◆天才と凡人の違い2〜サヴァン症候群と固有性という視点 2004.1.2
   

 ある番組で、サヴァン症候群(Savant Syndrome)が取り上げられていた。サヴァン症候群とは、「知能障害をもちながらも、例えば音楽や目で見た風景を写真と同じくらいに見事に再現できるなど、突出した記憶力を持つ人々のこと」を云う。
 わずか3歳にして、サッカー選手の素早い動きを正確に捉え、遠近法を駆使して高度な線画で絵を描くことができたナディア。
 一瞬にして通りすぎる貨物列車を線路脇に立って眺めるだけで、有蓋貨車が何台あったかを即座に言い当てられたジェレミー。
 一度聞いただけで、どんな難しい曲でも、どんな長い曲でも演奏できたレスリー。 
 サヴァン症候群の人たちは、概念でものを見ていないという。概念でものを見るということは、言語能力を獲得するということである。そしてこの特殊な能力は、言語能力が獲得されるとと失われてしまうのだ。少し長くなるが、中澤宏光氏のサイトから引用しよう。
 《人間には「直観像」という能力がある。直観像は、言ってみれば写真のような記憶のことで、見たそのままを細部まで覚えており、それを頭の中に写真があるように思い出すことができる。
 ただこの能力は実際には子供の頃にはあっても、大人になるにしたがって消えてしまうという。
 物を見るとき、あるいはそれを記憶するとき、おそらくかなり言葉の影響をうけている。現代思想に大きな影響を与えた記号学の祖であるソシュールは、「ラング」によって、世界が分節化されているという(ここでいうラングは言葉と同じものと考えていい、厳密には違うが)。
 「ラングは、われわれと世界を媒介する関係の網目である。コップはコップという実体としてわれわれの眼に入ってくるのではなく、コップを他と区別し、理解するのである」
 ナディアは言語の発達が遅れていた。そのために彼女は上記のような言葉で世界を切って、見ることをせず、ありのままを受け取ることができたのだ。このありのままを受け取るのが「直観像」であり、言語の獲得と平行して失われる。ナディアの才能は、言葉を知らないから、花開いたといえなくもない》

