
だから、人の価値観による判断を受け入れていれば安心なんだよ、きっと。」
「そうなんだろうね、だが、それで自分の人生を生きているって言えるのだろうか?」
「久遠、何だか話がどんどんシリアスになっていくね。」
「ああ、ごめんよ。この頃何だかしらんが焦りのようなものを感じてしまってね。」
「そんなに悩んでいるんなら、自分で自分の事を占ってみたらどうなんだい?」
「だめなんだよ。自分の事を占ってもなにもインスピレーションが湧かないんだ。だから、カードが何を言いたいのか全然わからん。誰でもそう言うもんらしいけどね。
自分で自分の事はよくわからないのと一緒さ。」
「そうなんだ。」
「自分の力は、自分の為に使うもんじゃないって事さ。他人のために使うもんなんだよ。」
他人のために使う。
僕はその時はあまり気にも留めていなかった。
それが答えだとも気づかずに。
「昔のことを思い出しているのか。」
ずいぶん僕は黙っていたらしい、久遠が僕の目を見つめていた。
僕は、久遠の青く透き通ったガラスのような美しい目をのぞき込むことになった。
何だか照れてしまった。
「ああ、前にね、価値観の違いについて話し合ったことを思い出してね。
いい、悪いを判断できないって言うこととおんなじなんじゃないかなって考えてた。」
「そうだな。人それぞれ違う価値観を持つから、いい、悪いのい判断も違うともいえるな。」
「その話の時に久遠は、自分の能力は、他の人のために使うもんだって言っていたんだけど。それって何でもそうなのかなあ?」
「そうだよ。すべての存在というのは、他を助けるために存在するんだからね。」
「そういうもんなのかなあ?」
「例えば、誰かが困っているとしよう。おばあちゃんが駅の階段のところで困ってるとしよう。
どうする?」
「どうしましたかって聞きたいけど、普段は恥ずかしくて聞けないなあ。聞きたいとは思うんだけどね。」
「なんで聞けない?何が恥ずかしい?考えてみろよ。」
「人にどう思われるかって事だろうね。あいついいカッコしてらあとか思われるんじゃないかとかね。」
「人の判断を気にしてるってことだな。」
「そういわれればそうなんだね。今までちゃんと考えたこと無かったけど。」
「藍は手助けをしたい、でも人の価値観の判断を考慮して助けられない、それで幸せかな?」
「いや、後々まで気になるよ。なんであの時素直に聞かなかったのかってね。」
「それでは、おばあちゃんに聞いて手助けしたとしよう。どうかな?どんな感じがする?」
「役に立ててうれしいて感じだろうね。」
「幸せかな?」
「うん、わかったよ。幸せを感じるだろうね。」
「簡単に言えばこういうことなんだよ。人のために自分の能力を使うというのは、幸せなんだよ。
見返りを求めてしたか?おばあちゃんを助ける手数料としてお金が欲しいか?」
「いや、お金は欲しくない。そういうことじゃないと思う。」
「おれたちが存在する理由というのは簡単なんだよ。難しいことをするために存在してるんではないんだよ。」
そういえば、前に”エル・ヴィエント”のマスターが同じことを言っていた。
あの頃はまだ新婚気分で幸せだったからマスターの話をよく理解していなかったんだろう。今ごろになってそんなことを思い出すとは。
その日マスターはいつになく冗舌だった。
「おれは、自分の作った料理を人がうまそうに食べているのを見るのが好きなんだ。それが生き甲斐なんだよ。おれの料理が人を幸せな気分にするって言うことがな。
金なんていくらだっていいんだ。ただ、うまかったよありがとうって笑ってくれたらそれでいいんだ。
おれは自分の店で使う食材の安全性のは絶対の自信を持ってる。何しろ自分で農家まで見に行って納得したもんしか使わんからな。
安心して食べてもらえて、栄養のバランスもとれていて、しかもうまい、そんな料理を客に食べてもらうのがおれの生き甲斐なんだよ。」
「うまけりゃ何でもいいんじゃないの?」
「そうは行かんよ。農薬まみれの食材なんか使ってみろ、おれの良心が痛むじゃないか。いいか、農薬ってのは毒なんだ。いくら微量とはいえな。
良心が痛んでは、おれは幸せとは言えん。わかるか?
