◆巨乳至上主義「以前」 2004.1.8 鏡裕之  

 
 

 「巨乳至上主義にモノ申す」というWEB記事がある。
 まとまりのない記事だが、論旨はこうだ。現在は巨乳至上主義がまかり通っている。メディアは巨乳のオンパレード。これでは「男性はみんな巨乳好き」のようなイメージが醸成され、女は巨乳でなくてはいかんという強迫観念が生まれてしまう。それでは、非巨乳女性がかわいそうだ。女性の魅力は巨乳以外にもあるのだ──。
 記事の筆者は、巨乳至上主義に対して危機感を懐いており、また否定的な見解を持っている。渡辺淳一も、確かある著書で、巨乳は気持ち悪い、大きくもなく小さくもない、ほどよい大きさがよいと、乳房に対する自分の美意識を語っている。
 美意識なら構わぬが、巨乳至上主義という批判(そもそも巨乳至上主義という言い方が批判的)となるとどうか。
 かつてこの国は巨乳差別国家であった。巨乳は、魅力的な商品ではなかった。浮世絵の世界でも、巨乳に対して愛着を示したのは少数。女性器に対してはあれほど執着を示した浮世絵作家も、乳には無頓着であった。ヨーロッパ絵画が乳に対して執着した──巨乳と微乳をくり返した──のと比べると対照的である。明治時代になっても巨乳をめぐる状況は変わらない。本来奥にいて人目につかず、それゆえ奥方と呼ばれた妻の容貌は、明治維新によって注目される存在となり、学校は美人の子を引き抜く場所と化した。それゆえ、「女は顔ではない」と弁護する言説まで生まれたが、その時でも巨乳は発見されていなかった。80年代まで、アイドルは巨乳であることを隠し、サイズを小さく偽っていたのだ。巨乳に対しては、デカパイなんて言葉が使われていたのだ(今はそんな言葉を使う子は減少している)。
 巨乳至上主義とも呼べる巨乳ブームのおかげで、微乳の子たちが肩身の狭い思いをしているのは知っている。だが、巨乳ブーム「以前」から微乳の子は肩身の狭い思いをしてきたのだ。それどころか、巨乳の子だって同じように肩身の狭い思いをしてきたのである。かえって巨乳ブームによって、巨乳であることは商品なんだ、男の子を引っかける魅力なんだ、と巨乳の子たちは気づかされ、部分的に解放された(だからといってマイナス部分はちゃらだと言う気はない)。「大きすぎたらだめ」という強迫観念から「大きくてもいいんだ」という解放。事実、WEBの彼氏募集のコーナーを見ていると、75年以前の子たちは、巨乳をあまり表に出そうとはしない。自分のプロフィールに巨乳とは書かない。だが、青春期に細川ふみえのブレイクを通過した75年以降の子たちは、うれしそうに「巨乳」と書く子が多い。75年以降の子たちは、巨乳であることが異性に対して武器であることを知っているのだ(それはまぎれもなく、フーミンこと細川ふみえの影響だろう)。
 過去に疎んじられていた巨乳は、やっと市民権を獲得して愛でられるようになったのだ。にもかかわらず巨乳至上主義としてあのような批判の仕方をするのか。そんなことを言うのなら、アイドルでは当たり前のルックス至上主義はどうなのだ? それこそ真っ先に叩くべきではないのか? それをせぬのは片手落ち、議論としてご都合主義としか言いようがない。
 巨乳ブームが過熱ぎみであることを否定するつもりはないが、それはあくまでもひとつのムーブメントにすぎない。長い間、巨乳は「大きすぎる」として「健全」から外されてきた。C・H・シュトラッツの著作でも、小さすぎる乳(微乳)と大きすぎる乳(巨乳)が、美という健全から外されている。その意味では、微乳も巨乳も肩身の狭い思いをしてきたのだ。それが変わり始めたのはアダルトビデオが普及する80年代後半、そしてそれにつづく巨乳ムーブメントである。89年のかとうれいこ、松坂季実子によって用意され、92年頃に始まった巨乳ムーブメントは、十年の歳月を経て、やっと爆乳までたどりついた。浮世絵の世界でもあまり注目されてこなかった巨乳が、ようやくここまで発見されたのだ。「大きすぎる」として美的枠組みから排除されてきた巨乳が、ようやく評価されるようになったのだ。そういう流れがあるにもかかわらず、やはり巨乳至上主義としてあのような批判の仕方をするのか。
