〔特集〕忘れられない地域・人――学びの水脈を求めて

人間都市をめざして。多摩二ュータウンでの三八年

           2008年11月  住田 啓子

 私は昨年四月市議六期目をむかえました。
 去る九月定例議会の私の一般質問では文科省や東京都主導の公教育を多摩市教育委員会主導へと発想転換を求め″教育行政の諸課題″について質しました。内容は@二年度より児童、生徒全員に文科省から配られている″心のノート″が指導要領改訂により国定教科書化する危険性、子どもの自立と幸せにつながる″学校図書館の中長期計画策定″の必要性、″学びの社会の中核に図書館政策を″についてです。今わが国では1.000万人を超す低所得者層、多摩市においても三〇代、四〇代の生活保護披保護者や就学援助費の伸びとなって現われ、格差が拡大しています。自民党政治、とくに小泉構造改革によって加速度を増した市場化路線即ち小さな政府、官から民へ、規制緩和、指定管理者制度などは、戦時体制にも似た財政構造となって私たちを苦しめています。

陸の孤島に移住

 1.971年早春、多摩ニュータウンに移り住み、前半の17年間は地域活動と市民運動、後半は地方議員として、私は人生の半分以上をこのまちに住み続けています。
 わが国におけるニュータウン政策は高度経済成長とともに 1.950年代半ばから都市の過密化、スプロール化が進むなか、政府は質の高い住宅の大量供給を図るために新住宅市街地開発事業第一号として多摩ニュータウン建設を計画しました。多摩ニュータウンは四市(八王子市、町田市、多摩市、稲城市)にまたがる起伏の緩やかな丘陵沿いに面積約30平方キロ、東西14キロ、南北2〜4キロ、細長いスルメイカ?の形で広がる住宅都市。
 私たちは気管支の弱い長男の子育て環境を求めて多摩ニユータウンで最初に開発された多摩市の最南端・多摩丘陵尾根に近い永山団地に移りました。

なかよし文庫との出会い

 しかし、 1.971年入居当時の多摩ニュータウンでの生活は想像を遥かに超えており、交通手段、食料、日用品の買い物、幼稚園、病院、など不便きわまりない暮らしが待っていたのです。建設途上の団地の周りは木々もなく赤土がむき出しでしたが、その一方、夜ともなれば満天の星、丘陵の雑木林と黒川迄続く深い森、尾根から望む広い空と、西方丹沢山系の彼方にそびえる富士の峰。 澄み切った空気、野草、昆虫、ほんの数センチ掘ればたちまち現れる弥生式上器。慌ただしい都会生活ですっかり忘れていた人間感情が蘇り、幼い子どもたちとともにクワガタやザリガニ取り、土器堀りを楽しみました。
 近所の方々と声を掛け合って自治会や生協づくり、子ども文庫、女声コーラスグループや混声合唱団の設立、希望に燃えた日常でした。なかでも、なかよし文庫との出会いは私のその後の人生の転機となりました。母親たちが絵本を持ち寄り、場所を借りて子どもたちに本を貸し出す。読み聞かせや四季折々の行事を子どもたちと共に楽しむ。子どもは友達を誘って次々と文庫に遊びにくる。自由空間のなかで読書のたのしさや大人の愛情に育まれながら成長していく姿は私たちに幸せを逗んでくれました。そして、なかよし文庫でともに活動した仲間たちは現在もなお、多摩やその他の地域の自治に大きく寄与しています。
 なかよし文庫創立者の潮平俊さんは、数年後に郷里である石垣市の市立図書館建設に社会教育職員としてかかわられ、私たちに公共図書館のモデルを示してくださいました。野坂きよかさんは文庫活動のかたわら「親と子の良い映画を見る会」を主催し、今日では″TAMA映画フォーラム″の事務局長としてまちづくりに映像文化を定着させ、また、広井ひよりさんは市内の文庫をネットワーク化・文庫連絡会創立、月例会、原画展とその作家 講演会を中心に文庫展を開催して今年で20回を迎えています。広井さんの存在は、図書館協議会委員として″中央図書館のありかた″答申をまとめるなど、図書館づくりになくてはならない存在といえます。まだまだ紹介しきれないほどの多くの仲間が学校図書館や福祉分野で活躍中。 一見地味な日常活動の継続が多摩市の自治を支えているのではないでしょうか。