おれが、安全な食材を使ってるのは、人のためじゃない自分の為なんだ。自分の為にしていることが、人のためにもなってるなんて、一石二鳥だろ。
どこかで自分にうそをついてみろ、あとは、like a rolling stoneってやつだ。まっさかさまに不幸へ向かって転げ落ちていく。」
「大げさだなあ、マスターは。」
正直その時僕は、そんなに大げさに考え無くてもと思ったんだ。
「大げさじゃないさ。
客はここにうまくて安全なのもを食べたくてやって来る。そこで、少しでも安全性に疑問のある食材を使ってみろ、客は騙せても自分は騙せない、絶対にな。
そしてその自分を騙した事実は、ずっと自分について回る。そう、心に焼き印を捺されたようなもんだ。
そこで気づいて改められればいいが、大体はうそを積み重ねていってしまう、雪だるま式にな。そしていつかは自分についたうそで身動きが取れなくなってしまう。最初は、ほんのちょっとしたうそだったのにな。それは幸せとは言えんだろう。
そして、不幸せな料理人には、客をうならせるようなうまい料理は作れないのさ。」
「技術でカバーできるんじゃないの?料理のうまい下手は。」
「ばか言え。いくら技巧を凝らしたって、心のこもってない料理はすぐわかっちまうんだよ。温かみがないって言うのかな。そりゃ食えばうまいだろうが、心には残らないんだよ。感動が無い。
おれの所に来る客は、おれの作った料理をいつまででも憶えていてくれる。
うれしいじゃねえか。
心を込めて料理を作れば、人はそれをわかってくれる、そして喜んでくれるんだ。
おれはそれを修行時代に学んだんだ。」
このマスターに修行時代があったなんて思いも寄らなかった。僕は、正直にマスターにそういった。
「マスターに修行時代があったなんて信じられないね。生れたときからそのまんまかと思ってたよ。」
「おれはバケモンか。まあ、いいや。
おれが最初に料理の道を志すようになったきっかけになった店があるんだが、そこの料理を食べて、おれの生きる道はこれだって思ったんだよ。人を感動させる料理ってのがな。」
「ひゃー、かっこいいねえ。人を感動させる料理人かあ。」
「わらうんじゃねえ。誰のおかげでこんなにうまい料理が食えると思ってるんだ。」
それでもマスターはまんざらでもない様子だった。
「おれは最初から料理人を目指してたわけじゃない。将来は、弁護士になるんだと思って猛勉強していた高校生のころだったなあ。師匠に出会ったのは。
親が弁護士だったんでな、おれも親の後を継ごうと思っていたんだ。他にやりたいこともなかったからな。別に楽しくはなかったが、自分で考えることはなかったから楽だったよ。
あれは、高校二年の夏休みだったかなあ。
何だかそれまでの人生がつまらなくなって、塾をさぼって遊びにいったんだ。ドキドキしたなあ、親にばれたらどうしようって思ってな。
さんざっぱら歩き回って、腹が減ったんで食い物屋を探してたときだ。
小さな街の洋食屋って感じの店から、人が出てきたんだ。何だかすごく幸せそうな顔をしてた。今でもその顔を思い出せるよ。あんまり幸せそうなんでうらやましくなって、おれもその店に引き寄せられるように入っていった。
何の変哲もない洋食屋って感じだったな。店は混んでたよ、殆ど満員だったな。ちっちゃい店に客がぎっしり詰まってた。何だかうまそうなにおいが立ちこめてたよ。
で、カウンターの向こうにじいさんが一人いるっきりなんだ。満員の客相手にじいさん一人ってのは大変だと思うだろ。普通は、ぶっちょうずらになっちまうもんだよ。忙しすぎてな。
ところが、そのじいさんは違うんだ。いくら忙しくても何だか幸せそうなんだ。客も待たされても文句のひとつも言いやしねえ。何だか温かい雰囲気の店だった。
座る席がないんで店をでようと思っていたら、じいさんが声をかけてきたんだ。こっちへ座れってな。
カウンターに一人分だけ席が空いてたんだ。そりゃそうだ、さっき一人客がでていったんだから。
で、カウンターに座るとじいさんが言うんだ。坊主つまんなそうだなってな。よけいなお世話だってじいさんに言おうと思ったが、じいさんの顔を見たら言えなくなっちまってな。
そのままじいさんは厨房の方に行っちまって、おれの注文も取りにきやしねえ。
やっぱり帰ろうと思ってると、じいさんが皿持ってきておれの前において言うんだ。
金は要らないからこれを食って元気出せってな。
うまそうなハヤシライスだった。
