冬ソナの深層心理
1.ストレンジャーとしての転校生

物語は、18歳の美少女ユジンが、同い年の美少年「転校生」チュンサンと
偶然に通学バスで隣に乗り合わせたことから始まる。

一対のお雛様のような、という形容が似合うこのカップルだが、
「マイウ〜♪」の石ちゃんと、森久美子の巨漢カップルでは、
ロマンスも始まらないだろう・・・。

転校生には、どこかミステリアルな雰囲気があるものだ。
わたしも小4に転校してきた邦子ちゃんという女の子に
ゾッコン惚れた事がある。
その後も、小6のときに転校してきた、くみ子ちゃん、
雅子ちゃんという子に次々と熱を上げた。

サンヒョクやヨングクという見慣れた幼馴染みの中に
影のある美少年が突然現れたら、ポーッとならないほうが
不思議である。
現に、チェリンはやられてる。
でも、チンスクはなんで、チュンサンに惚れなかったんだろうか・・・。
「面食い」じゃなかったのかな・・・。

そういう子って、いるもんね。
今の高校生に聞いてみたら、ペ・ヨンジュンなんて、気持ち悪いそうだ。
「やさ男は大ッ嫌い」
という子が多い。

で、ユジンも運命的な出会いを感じて、ズルズルとチュンサン蟻地獄に
はまっていくのである。
もう、塀越えの抱きとめられるシーンで、ユジンはきっと落ちてるんだろうね。
ドギマギしてるもん。




2.ファザコンの二人

この物語には、二人の父親というのが最後まで、キーワードになっている。
一時、異母兄妹か・・・と、匂わせるあたりはスリリングでおもしろい。
近親相姦タブーを乗り越えるのか、という「少女マンガチック」な展開が気を揉ます。

幼少期に父親と適切な関係がとれなかった子どもは、
得てして大人になって「ファザコン」になりやすい。

父を知らないチュンサンも、早くに亡くしたユジンも、ある意味
ファザコンなのである。

特に女の子のユジンは、母子家庭、女ばかりの家族で、
父性をよくしらない。
このような子は、「白馬の王子様」コンプレックスに陥りやすい。
つまり、いつか、だれか素敵な王子様が、わたしを庇護してくれる、
そうなってほしい・・・という、強い無意識的な願望を抱くのである。

だから、彼女にとっては幼馴染のサンヒョクは最初から
その条件を満たしていないのである。
心理学の常識を知らないばかりに、サンヒョクはその後、
無益な努力を延々とすることになる。





3.母−娘結合

2004年に日本を席捲した
この人気ドラマの深層心理を
分析してみたいと思う。

まず、ドラマの筋について簡単にふれておこう。

ユジンは高3の女の子で、ある日、転校生のチュンサンと
偶然にバスで乗り合わせる。

ユジンの周囲には、
幼馴染で彼女に恋心を抱いているサンヒョク、
将来、同居することになる親友の女友達チンスク、
そしていずれその夫となるヨングク、
美貌を鼻にかけ早々にチュンサンに振られる
チェリンがいる。

ユジンはやがてチュンサンと恋に落ち、
二人はほんのひと時、薔薇色の甘さを味わう。
しかし、チュンサンはユジンの亡き父が
自分の亡き父と同一人物であると誤解し、
ショックを受ける。
そして、ユジンのもとを離れようとする日に事故に遭う。

物語は、そこから10年後に飛び、
ユジンはインテリアデザイナーとして活躍しながら
幼馴染のサンヒョクと婚約する。
結納の日に、ユジンは死んだはずのチュンサンと
瓜二つのミニョンという人物を偶然、街で見かける。
そして、茫然自失する・・・。

その後、建築家のミニョンは、
チュンサンとは別人ということで
一緒に仕事をするが、やがてそのミニョンが
かつて事故で記憶を失ったチュンサンその人
であることがわかる。

やがてチュンサンは2度目の事故に遭って記憶を取り戻すが、
母親のミヒから、
「あなたの父親はユジンのお父さんだ」
と偽りの言葉を告げられて、
再度、ユジンと別れることになる。

最後には、チュンサンがサンヒョクの父とミヒの間に
できた子どもだったことがわかるが、ユジンは
アメリカに発ったチュンサンを追わずに、
フランス留学へと旅立つ。

3年後、帰国したユジンは、
かつて自分のプランニングした家が
専門誌に掲載されているのを見て、
それがチュンサンの仕事である
ことを直感し、現地に赴く。

そして、事故後の手術の後遺症で
盲目の身となったチュンサンと
運命的な再会を果たし、
ふたりは結ばれて物語は終わる。

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ヒロインのユジンは、
父親のいない母子家庭の少女ということで、
母−娘結合(母性原理、女性原理)の優位性が
物語の初めに示唆される。

