アバターコースとレイキ

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ふうちゃんです

 

昨日は照蓮(坊さんみたい)からの依頼で久々にレイキセッションしました。

 

面白いね。

色々わかったよ。

 

前は、「ヒーリングしてやる」という意識があったね。

「エネルギーを入れる」という意識もあった。

「私が〜せねばならない」だったんだね。

H1で、すぐさま気付けた。

 

だから、あとは「今 ここ あなたと供に」で触れてるだけにした。

それがよかったらしい。

 

アバターヒーラーふうの誕生である!

 

#かっこいー、仮面ライダー誕生! みたい・・・(^^;

 

 

元々アバターを受講したのは、ヒーラーが思い込みバリバリっつーのは

まずいんでないかい? と思ったからなんだけど、

大当たりでしたね。

 

レイキの「儀式」をとっぱらい、「シンボル・マントラ」を使わないで

ヒーリングをやってみました。

「シンボル・マントラ」は、集中する為の思念にすぎないんだと思うよ。

だから敏感な人には、「シンボル」が伝っているでしょ。

 

「シンボル・マントラ」は、ヒーリングの中で「レイキ」という

限定を生む為に必要なだけかも。

 

#「レイキが流れている」という思い込みを生むように?

 

こんなこと言うと、まじいっすか。

 

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勿論僕の視点は、レイキ初心者には、通用しないでしょう。

それはわかっています。

 

それでも何故、あえて言いたかったか。

 

僕がいいたかったのは、今のレイキはあまりにもシンボルやマントラに

重きを置きすぎているんじゃないかということなんです。

 

それは本質ではないから。

 

確かにシンボルの違いによって、周波数の違いは出て当たり前なんです。

何故なら思考を使っているからですね。

 

でもそれに惑わされていると、迷路に迷い込んでしまいます。

 

ようはテクニックとして使いこなせればいいだけで、

ただそれだけなんですよね。

 

だから、”第三シンボルに似た感じ”というのはとっても的を得ているでしょ?

 

アバターというのはその状態なんですから。

#これも面白い発見ですよね。

 

 

第四シンボル(マスターシンボル)は、強いのか?

強いというよりは、抵抗がでやすいんじゃないかなあ。

光に照らされた陰みたいな感じでね。

 

だから、そこに抵抗が有るヒーラーの元には、似た様な抵抗の有る

クライアントが集まるということだと思うけど。

 

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レイキのシンボル・マントラについて考察しちゃお。

 

レイキとは普遍的に偏在するエネルギーの事である。

つまり、フルレンジのエネルギーを指す(らしい)。

 

シンボル・マントラは、思考であるから、フィルターとして作用する。

一定のレンジを切り出すフィルターである。

術者は、シンボル・マントラに意識を集中する事により

意図的なフィルターを作り、それを通してフルレンジのエネルギーを変調させる。

であるから、周波数測定により、各シンボル・マントラの周波数特性に

変化が見られるのは当然である。

 

勿論、術者の元々の意識状態、思考の癖(思い込み、信念等)によって

すでにフィルタリングされていて、フルレンジの状態ではない事も考慮

を要する事柄と思われる。

 

そのシンボル・マントラ自体も、後世における色々な意味付けなどの

いわゆる「シンボル論争」などにより、それ自体のもつフィルター効果

プラス 新たなフィルタリング(シンボルへの信念)になっていると思われる。

 

つまり、元々シンボル・マントラは、思考の集中の為の道具であり、

初心者などが簡単にフィルタリングできるように(普通はこれを修業などで

コントロールできるようにするのだが)なっている。

 

それが「修業いらず」と言われる所以である。

 

> 遠隔セッションのマニュアルより多めにシンボル送ってるんだけど、

> どうなのでしょう?

> やたらめったら送るものではない!?

 

まず「シンボル」は、「送る」ものではないです。

「シンボル」を「送る」のだったら、テレパシーになっちゃいます。

 

また、「シンボル」を「送る」という意識があると、

レイキというよりは気功になります。

 

シンボル単体で効果があるのなら、レイキを習っていない人にでも

シンボルを見せただけでエネルギーが流れるはずでしょ?

 

だからシンボル自体に意味やパワーがあるのではなく、

シンボルに集中する事によって、自分をフィルター化し、

それを通して周波数を変えたエネルギーにする、というのが

シンボルの使いかたなんですね。

 

#なにしろ、道具なんだし。

 

「〜であらねばならない」ってのはビギナーのうちだけ。

 

>シンボルが多いとか、少ないとか、ってことよりも、

>エネルギーがちゃんと流れてるかどうか感じることの方が

>大事だと思うので、「すごく感じた」って感想をもらったなら

>それでいいんじゃないかなあ?