最初は、ふざけんじゃねえ、金いらねえってのはどういう意味だって、じいさんに言おうと思ったんだが、ハヤシライスがあまりにうまそうだったんで、なんだか吸い寄せられるように食っちまったんだよ。
ほんとにうまかった。
あまりにうまいんで涙が出て来ちまった。おれは、なんかを食って涙が出たなんて初めてのことだったし、恥ずかしかったんですぐ店を飛びだしちまったんだ。」
なんだかマスターは話ながら、思い出に浸っているらしかった。マスターは照れ隠しのように、にやっと笑ながら、
「勿論次の日に又その店に行ったさ。じいさんに昨日のことを謝って、暇な時はじいさんの店に来て料理するところを見ててもいいかって頼み込んだんだ。」
「それがマスターの最初の師匠なんだね。」
「そうだ、そして最後の師匠でもあった。」
「え? どういうこと?」
「料理の道に進んでから、又じいさんのところに戻ったんだよ。テクニックは他の店で学んだんだが、心まで教えてはくれなかったんでな。
じいさんには、他に身寄りがなかったんだ。だから戻ったおれを家族同然のように扱ってくれたよ。
この店だがな、そのじいさんの店だったんだ。じいさんが亡くなってから、店の権利を一切合切おれに残してくれてたって知って、又泣いちまったよ。
その店を改装して、じいさんの心を伝えるべく頑張ってるってわけだ。」
「そうなの? ここがその洋食屋さんだったの?」
「ああ、そうだ。他の繁華街に店を移せばもっと儲かるんだろうが、おれはその気はないんだ。
ここがじいさんの店だったからってのもある、じいさんの心を忘れたくないっていうな。
だがもっと大きな理由もあるんだ。
あまりに混みすぎてしまうと、心を込めて料理を作れなくなるんだ。客の注文に対応するので精一杯になっちまう。それじゃ本末転倒なんだ。おれが心を込めて作った料理を、人が食べてるのを見ているのが好きなんだからな。金勘定をするのが好きでこの店をやってるんじゃないって事だ。」
「でも、お金も大切でしょ?」
「そりゃそうさ。でもそれだけじゃないってことさ。」
「僕はお金が一杯儲かったほうがいいなあ。」
マスターは、なんだか照れ臭そうに笑ながら
「おれだって、そうおもってなかったわけじゃないさ。でもそういう生活に飲み込まれちまうと、何が幸せかをわかんなくなっちまうんだよ。
おれはここに戻ってくるまでに大きなレストランの総料理長もやったんだ。客もたくさん来たし、ペイも良かった。しかし、ある一定以上の仕事量をこえると料理に心を込めるのが難しくなってしまうんだ。
それどころじゃないって感じだな。注文されたものをただ作って出す機械になっちまうんだよ。それがおれには耐えられなくなっちまったんだ。これはおれの望んだ仕事の仕方じゃないってな。」
「儲かってたんならいいじゃない。」
「それが自分の幸せを切り売りする仕事だったら、遅かれ早かれ燃え尽きちまうさ。そうなってからでは遅いんだよ。儲かるなんてのは二の次だな。おれはそう思ったからここに戻ってきた。」
今思えばマスターの言ってたことは、お金が全てではないということなんだとわかるが、その時はまだよくわかっていなかったんだろう。
今までの人生の中で、どんなに重要なことを聞き逃し理解しないままに過ごしてきたのか、とふと思った。
その時の自分の価値観のせいで受け入れられないことっていうのは、存外たくさん有りそうだ。やはり人生というのは一筋縄では行かないもんなんだなあ。
「何考え込んでるんだ?」
久遠が、ブランデーグラスを片手でもてあそびながら、僕のことを見つめていた。
「ああ、うん。価値観の話とかいろんなことを思い出していたんだ。」
「大丈夫か? おまえ今にも居なくなってしまいそうな感じだったぞ。」
久遠はそういいながら、僕にレミーを注いでくれた。
「いなくなるって?」
「おまえ、今日ここに来てから、何考えてた?
過去の記憶をずっとたどってたんじゃないか?いわば記憶の海にはまったって感じだったな。
どんどん深みにはまっていってる感じだったぞ。」
僕は、ブランデーを一口で飲んだ。
「深みか。そうかもしれない。ひとつのことを思い出すとそのキーワードをもとに、又次のことを思い出すって感じだったな。
ああ、いろんなことを同時に思い出していたよ。価値観とかそういうことに関する記憶をね。」
「今のおまえの課題なのかもしれないな。価値観か、そういえば前にここで価値観についてはなしたことが有ったよな。あの時は、おれが悩んでいたんだっけ?確かあの時も酒を飲んでたんじゃなかったっけ?