多摩市初の図書館と公民館

 1.973年秋、入居3年目に多摩市役所(既存地域)に隣接して建設された500席のホールをもつ公民館やまばとホールでは、市制施行を記念して毎年文化祭が開催され、現在でも既存住民とニュータウン住民のかけがえのない文化、芸術融合の場として市民活動の輸を広げています。
 同時に開館した図書館は伊藤峻初代館長の図書館運営方針により児童サービスを最優先に職員の養成、文庫活動にも団体貸し出しや学習会への講師派遣、後に ″多摩市図書館八館構想″として図書館政策を市民に指し示しました。

都市開発計画に人間の尊厳と教育の重要性を

 多摩市の教育の充実・発展は初代教育長、小林美芳氏の揺るぎない信念に支えられていたのだと後日、気づきました。小林教育長は「ニュータウンと人間開発」(鳳舎刊1.971年)″都市開発と教育の諸問題″のなかで子どもが育つ生活環境は「瞬時も休むことのない成長発達の場であり、そのときその時が子どもにとっては将来の人間形成の素材となり資質となってゆくもの」、「多摩ニュータウンに住む子ども、この子たちにも一生の心に残る良き思い出のふるさととしての配慮に手落ちがあってはならぬ。都市計画の専門家もこの点の留意を怠らずより良い個性的な計画を考慮されることを切望する」と述べています。また、都市開発と教育開発の調和への提言では「子どもの教育は知識の注入ではなく教師と児童の問答により児童の自発性により創意工夫を自ら起こさせよう。更に都市とはそこに人間開発が伴わなければ廃垢にすぎない。そこに住む人間の心を育てることが都市間題の根本命題だ」とあり、脈々と流れる教育長の教育哲学は市民意識の育成と社会連帯感の醸成を図書館、公民館に託したものと私は解釈しました。社会教育振興ビジョンにかなう人事配置として社会教育課長に山下源蔵氏、図書館長に伊藤峻氏を起用したことは小林初代教育長の教育哲学によるものと信じています。