また、妹を含めて「男っ気」のない
「女家族」であることも、これからユジンの
男性性、父性性獲得が、彼女の発達課題になる
であろうことが想像される。

ユジンの父のように、病気で死別した場合、
しかも生前、少女時代に父との「よきふれあい」を
経験できた子は、まだ救われる。

というのも、我われのもとには、
父と生別した母子家庭の少女で、
非社会的、反社会的問題で
訪れる子が多いからである。
その父親というのが、アルコール依存症や、
DV(家庭内暴力)、ギャンブル依存症、
浮気性、ワーカホリックなどの
なんらかの病理性を持っている場合、
そこに育ってきた女の子は、どうしても
ネガティブ・ファーザー・コンプレックスに
陥るものである。

極端なケースでは、援助交際に走るタイプの子は
皆そうである、と言っても過言ではない。
仮に、父親が物理的に実在していても
心理的には不在にひとしい場合にも、
似た現象は生じる。

端的に言うと、この子たちは「肌さみしさ」から
「永遠の父親探し」に走るのである。
それは超理想化された父性像であり、
神に等しく人格化された父親像なので、
現実の人の世界には存在するべくもなく、
したがって、彼女たちは
大勢の「普通の男性」に抱かれても尚
寂しさを癒されず、不全感を抱き続けるのである。

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ユジンは、少ない期間といえども
父親とある程度接した経験があるだけに、
極端な「白馬の王子様探し」にはならない、
とは想像がつくものの、基本的には、そのような
心理状態に彩られていると理解した方がいい。

そして、彼女の成育過程で、多分に欠如していたであろう
父性性、男性性をどう獲得して、自我に統合していくか、
というのが物語の主眼になるのである。




4.出会いの「時」

物語の幕開きは、
ユジンが遅刻しそうな場面から始まる。

ユジンは遅刻の常習犯である。
たんに「寝坊助」である、といえば可愛気があるが、
時間にルーズである、キチッとしていない、
と捉えると、父性性の欠如した母子家庭の
甘さが露見しているとも見える。

遅刻以外では優等生らしく、放送部活動なども
責任感を持って務めているが・・・。

ここで「時」というテーマが
さりげなく提示されている。

「時間」には、
物理的な「時間」を現わすクロノスと、
心理的な「時」を現わすカイロスがある。

カイロスとは、
その「時」がきた、とか
「時」が熟した、という性質の時間である。

同じ1時間という物理的時間(クロノス)でも、
好きな人といる「時」は短く感じるが、
嫌いな人といる「時」は長く感じる。
時間にはこのような心理的な「時」の一面がある。

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さて、ユジンにとって重要な「時」とは
なんであろうか。

十代という年齢からいって、
少女から大人の女性になる、ということが
まず思い浮かぶ。

どうアイデンティティを確立していくか、
というのが一般的課題である。

将来の進路に悩んだり、
恋に「時めく」ということもあろう。

また、発達課題として、母性的家族で育ってきた
ので、男性性、父性性の「補償的取り込み」が
必要になる「時」だろう、と前述した。

そして、人格の発達のためには
何らかの「死と再生」の通過儀式が起きてくる
だろう、という予測がされる。

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そこへ、転校生のチュンサンが現れる。
最初の出会いはバス停である。
これを「二人の男女がバスに乗り合わせる」
という夢として解釈したら、どうだろう。

夢における、男女という異質なものの組み合わせは、
無意識下での「新たな可能性の統合」を
象徴する。

バスというのは社会的な乗物である。
つまり、この二人は、これから
お互いを「自分にないもの」を取り込む対象
として、社会生活のなかで運命共同体となる
だろうことが、示されているのである。

バスのシーンで、二人が
破れたシートを自分たちが身に付けていた
ばん創膏で繕う、というのがある。

これなぞは、「心の中の欠損したものを繕う」
という二人にとって共同作業の第一歩の
メタファーとして見ると面白い。




5.「母殺し」の過程


現代においても、韓国には
儒教的精神が日本より根強く残っている。

チェ・ジウが小泉総理と握手するときに
さりげなく左手で目上の人に対する
敬意のポーズをとったことでもわかろう。

この時代にあっても、韓国では、
日本の親子関係よりも、それが濃く、上下関係が
明確であることがドラマからも伝わってくる。

特に、独りっ子のサンヒョクとチュンサンは
母親に楯突けない「イイ子」であったことが
伺える。

これは深層心理学的には、母親の否定的な
側面である「呑み込む母」の姿を如実に現わしている。

カウンセリングの場面では、こういう
「イイ子」たちがしばしば不適応を起こして、
不登校や非行などになりやすい。

このネガティブ・グレートマザー(否定的な太母)
から、どう自立するか、というのが
二人の発達課題であることが一目でわかる。

この母親たちは我が子を愛するがゆえに、
無意識下では、その子を自分から奪ってしまう
女性の出現に怯え、その相手を亡きものにしたい
と願うのである。
ズバリ言えば、「子離れ」が出来ない母なのである。