 そもそも、巨乳ブーム「以前」から、「やっぱり男の人はオッパイなんですか」「やっぱり男の人は顔なんですか」なんて言説はくり返されてきたのだ。時代が違って巨乳ではなく美脚がブームになり美脚至上主義が生まれるようなことがあれば、全国の大根足の子たちは肩身の狭い思いをするだろうが、ブームにならずとも、大根足の子たちは肩身の狭い思いをしているのだ。そしてそれは、女の子が自分の身体に対する意識の仕方が、男の子とは違っていることに起因している。
 女の子というのは、自分の身体に対して神経症的になるものである。女は自分の身体を減点法で採点するのだ。腕は太いからイヤ。お腹も出てるからキライ。唇はいいかな。でも、足が太い。オッパイも小さい。キライなところはコンプレックスになる。女は、いつだって自分の身体に満足していず、いつだって自分の身体に対してコンプレックスを抱えているのだ。いつだって神経症的なのである。なぜか。フェミニズムの議論を竢(ま)つまでもなく、女性は常に自分の身体を「(同性、異性を含めて他人から)見られる身体」として意識しているからである。女性は、自分の身体を常に採点されるものとして見ているのだ。だが、男性は、あまりそういうのがない。見られる身体としても意識しない(意識するとしても、女性に比べて度合いは低い)。それは、資本主義社会というのが、基本的に男性の欲望を中心に築かれているからだ。そしてまた、男性は、美脚や巨乳といったパーツへのフェティシズムで女を眺めがちなのである。そういう背景があるにもかかわらず、巨乳至上主義として記事のような批判の仕方をするのか。
 WEB記事は、NHK山形の爆乳アナウンサーを取り上げ、胸以外のところで評価されるのはかわいそうだ、家族や将来の子供たちはどういう気持ちになるんだ、と同情を引き寄せようとしているが、メディアに顔を出す人間は──アイドルもタレントもアナウンサーも含めて──騒がれてなんぼの世界である。たとえ乳であろうと騒がれれば勝ち。それがいやなら、メディアから去ればいい。そういうメディア世界の特殊性に対して知らんぷりを決め込んで、あたかも無名の一市民が被害を被っているように書く書き方には、言説として貧困さを感じる。
 女性のどのパーツが注目され、過剰に持ち上げられても、女性の身体的コンプレックスは刺激される。かわいそうなんて言説は、事実として意味があっても、言説として意味がない。少なくとも、かわいそうなんて言葉は記事に書く代物ではない。巨乳に何の興味もない男性はどうすればいいのかというが、では、巨乳ムーブメントが起こる「以前」の巨乳好き男性はどうなのだ。普通乳や微乳には興味のないオッパイ星人たちは放置なのか? なんと白々しい言説。日本国の将来を担う子供たちを引き出すにいたっては、話にもならない。この愚劣さは、巨乳至上主義と批判する「以前」の問題だ。
 巨乳至上主義にモノ申すというが、記事の筆者の頭のなかには、「健全と呼べる乳」、「健全と呼べる」「乳への注目度」があるのだろうか。だとすれば、その健全至上主義こそ、真っ先に物申されねばなるまい。

  巨乳ムーブメントは、5年ほどかけて、過剰・過熱から落ち着いていくものと思われる。ブームというのは、やがては収束するものだからである。
 アイドルは再生産される。巨乳アイドルも、爆乳アイドルもまた再生産される。再生産される限り、欲望は再び生まれ、増殖する。そうしてくり返しながら変化してゆくのだ。巨乳はひとつのフェティシズム、ひとつの性的テイスト、ひとつの肉体的テイストとして定着するだろうが、今のような空前のブームを迎えるには、また30年を要するだろう。

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