◆リアルとリアリティ〜的を射ると的を得る〜 2004.1.25
   

 的を得るという表現がある。
 日本語大辞典第2版によれば、「的確に要点をとらえる」ことである。細かいことをいえば、正しくは「的を射る」になるそうだ。そして、そのことを知っている人は少ない。1964年の倉橋由美子の小説『宇宙人』では「的を射る」が使われているが、1970年の高橋和巳の小説『白く塗りたる墓』では、「的を得る」が使われている。
 小説の地の文でも使われているぐらいだから、一般の人が「的を得る」と誤用していても不思議ではない。実際の会話の中でも、「的を射る」よりは「的を得る」という言い方の方が多いだろう。
 さて、ここでひとつの疑問が現れてくる。
 リアリティのあるシナリオを書くためには、「的を射る」と正しい用法を選ぶべきなのか、「的を得る」と実際に広く使われている用法を選ぶべきなのか。
 書き手として幾つか作品を出しているうちにだんだんと耳が肥えてきて、現実の台詞というものに対して注意できるようになると、たいていこうした問題にぶつかる。そして勘違いをしてしまう。実際には「的を得る」が使われているのだから、実際の用法の方が適切ではないのか──。
 問題は、「正しい用法」か「実際の用法」かという単純な二項対立ではない。また、「実際の用法」を選べばいいという単純な問題でもない。
 理由はいくつかある。
 まず1つ。リアルとリアリティは違う。リアルな台詞(「的を得る」)を持ち出せばリアリティが出るわけではない。リアルにしたところでリアリティが出ないというのは、フィクションの世界ではいくらでも転がっている話だ。
 次、2つ。「的を得る」という、本当は間違っている用法を使ったとしても、何人のユーザーが、それがリアリティを出すためにわざと書き手が行なった間違いであると気づくのか。間違いであることに気づいた者は「この書き手、間違ってやんの」と思うだけであり、間違いだと気づかない者は書き手の意図にまったく気づかないだけである。「的を得る」と書き手が意図的に書き記すことで表現しようとした内容は、どちらの場合も気づかれず、上滑りするだけだ。
 言葉というものも台詞というものも、書いたから即伝わるわけでも、書いた通りに解釈されるわけでもないのだ。書き手と受け手の解釈の仕方は違っている。書き手が「この仕方で解釈してほしい」と思っても、受け手は違う仕方で解釈してしまう。専門的な言い方をすれば、書き手が伝えたいコード通りに、受け手が読んでくれるわけではない。書き手のコードと受け手のコードは違うのだ。
 書き手の意図を伝えるためには、別の工夫が必要だ。仮に、「的を得ている」と無邪気に言う女の子を描きたいとするのならば、そもそも「的を得る」という表現自体が間違っていることを、ユーザーに知らせなければならない。
 さらに補っていえば、「実際の用法」が「正しい用法」として定まっていない場合は、何の説明もなしに実際の用法を使ってしまうと、それが正しい用法なのだとユーザーをミスリードする可能性がある。言葉のプロがミスリードを許すのは、果たして書き手のモラルとしてどうなのか。

 フィクションとは嘘の世界である。もう少し丁寧に言うのなら、嘘と本当を巧みにブレンドさせた世界である。単純に、本当(実際)を混ぜればいいという世界ではない。実際にはこう言っているから、フィクションの世界でもこう言わせればいいという問題ではないのだ。実際にはこうだからフィクションに即導入するというのは、書き手の脳味噌の中で閉じた思考であって、そこに受け手への意識はない。それでは、多くの不特定多数に向かって物語を書く者としては不十分である。ミスリードの可能性や受け手への有効性を考える作業が抜けては、ただの自己満足に終わってしまうのだ。

   

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