なんかおれたちは、いつも同じことやってるみたいだな。」
久遠は笑ながら、又レミーの瓶からブランデーを二人のグラスに注ぎ足した。
「価値観の問題ってのは難しいよ。なにしろ極言しちまえば、戦争だって価値観の違いから起こるんだからな。全ての争いの元といえるかもな。」
「なんで、価値観の違いなんて存在するんだろう?」
久遠は大声で笑った。
久遠が笑うと部屋が明るくなる。そんな笑い方をする人に悪いやつはいない。そう思わせるような笑いだった。
「皆の価値観がまるで同じだったら、人生がつまらなくなっちゃうよ。」
久遠はまだ笑っていた。
「だってそうだろ?皆同じこと考えていて、何も摩擦が無い世の中だったら、成長し続ける事はできないよ。いろんな価値観を自分の中で統合していくこと、それが人生の贈り物だと思うよ。」
「戦争はなくなるんじゃないか?争いごととかもね。」
「そもそも、価値観の違いを武力とか、腕力、権力を使って解決しようと思うからいけないんであって、価値観自体がいけないんじゃないよ。
そういう、時分が相手よりも上だと思っている”力”、武力とかの”力”ね、それを解決の手段に使うなんて、レベルが低すぎるんだよ。いわば子供の喧嘩だね。」
「じゃあ、価値観の違いを解決するにはどうするのがいいのかな?」
「解決じゃないよ。相手の価値観を自分のものにして、自分の価値観とのすり合わせを行うんだ。」
「そんなことで戦争はなくなる?」
「戦争は、レベルが低いことの結果だってば。幼稚っていえばわりやすいかな。自分の価値観しか認められない幼稚さ、価値観の違いを”力”でしか解決できない幼稚さが問題なんだよ。」
「ああ、そうか。そういうことか。」
「そういうこと。」
電話がなった。久遠が電話に出ている間に僕は、チョコを食べていた。ブランデーのつまみにチョコなんて食べていて、どうして久遠は太らないんだろう?
久遠が電話の相手に向かって言った。
「ああ、今ちょうど藍もここにいるんだ。ちょっとまってくれ。」
そして、僕の方に向かって
「みきからなんだけど、近くのクラブに来てるから、一緒に飲まないかって。じゅんも一緒だそうだ。」
そう言えばみきもじゅんも、ここしばらく生身で会っていなかったなあ。
「ああ、行こう。」
それからしばらく、久遠はみきとはなしていたが、電話を切って戻ってくると
「歩いてすぐのところだから、荷物は置いていっていいよ。おれは着替えてくるから待っててくれ。」
といって、ベッドルームに入っていった。
久遠はくつろいだ感じの部屋着から、やっぱりくつろいだ感じのゆったりとした黒いスーツに着替えて出てきたが、背中まである栗色の長髪と相まって、どうみても男装の麗人にしか見えなかった。道行く人が皆久遠を振り返るので、少し鼻が高かった。
そのクラブはほんとに久遠の事務所の近くに有った。100メートルと離れてはいないだろう。けばけばしいネオンサインもなく、小さな路地の突き当たりに申し訳程度に店の名前が書いてある扉が有った。
”club Goddess”
その重そうな鋼鉄製の扉を開けると、広いエントランススペースが有りたくさんの人がいた。近ごろはやりの中世風の内装が施されていて、人がたくさんいる割には落ち着いた感じがして、気に入った。
エントランススペースの奥にもう一つ扉が有り、そこからクラブサウンドの重低音が響いている。
扉の両わきに、女神のようなゆったりしたシルクのドレスをまっとた女性が二人立っている。さながら神殿に迎え入れる案内役と云ったところだろうか。
久遠が、女神二人に軽く挨拶をすると神殿への扉が開け放たれた。
中に入ると、心地よいバイブレーションをともなってクラブサウンドが鳴り響いていた。クラブにありがちな喧騒とか、うさんくささが感じられず音の大きさにも拘らず、ほっとするような空間だった。
久遠は、ダンススペースの脇の通路を通り抜け、バーカウンターの横から続く螺旋階段を下りてゆく。下に有るのはバーラウンジらしかった。階段を下りるに連れクラブサウンドが小さくなっていく。
階段を下りきると、そこにも女神が二人笑顔で迎えてくれた。久遠が何かを女神にささやいた。女神が案内してくれるらしい。
下のスペースは、まるで礼拝堂のように荘厳な雰囲気を漂わせていた。かなりの広さが有るのだが照明は壁と各テーブルに有るロウソクだけなのだが、雰囲気に暗さは感じない。
