◆ジェンダーフリーという暴走 2004.1.7
   

 ジェンダーフリーという考え方がある。
 生殖機能以外のすべての性差は人為的文化的につくられたもので、これが男女差別につながっている、というのがジェンダーフリーの考え方だ。ジェンダーフリーの考え方では、「男らしさ」も「女らしさ」も人為的なもの、文化的なもので、勝手に植えつけられたものということになっている。
 だが、これぞ被害妄想というやつではあるまいか。心理学者の林道義・東京女子大教授はこう指摘している。
《心理や行動様式の点で、生まれつき男女の違いがないという主張は、明らかに間違いである。『男らしさ』『女らしさ』は百パーセント文化的な産物ではない》(『フェミニズムの害毒』草思社)
 ジェンダーフリーについては、思考的な挑戦としては肯定できるが、運動としては肯定する気にはなれない。なぜなら、あまりにもジェンダーへのコンプレックスが強くて反動的に動いているようにしか思えないからである。
 《『らしさ』を否定しようという『ジェンダー・フリー』のスローガンは、理想として間違っているばかりか、社会の必要な区別と秩序を否定してしまうという意味で、健全な社会を崩していく危険性をもっている》
 にもかかわらず、ジェンダーフリーを取り入れた教科書が文科省の検定に合格してしまっている。女が「あたしは好きなようにジェンダーを選ぶのよ」と女を放棄し、男が「男しんどいから」と男を放棄した結果現れる崩壊した地平線を、どう受け止めるつもりなのだろうか。そこで育てられる子供たちは、より不安定になるのではないのか。理論的な運動家という連中に限って、きわめて具体的な、生活的な側面への思考が欠落している。そして欠落したまま、押し進め、あとは知らんぷりを決め込む。具体的な側面まで考える能力のない理論家ほど害悪なものはない。

   

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