息子たちは、母に愛されているがゆえに、
その葛藤で苦しむことになる。

このような状況で、一般的には、
無意識下での「母親殺し」の心理が働き、
「英雄」元型のコンステレーション(布置)
が生じてくる。

それはどういうことか、というと、
世界に偏在する「英雄の物語」を見るとわかる。

日本昔話の『桃太郎』や『一寸法師』などでは
鬼退治がなされた後に、宝物の獲得や
お姫様との結婚がなされる。

これと似たモチーフは古今東西にある。
最近の例では、アニメの『シュレック』も
そうであるが、ドラゴン退治をして姫と結ばれる。

分析心理学者のユングは、
この世界中にあるモチーフから
「英雄」的行為とその結果、
という一連のプロセスを鑑みて、
人の心には「英雄」元型がある、と考えた。

元型というのは、誰もが持っている
「心の遺伝子」のようなものである。

ちなみに「グレートマザー」というのも
ひとつの元型である。

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古今東西の昔話や神話に
「ドラゴン退治」のテーマが
多いのはなぜか、といえば、そこに
古今東西に関係なく共通の
「人間の心のドラマ」が投影されているからだ、
とユングは考えた。

その最も卑近な例が、母親が
子どもの個性を認めずに、我が物のように
振舞う様を、「ドラゴン」に捕われた姫(子どもの心)
として物語や神話では表現しているのである。

このドラゴンや鬼を退治することが
自分が「個性的に生きる」唯一の活路である、
と子どもたちは先験的に知っている。
「英雄」元型という心の遺伝子を持っているからである。

そこで、子どもたちは「母親殺し」に
立ち上がるのである。
これは本来、心のなかで象徴的に行なわれるべき
イニシエーション(通過儀礼)なのであるが、
今日では、実際の場面でアクティング・アウト(行動化)
してしまい、殺人事件として「母親殺し」が
起こる悲劇が増えている。

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この物語では、サンヒョクがまず、
ユジンを侮辱した母に対して、
反抗の狼煙をあげる。

母親は、自分にとって都合のよかった
「イイ子」のサンヒョクが変わってしまったので
(実は成長しているのであるが・・・)
ユジンを憎らしく思う。

これは、後に、ミヒがユジンをチュンサンから
遠ざけようとした心理でもある。

グレートマザーの力が強大な時、
英雄は逆にドラゴンに食い殺されて、
子どもは永遠に「自立」できなくなる。

事実、サンヒョクは後に、ユジンに捨てられて
瀕死状態になって入院し、またグレートマザーの
膝元に引き寄せられてしまう。

このあたりに、彼の自我強度の
脆弱性を見ることができる。
(嫉妬に狂って、ユジンに無理チューをして
レイプ紛いの狂態を演じた時も、
彼の自我の弱さを感じたが・・・)




6.二度の事故

グレートマザーの元型に同一化した母は、
子どもを無意識下で呑み込み、その個性を
殺す働きをする。

チュンサンが母ミヒと同乗するタクシーから
飛び降りて、ユジンのもとへ駆けていった時に、
事故は起きる。

それは、グレートマザー・コンステレーション
によって起きたとも、心理屋には見える。

コンステレーションとは心理学で
「布置」と訳されているが、本来は、
「星座」の意味である。
           
この場合、ユジンが自分と兄妹である、
と思い込んだことも、ある意味、
宿命的状況に「呑み込まれた」と
考えることができる。

つまり、チュンサンの周囲には
「呑み込む」母的な「場の力」が働いていたのだ。
それが、グレートマザー・コンステレーションである。

事故によって、チュンサンは記憶を失い、
結果としてユジンのもとから完全に
引き離されることになった。
しかも、ミヒの考えで、ミニョンという
新たな人格をマインド・コントロールで
注入さる。

母親は、我が膝元から「自立」して離れようと
意志した息子を、無意識下の支配で、
再度、我がままになる「イイ子」に仕立てたのである。

母ミヒが希有な才能を持つピアニストである
ことを考えると、ある意味で、シャーマニック
ともいえる、尋常じゃない
グレートマザー・コンステレーション状況に
チュンサンは置かれていたと言えよう。