図書館づくり運動と大型道路建設反対運動

 すでにニュータウンで文庫活動を始めていた私たちにとって初の図書館開館は初代館長・伊藤峻氏との出会いでもありました。伊藤氏はまさに私たちの図書館づくりの水先案内人だったといえます。
 移動図書館から始めた日野市立図書館、主婦が買い物かごを下げて気楽に利用できる調布市立図書館、市民とともに作り上げた東村山市立図書館、町田図書館や浪江虔さんの私立図書館との出会いは、私たちの文庫活動の励みとなり図書館づくり運動に拍車をかけました。浪江先生は後に地方議員となった私のために図書館に関する最新データ送ってくださり、地方議会こそが民主主義、自治の原点であると丁寧に説明しいつも励ましてくださいました。
 なかよし文庫メンバーによる7回にわたる市議会への請願、陳情後、ニュータウン第一号諏訪図書館が1.979年10月にオープン。商店街、幼稚園の一角に複合施設として設置された「諏訪図書館」。当日10時開館、本を求めて大きなスポーツバックやかわいい手提げをもった大勢の子どもたちが続々と来館。対応する伊藤館長の得意そうな顔、職員たちの満面の笑顔、この光景は後々の図書館運動の原点になりました。
 ちょうど同じころ、入居以来反対運動を続けてきた尾根幹線の側道工事説明会が日本住宅公団(現在はUR都市開発機構)によって開かれるなど道路計画が具体化。将来都道になる尾根幹線は、西は国道16号に近い町田街道からニュータウンの南端にそつて(私の住まいから70メートル)東進し多摩川左岸の調布市に通じる全長16キロメートル、完成時の幅員は58メートル。こんな大型道路ができると環状八号線並みの公害道路になると、勉強会があちこちではじまりました。私は市議会議員になつた男性会長のあとを受け 3.000世帯の自治会長を引き受けた直後のことでもあり体が硬直するほどの不安をおぼえたものです。
 車の公害がまったくなかつた15年前の尾根幹線計画を何のためらいもなく進めようとする公団。私たちは公回と東京都に自紙撤回を求めて抗議の座り込みを開始。座り込みのかたわら、私は自治会長として公回交渉、市議会や東京都議会への陳情、請願、マスコミ対応に明け暮れる日々。近隣からの応援、子どもたちは下校時、座り込み現場に直行。多いときには500人が抗議行動に参加し1月24日から40日間の行動の後、囲い工事終了と共に座り込みを解除しました。
 一介の主婦であつた私がここまで頑張ることができたのは自治会副会長として、資料提供のみならず公団や東京都とのアポイントをとりつけ陰となって支えてくださった今は亡き内田青象さんのお陰です。脅迫電話に悩まされ、私が挫けそうになつたとき内田さんはウイリアム・A・ロブソン博士(都市問題の世界的権威、ロンドン大学教授)の言葉を手渡してくれました。そこには次のような文章があります。「偉大な都市の目的は経済成長でも、産業の発展でも、大きく広がることでもない。大衆により充実した生活とよりよい教育や、文化を与えてこそ、真に偉大な都市です。生活をよりよく楽しむ機会がふえ、環境はより美しく、静かな都市、自動車が人間を支配せず、人間が自動車を支配する。もっと緑地があって、庭があって、明るく澄み切って、美しく、変化に富み、市民の一人一人が人間としての自己表現のチャンスに恵まれている。―――2010年の東京が、そういう都市になっていることを期待します」令東京都政に関する報告書」″東京再開発への提言″1969年)。間もなく2010年を迎える今日にあつても、ロブソンの提言は新鮮さをまして私の心に響きます。車の増加によって30年来閉鎖してきた側道開通の声が上がっていますが、資源の少ない日本での公共事業・道路建設による環境破壊はもう終止符を打つべきでしょう。

″政治はくらしの必需品″地方議員として

 1980年代、戦後政治の総決算を掲げた中曽根康弘長期政権により国鉄民営化が行なわれ、86年夏の衆参同日選挙により307議席を得た自民党は防衛費のGNP費1パーセント枠突破、国家機密法の上程、円高不況のもとで高齢者の受診抑制につながる老人保健法の改悪などが相次ざました。2008年の今日状況に似て国民の閉塞状況は極まっていたころです。
 私の所属していた日本婦人有権者同盟では女性の政策決定の場への参加が大きなテーマとなつていました。すでに地方議員として活躍されていた茅ヶ崎市義の西山正子さん、大宮市議の島田由美子さんのお話を聞く機会があり、気取りのない誠実な語りに感動をおぼえました。 また地方の時代の到来をつげる革新自治体の盛り上がりも一筋の希望につながりました。戦後民主主義がこのまま終わってしまいかねない、平和憲法を守るのは私たちなのだと自らに問いながら、後で後悔しないためにもこの道を歩んでみようと48歳の遅い決断でした。

理想選挙で多摩市議会ヘ

 文庫やPTA、憲法をともに学んだ仲間によって、婦人参政権の母として知られる市川房枝さんが実践されたカンパとボランティアによる理想選挙で1987年4月、市議会に送っていただきました。以来今日まで、組織や政党にまったく縛られることなく権力に抗し、市民の声を市政に生かす努力をかさねました。市民のための、市民とともにある人間都市をつくりあげることは、永遠の課題かもしれませんが、その前提としての、政治、経済における人間尊重の基本姿勢は保ち続けたいと強く思います。
 二元代表制・地方議会改革は始まったばかりです。民主主義の舞台、自治体議会には広汎な市民の参加が必要です。次の選挙にあなたも是非チャレンジしてはいかがでしょうか。政治を変えるのは私たち自身ですから。

        

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