 言葉を獲得していくということは、「あのコップ」と「このコップ」の固有差をないものとして、「コップ」という一般概念に括っていくということである。恐らく、それが完成するのは小学校の間なのだろう。小学校に上がる子供の場合、概念が育っていないことが多い。
 たとえば、以前、3歳ぐらいの子供が手にしていた風船が空へ飛んでいってしまったことがある。母親は別の風船をあてがったが、子供は首を振って譲らなかった。飛んで行ったあの風船がほしいと泣きわめいたのだ。
 普通に聞くと、聞き分けのない子供というふうに読んでしまうけれど、概念という視点を導入すると、事態は様変わりする。
 大人からすれば、「この風船」も「あの風船」も、同じ「風船」である。「風船」という概念を満たすものである。だがら、子供は概念で風船を見ていない。子供にとって、「この風船」と「あの風船」は違う。子供は、風船という「概念」で示されるものがほしかったのではなく、「あの風船」がほしかったのだ。そして、それは、恐らくサヴァンと同じ視点なのである。
 論旨は若干異なるが、柄谷行人が『探究U』で<一般-特殊>という軸と、<普遍-固有>という軸を取り上げている。
 <一般-特殊>というのは、あるひとつの個体が一般的か特殊かという軸で判定する視線である。ビスが数百本あるとして、1本だけ形が違うものがあれば、それは特殊、すなわち異常ということになる。対して、<普遍-固有>は、個体を、他のものと比べて一般的か特殊かという見方ではなく、「その個体」「あの個体」というように、固有性において見る視点である。ビスが100本並んでいるとしても、このビスとあのビスは違うという見方をする。
 友達のA君を見る場合を例にとろう。
 「A君はどんな人ですか?」と聞かれた場合、「変わった人です」とか「普通の人です」「目立たない人です」と答える人は、<一般-特殊>という視点でA君を見ていることになる。でも、「かけがえのない友達です」と答えた人は、<普遍-固有>という視点でA君を見ていることになる。
 <一般-特殊>という視点は、言語的な、概念の軸である。それに対して、<普遍-固有>という視点は非言語的な、直観像の軸である。
 大人は、通常、<一般-特殊>という視点でものを見ている。
 5個そろっていたテニスボールが1個なくなってしまえば、またお店で1個買ってくればよい。なくなった「あのテニスボール」と新しく買い換えた「このテニスボール」は同じ「テニスボール」という概念に当てはまるものだからである。
 だが、子供は、<普遍-特殊>という視点でものを見ている。
 あのテニスボールとこのテニスボールは違う。5個そろっていたテニスボールが1個なくなってしまえば、なくなった「そのボール」は永遠に戻らない。別のテニスボールを買い換えたとしても、それは「あのテニスボール」ではないからだ(個人的な経験で申し訳ないが、小学校4年の時、友達の家に遊びに行ったことがある。その時、テニスの硬球を持っていったのだが、友人の兄がバットでかっ飛ばして用水路に落っことしてしまった。硬球は二度と帰らなかった。友人の兄は、仕方がないなあという様子で、頼んでもいないのに野球の軟球を数個とテニスの硬球をくれたが、複雑だった。誤魔化された気がした。両手いっぱいにボールを抱えながら、用水路に流されてしまった硬球はどうなったんだろうと考えた。今思えば、あの時の自分は、「あの硬球」がほしかったのだ。凄く気に入っていたボールだったのである)。
 ところが、概念を通さずに見るのは、何も子供に限ったことではない。大人だって、恋愛の場合には、<一般-特殊>という「概念の視点」ではなく、<普遍-固有>という視点で異性を見ているのだ。
 それが顕著に出るのは、彼女と別れてしまった時である。
 友達から「女なんかいくらでもいるさ」と言っても慰めにはならないことの方が多い。別れてしまった「あの女」と目の前にいる「この女たち」は、同じ「女」という概念のものではある。だが、「あの女」は「この女」ではない。そしてあなたが求めている女は、「この女」でも、女という概念に当てはまる女一般でもなくて、「あの女」なのである。
 <一般−特殊>という概念の視点と、<普遍−固有>という非概念の視点。
 常識的な視点というのは、<一般−特殊>という概念の視点だろう。右脳とリンクできない人は、天才になれないという言い方をよくするけれど、概念という視点を通すか通さないかということが関係しているようだ。もう少しいえば、鈍感なセンサーは概念でものを見ているのであり、敏感なセンサーは概念によらずにものを見ているということになる。
 たとえば、きわめて通俗的な、右脳・左脳という区別の仕方がある。
 映像的なものや直観像を扱っているのは右脳であり、右脳主体でものを見ていると、「あの風船」と「この風船」を区別することができる。右脳は、<普遍-固有>の視点である。
 言語的なものを扱っているのは左脳であり、左脳は言語の獲得や発達と関係している。左脳は概念の牙城であり、言い換えるなら、それは<一般-特殊>の視点ということである。そして、右脳主体でものを捉えているのか、左脳主体でものを捉えているかで、見え方が変わってくることになる。
 いつでも左脳主体で見ている人は、概念でしかものを捉えていない。だから、リンゴが落ちても、<一般-特殊>という軸で片づけてしまう。
 リンゴが今落ちた。
 それは特殊か。
 いな、特殊ではない。一般だ。ならば、記憶に留めるものでもない。
 そうやって、なんの驚きもないままリンゴが落ちたという情報が片づけられてしまう。そこから万有引力の法則を思いつくことはできない。概念でものを見ている人は、発見が少ないのである。
 だが、右脳を主体にしてものを見ることができる人は、<普遍-固有>という視点でものを見ることができる。目の前で起きたことが特殊でなくても、驚くことができる。だから、新しい発見ができる。そして、それが恐らく天才の所以なのだ。

   

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