◆禁止という単細胞 2004.1.2
   

 この頃は、議員と書いて単細胞と読むようだ。
「親は子供に屈辱的仕打ちを与えてはならない。肉体的、精神的な暴力を振るってはならない」
 ベルギーの上院議員が、親が子供に科す体罰を禁止する法案を提出した。サビーヌ・ドゥベチュヌ女史は、提出の理由を「飼い主が犬をぶつのを見た人は、止めに入る。でも、親が子供を叩いても、誰も止めに入らない。これはおかしい」と説明している。
 恐らく彼女には、体罰という名を借りた過剰暴力、虐待とうそぶいて親に虐待される子供たちへの激しい悲しみや憤りがあったのだろう。親が幼児化は世界レベルで起きているようで、親のストレスの捌け口として体罰を課される子供の数は、恐らく増えているのだろう。彼女の感情は、わからぬわけではない。気持ち自体は崇高だ。
 けれども、その発露として提出された法案はどうか。果たして、子供への体罰を一切禁止してしまってもよいものなのか。子供は口だけで善悪がわかるようになるわけでも、しつけられるわけでもない。体罰を与えねばダメなことだってあるのだ。問題なのは体罰の質であって、体罰全体ではない。子供に課された体罰が果たして躾のためなのかただのストレス発散のためなのかというのが問題なのだ。取り締まるべきは、悪質な体罰の方なのである。
 国家の分と家庭の分を取り違えてはならない。
 親の体罰を禁止するというのは、言ってみれば、デートDV(デート中の相手への暴力行為)が頻発するからといってデート全般を禁止するようなものだ。個人のデートの仕方を国家が事細かに法律で定めるのも同じである。
「必ず第三者を介在させること」
「ラブホテル以外、セックスはせぬこと」
「男が女を家に招く時は、相手の親を同伴とすること」
「同伴者なくして男が女を家に招いてはならない」
「性行為は、女の明らかなる同意なしに行なってはならない」
 たとえばこんなふうに定められて黙っている人がいるだろうか。
 問題になったからといって、なんでもかんでも国家が法律をつくって規制をすればいいというわけではない。かわいそうという感情論だけでただ禁止する法律を作ってしまうのは、あまりにも議員として貧困すぎる。 昨年、「子供を過重な労働から解き放ち、人権を尊重する」ために、14歳以下の子供がコマーシャルに出演することを禁止する法律がイタリアで可決された。子供がコマーシャリズムに巻き込まれて過剰に時間を拘束されてしまうのはよろしくないが、かといって振り子を反対側にふればよいという単純なことでもない。
 自分たちが作る法律が、果たしてその問題に対してどのような有効性を持つのか、それを考える作業が必要だ。いたずらに規制法案を頻発して、身体にとって必要な臓器まで取ってしまってはなるまい。なんでもかんでも法律で規制しようと考えるのは──たとえば学校においては教師の暴力を、家庭内では親の暴力を一切禁止しましょう、有害コミックは一切販売できないようにしましょうというのは──およそ議員という頭の持ち主が考えることとは思えない。魔女裁判と同じくらい妄信的でヒステリックで、単細胞なことだ。

   

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