この強力さゆえに、「死と再生」の通過儀礼である
事故に2度も逢わねばならなかったのだ、
とも解釈できる。

このようなことは、我々の臨床でも
時折、体験することがある。




7.ソナタと恋歌 

『冬のソナタ』というのは邦題で、
韓国での原題は『冬恋歌』である。

恋歌は、Love Songのことだが、
ソナタとは、音楽用語で、「奏鳴曲」ともいう。

宮崎 駿監督によれば、
『〜の〜』というタイトルは必ず
ヒットするという。

『風の谷のナウシカ』
『天空の城ラピュタ』
『となりのトトロ』
『紅の豚』
『千と千尋の神隠し』
『ハウルの動く城』

例外は、『もののけ姫』だが、
「これも「の」の字が、2字入る・・・」
と宮崎監督は言う。

カタカナを含んだ『〜の〜』というタイトルは
「舶来モノ好き」日本人の耳を
くすぐるのかもしれない。

それと『ふゆソナ』と詰めて4文字になると
これもまた日本人好みの語感になるのだろう。

最近の若者は何でも4文字につめて
「メリクリ」
「あけおめ」
などと、新造語を遊び感覚で
使いまわしている。

**************

『冬のソナタ』とは、上手い邦題を
つけたものだが、ソナタについて
若干、薀蓄を垂れてみたい。

ネットの音楽辞典を検索してみると、
イタリア語で、ソナータとは、
元々カンタータ(声楽曲)に対する
「器楽曲」の意味である。
「器楽による歌」といってもいい。

その語源は、イタリア語の「ソナーレ(鳴る、響き)」
からきており、日本語では「奏鳴曲」と訳された。

ソナタは、今日では器楽のための独奏や重奏の曲をさし、
3〜4楽章からなる。
3楽章の場合は、急・緩・急という
速さの変化があるのが一般的である。

さらに、詳しく見ると、
第1楽章は、ソナタ形式
第2楽章は、リート形式(2部形式や3部形式など)
第3楽章は、メヌエットやスケルツォなど           
第4楽章は、ソナタ形式
という独特の形をなす。

ここでいう、ソナタ形式とは古典派音楽
独特の曲形式で、
中学や高校の音楽の時間にも
テストなどに出て、かすかに言葉を覚えている
向きもあろうかと思う。

ソナタ形式の構成は、ざっとこうだ。

呈示部→序奏(第一主題/第二主題)→小結尾
展開部(第一主題/第二主題)→再現部(第一主題/第二主題)
終結部

この構成に、『冬のソナタ』を当てはめてみるのも
面白いかもしれない。

第1・2話の高校生篇が「提示部」で、
「序奏」の第一主題が、ユジンとチュンサンの葛藤
第二主題が、ユジンとサンヒョクの葛藤。
チュンサンの事故死で「小結尾」を向かえる。

「展開部」は、物語が10年後から始まる。
第一主題は、ユジン-ミニョン-チェリンの三角関係。
第二主題が、ユジン-チュンサン-サンヒョクの三角関係。

展開部から再現部に移る時に、
チュンサンの2度目の事故があり、
「再現部」の第一主題は、ユジン-チュンサンの新たな関係。
第二主題が、ユジン-チュンサンの別れ。

「終結部」は、フランス帰りのユジンと
盲目となったチュンサンが再会し結ばれて、終わる。

************

『冬ソナ』を見ていて思うのは、
BGMもさることながら、クラシック音楽を
上手く作品構成に生かしている。

脚本家の造詣が深いのか、
監督の思いなのか。

サンヒョクはFMのクラシック番組担当で、
カン・ミヒはクラシックのピアニストだ。

心理描写に使うBGMも、
ベートーヴェンのピアノソナタ『テンペスト(嵐)』
バーバーの『アダージョ』
ロボスの『アリア』、
ラフマニノフの『ヴォカリーズ』・・・と、
選曲が堂に入っている。
音楽担当イ・イムのセンスのよさが伺える。

それゆえ、物語がソナタ形式の構成に
スッポリ当てはまっても、
すこしも違和感を感じさせない。

また、ややもすると、大の大人から
少女漫画チックだとか、
筋がご都合主義だ、という批判も
仄聞するが、
あえて弁護するならば、
仮にそのような稚拙な物語でも
音楽が支えている力によって、
鑑賞に値する作品になっているということだ。

それは、モーツァルトの『魔笛』が
メチャクチャにストーリーなのに
偉大な音楽によって一級の芸術作品と
賞賛されるのに似ている。

『冬のソナタ』は現代版テレビ・オペラと
いってもいいかもしれない。
とすると、韓国での原題『冬恋歌』は
正しいのだろう。