『バカの壁』によれば、養老孟司は、天才と凡人との違いは、プロセスであると考えている。もっと具体的にいえば、プロセスの長短に天才と凡人の違いがあると考えている。
普通の人は、Aからスタートして結論Dにたどりつくまでに、A⇒B⇒C⇒Dと4ステップかかる。それに対して、天才は、A⇒Dとわずか2ステップで結論に到達できる。両者の違いは、結論にたどりつくまでのステップの違い、言い換えればプロセスの長短である。
そういう仮説だ。
だが、自分にはどうも的外れのような、天才をめ前にして思いついたわけではないような感じがするのだ。
たとえば、目の前でリンゴが落ちたとする。
普通に考えると、凡人が目にしても天才が目にしても、起きた事件としては同じもののはずである。リンゴが落ちた。ただそれだけのことだ。だが、それが頭のなかに入力される瞬間に違いが生じていたとしたらどうだろう。
リンゴが落ちた。
その事件は、事件としては変わらない。事象としては同じである。けれども、リンゴが落ちたことを捉えるセンサーが違っていたらどうなるだろう。具体的にそれぞれのケースを考えてみるとこうなるのではなかろうか。
凡人の場合 「リンゴが落ちた」⇒センサーが察知⇒入力小
天才の場合 「リンゴが落ちた」⇒センサーが察知⇒入力大
同じ事件であっても、入力が違えば結果も異なる。おまけに、センサーに対してついている様々なネットワーク──問題意識──が違っていれば、さらに結果は異なるはずである。入力された信号(事件)が脳内でどう処理されるのかも含めると、こうなるのではなかろうか。
凡人の場合 「リンゴが落ちた」⇒センサーが察知⇒入力小⇒問題意識(ネットワーク)が弱いため、反応なし⇒入力なしとして処理
天才の場合 「リンゴが落ちた」⇒センサーが察知⇒入力大⇒問題意識(ネットワーク)が強いため、反応あり⇒脳内で重要問題として処理
凡人は、センサーが鈍感である。しかも、問題意識が弱い。そのために、リンゴが落ちても万有引力の法則を思いつけない。けれども、天才のセンサーは敏感である。なおかつ、問題意識が強いため、センサーが何かを拾い上げると、それに対して反応するようにできている。そのため、リンゴが落ちたという1つの小さな事件に対して考え、万有引力の法則を思いつくことができる。
『バカの壁』のなかで、養老孟司は、入力係数のことを話している。
たとえば、オッパイ星人の場合、オッパイへの入力係数が非常に高い。なので、少しでも巨乳があったりすると過敏に反応するし、そのことをよく記憶する。だが、巨乳に興味ない人間は、オッパイへの入力係数が低いので、ほとんど残らない。
天才と凡人についても、近いことが言えるのではないだろうか。
天才は、物事への入力係数──センサー──が過敏なのだ。そして、その過敏なセンサーに対して、強いネットワーク──問題意識──が多く張りめぐらされている。凡人はセンサーが鈍感で、なおかつネットワーク(問題意識)も少なく、弱い。
だから、たとえば「女を口説くには、忍耐力と瞬発力である」という言葉を聞いても、1度だけでは凡人はわからない。凡人のセンサーでは、入力なしとして片づけられてしまうのだ。それがさんざん言われて、自分も痛い目に遭って、やっと大きな入力として吸い上げられ、重要事項として処理される──つまり、わかる──ようになるのだ。
天才は、1度だけ聞いても、一発でわかることができる。それは、センサーが違うために、ほんの1度でも大きな入力として吸い上げ、重要問題として処理することができるからである。
天才と凡人の違いは、2つある。
1つ、センサーの鋭敏さ。
2つ、センサーにつながっているネットワーク(問題意識)の強さ。
凡人に足りないのは、この2つか、あるいはどちらかなのだ。