女神の持つロウソクの明かりに導かれ、久遠と僕はテーブルのあいだを抜けていった。殆どのテーブルが埋まっており、この店の人気を裏付けていた。
天井も高く、広々とした空間を演出している。この高い天井のおかげで、上のダンスフロアの音が遮られているらしい、このフロアには、アンビエントなハウスサウンドがバックに流れている。居心地の良い雰囲気だ。
壁際のテーブルにみきとじゅんが居るのが見えた。二人はこちらに向かって手を振っている。
「やあ、みきとじゅんひさしぶり。藍も注文どうり連れてきたよ。」
「藍ったら、この頃ネットに出てこないもんだから心配してたのよ、私もじゅんも。」
みきは相変わらず手厳しい。
「御免よ、心配かけて。いろいろ考えることが有ってさ。じゅんも久しぶりだね、この前のオフ会以来だから、一年ぶりぐらいかな?」
「藍は、何を飲む?女性方は同じものでいいのかな?」
久遠はすでに女神に注文をしている。相変わらず素早い行動だ。こういうのをスマートって言うんだろう。みきもじゅんもカクテルを飲んでいるようだった。
「僕は、マイヤーズをロックで。ライムツイストして。」
「いつもそれなんだな。おれは、ボトルが入ってるからそれを持ってきてもらおうかな。」
「はい。久遠様でございましたね。ボトルお預りいたしております。お連れ様はマイヤーズのロックとライムツイスト、マルティニと、ギムレットでございますね。少々お待ちください。」
久遠が呼んだ女神は、注文を繰り返すと艶然とほほ笑み歩み去った。
程なくして、全員に注文の品が届いた。
「御注文の品は以上でよろしゅうございますか?」
「ああ、それと、ピスタチオとチョコを持ってきてくれないか?」
「かしこまりました。では、ごゆっくりお過ごしください。」
「それで?今日は二人そろって何の相談かな?」
乾杯してから久遠は聞いた。
じゅんがきりだした。
「藍が今日ここにいるって事は、久遠も@LOVEの事を聞いてるのよね。あたしも今日、みきから聞いたんだけど。」
「ああ、ここに来る前に聞いたんだ。まだ見に行ってはいないけどね。なんだか面白そうなサイトじゃないか。」
「あたしもまだ見てないんだけど、みきと藍は見たのよね。うん、それでね、話はその事とも関係してるんだけど、@LOVEってサイト、アクセスできる人とできない人がいるみたいなのよ。」
「僕は、送ってもらったURLですぐにアクセスできたよ。タイプミスとか、サーバがダウンしてるとかそういうことじゃないのかなあ?たまたまサーバがダウンしてるときにアクセスできなかったとかさ?」
「それがそうでもないらしいのよ。私も何人かにURLを送ったんだけど、全く同じ時間にアクセスしても、できる人とできない人がいるみたいなの。これって変じゃない?」
「俺はまだ見に行ってないから何とも言えないけど、プロバイダの所為とかじゃないのか?」
「違うみたいなの。アクセスできてる人のところにできない人がたまたま遊びに行って、@LOVEの話になって、アクセスしてみたらできなかったって言う話も有るのよ。」
「へえ。それは面白いな。なんだか怪談みたいじゃないか。見れる人と見れない人がいるのか。」
久遠が俄然興味を持ったようだった。
「それで?ここには、そのサイトを見た人が二人も居るわけだからさ、サイトの内容はどんなんだい?藍の話を今日聞いたんだが、なんだか要領を得なくてな。みき、どんなサイトなんだい?」
話を振られて、みきがちょっと困ったように微笑んだ。
「それがね、サイトにアクセスしているときは、確かに内容を理解して納得して感動もしているんだけど、どんな内容だった?って聞かれるとなんだかうまく説明できないのよ。私もじゅんに内容を聞かれてうまく説明できないってことに気づいたばっかりなの。」
「そんなことって有るのか?なんだか話だけではよくわかんないな。」
「ねえ、藍、あなた、あのサイトの内容について誰かに話した?」
みきにそういわれて、よく考えてきると、内容については殆ど記憶に無いことがわかった。すごく感動したんだが、何について感動したんだか思い出せない。そういえば、久遠の部屋で@LOVEについて話していたときも内容についてはいっさい触れなかったような気がする。
こんなことって有るのだろうか?