 

シンボルに(回数とかも)、とらわれない事が大事だね。

 

シンボルは道具だから。

 

シンボルを「とんかち」に例えると、マニュアル(無いけど)に

「くぎを3回打つ」と書いてあっても、時と場合で2回でもいいときもあるし、

5回でもだめって時もあるでしょ。

それと同じ。

その人が決める。マニュアルではなく。

 

で、「とんかち」の意味は? とか考えないでしょ。

それがシンボルが道具だという事。

今は、くぎを打つのに、とんかちが便利だというだけ。

 

とんかちに神秘性を付与すればするほど、くぎを打つのに邪魔になる。

それでは宗教の偶像崇拝と同じになっちゃう。

 

シンボル・マントラは「思考」であり、「思考」は「抵抗」である。

 

「抵抗」には、フィルタリングの意味もあるからね。

#可変抵抗とか・・・

 

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昨日フルフィルヒーリングやろうとしたら、できなかった。

 

フルフィルは、手の感覚でオーラの中のイヤな感じの所を

つかみとり、捨てるというものだが、

よく考えてみると、「イヤな感じ」というのは、ただの価値判断

(しかもヒーラー側の)だったのね。

 

本人に必要だからそこに在るのに、ヒーラー側の価値判断で

それを取ってしまっても、本人はまた同じものを作りますわな、そりゃ。

 

これ原理的には「憑き物落とし」と同じで、

術者がいくら「落と」しても、本人が変わらなければ

(必要としなくならねば)いたちごっこになる。

 

本人の「信念」を、いかに変化させるかというのが腕の見せ所。

 

そこを勘違いすると、宗教的な神秘主義になっちゃう。

まあ、本人が納得すればなんでもいいのかもね。

 

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>>これ原理的には「憑き物落とし」と同じで、

>>術者がいくら「落と」しても、本人が変わらなければ

>>(必要としなくならねば)いたちごっこになる。

 

>>本人の「信念」を、いかに変化させるかというのが腕の見せ所。

>

>なるほど、そうですね。

>ここで、切磋琢磨するんですね。

>腕の見せ場が、違ってしまう人もいるようです。

 

壺売るのがうまかったりして・・・(^^

 

霊感商法も、本人が本気で信じていれば、効果でるよね。

 

僕は前からこの問題(どう考えてもインチキなんだけど、効果が出てる)

を不思議に思っていたけど、本人の信念とかんがえれば、すっきり。

 

どんなに怪しげなものでも、本人がそう信じていれば、そういう経験をする。

 

ただこの場合問題なのは、もとの信念を変えてないから、

それは依然として存在していて、信じきれなくなったときに

どうなるかというだけ。

 

依存が生じていれば、反動は大きいけど、それがなければ、

本人が気づくいいチャンスになるんじゃないかな。

 

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>かつて私は 師匠に 光と陰について 質問した事があります。

 

今の僕の視点からこのことを考えてみました。

これは前から興味の有ったテーマなので。

 

以下僕の創造した信念:

 

光と陰に象徴されるような、善と悪は、存在しない。

善と悪が存在するのは、信念の中だけである。

信念から生れた価値判断によってしか、善悪は存在しない。

 

つまり、善悪は限定された意識である「思考」の中だけに在る。

 

#恵比寿ガーデンプレイスのベンチで日焼けしていたときに

#最初は、暑くていやだったのに、fiしていたら、

#「暑い」も「いやだ」も、無くなっていた。

#それに気付いて思考が出てきたら、また暑くていやになった。

 

「思考」は、「今ここをありのままに感じる事」への抵抗だったのだ。

 

源=無限定の気付き

無限定の気付き+限定=意識

意識+限定(信念)=思考

意識+視点(信念)=自己(というアイデンティティ)

 

つまり「私」というものは、「信念」の産物であったのだ。

 

「視点を含んだ信念」である「私」が、いくら思考しても

「意識」のレベルからは抜け出せない。

なぜならすでに「意識」には、限定が在るからだったのだ。

 

つまり、源へ帰るとは、「私」という信念が消滅したということなのだ。

 

意識−限定=源 これが仏陀の行ったことだったのだ。

 

さらに、源+意図的な限定=創造=アバター だったのだ。

 

#話を戻そう

 

善悪、良い悪い、好き嫌いなどの価値判断=抵抗=信念が在るということは、

源+限定+限定という「思考」のなかだけなのだ。

 

つまり、「思考」があると、「今ここをありのままに感じる事」ができず、

「今ここをありのままに感じる事」ができないと、「無限定の気付き」に

シフトできないのだ。

 

良く精神世界では、「究極的には善悪は存在しない」というが、

究極的も何も、善悪は、「思考」にしか存在できないのだ。

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