僕は、なんだか周りの世界が・・・・
急に実体を失って・・・
透明になっていくかのような・・・・
そして自分もその中に溶け行っていくかのような・・・
なんだかとても幸せな気分がした・・・。
「おい。何にやにやしてるんだよ。もう酔ったのか?」
久遠が僕の方をのぞき込んでいた。なんだか今日はよくのぞき込まれる日だ。
みきが言った。
「ねえ、藍。なんだこの頃よく昔の記憶が鮮明によみがえってこない?」
「ああ、そうなんだよ。もう自分では忘れていたような、でも大事なことを思いだすんだ。なんかのキーワードをもとにそれがどんどんと繋がって思い出されてくるんだ。」
「私もそうなの。もう一度過去をおさらいし直してるみたいに、まるで、タイムマシーンで過去に戻ったかのようにはっきりと再体験し直してるのよ。今までにこんなことはなかったんだけど。」
「僕は、@LOVEを見に行ってからだな。つい昨日見に行ったばかりなんだ。過去の記憶がどんどん思い出されるようになったのは今日からなんだ。」
「そういえば、私もそうかも知れないわね。あそこを見てからなんだわ。どういうことなのかしら?」
「実際に@LOVEを体験してみないとわからないって事だな。」
久遠は言った。
「俺の事務所に戻れば、すぐにネットできるから確かめてみよう。どうする、すぐに行ってみるかい?それともせっかく来たんだから上で少し踊ってからにするかい?」
「踊ってからにしましょう?あたしも早く見てみたいんだけど、少し怖いから、踊って頭を空っぽにしておきたいの。」
「よし、決定だ。上で踊ろう!」
女神を呼び会計を済ますと、螺旋階段を上がっていった。今度はだんだんと音が大きくなってくる。ダンスフロアには、さっきよりも大勢の人がそれぞれ自由に身体を動かしていた。
僕たち四人もそこに加わり、気持ちのいいクラブサウンドに身体を任せた。
頭と身体が音によって一つになってゆく。
クラブサウンドのビートに導かれて身体が自然に動き、頭は音だけを追いかける。
すごく気持ちがいい。
周りのことはもう全然気にならなくなり、音にだけ集中している。
ああ、身体を動かすのってこんなに気持ちいい事だったんだ・・・。
自分の周りを音が駆け巡っている。
なんて気持ちがいいんだろう・・・
そして僕は、音と一体になった。
突然肩をたたかれて我に返った。
久遠が僕の耳元に顔を寄せて話しかけてきた。
「ノリノリの所悪いんだがね、もう2時間踊りっぱなしなんだぜ。じゅんはあきれて、あっちのバーにいるよ。そろそろ行くぞ。先にじゅんのところに行っててくれ。俺はみきを探さにゃならん。」
久遠の指さすほうを見るとじゅんがスツールに腰掛けていたので、そちらに向かっていった。久遠は、みきを探しに人の波をかき分けていくところだった。
「藍、どうしちゃったの?なんにも目に入らなくなってたみたいよ?」
「もう2時間も経っていたんだ。なんだ気持ちが良くてさ。頭が飛んじゃってたよ。踊るって気持ちいいなんて初めて思ったよ。」
「久遠もあきれてたわよ。」
「ごめんごめん。」
そこに久遠がみきを連れてやって来た。
「もう2時間も経ったなんてウソでしょう?」
みきはまだ恍惚とした表情で言った。
久遠は腕時計をみせながら
「ほら、ほんとだってば。これも@LOVE効果なのかね。どうする?これから皆でウチの事務所に来るかい?」
「そうね、もうこの時間じゃ電車も動いてないし。毒をくらわば皿までよ。行きましょう。」
僕とみきは、まだぼうっとしながら久遠とじゅんが話しているのを聞いていた。
「よし、じゃあ移動だ。そこのおふたりさん、ぼうっとしてないで行くぞ。」
外にでると、汗ばんだ身体に冷たい風が心地よかった。
久遠の事務所に向かって歩きながら、僕はだんだんと現実の世界に戻ってきた。
一体何が起こっているのだろう。
これから何が始まるというのだろう。
事務所に入ると、久遠はすぐにMacを起動させた。Netscapeを立ち上げると、僕に向かって
「@LOVEのURLをくれ。」
といった。
僕は、久遠にURLを教え、そして全員がモニターを見つめた。
サイトが表示されはじめた・・・
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