◆障害という報道 2004.1.2
   

 ずいぶん昔の話になる。
 といっても、2003年の9月24日のことなのだけれど、長崎少年殺人事件について、分析結果が出ていた。
 この時点でいまだに文書でしか謝罪しない親を持つ少年12歳は、広汎性発達障害だと分析されていた。単純にいえば、知的能力に問題はないが社会性に障害があるということらしい。「発達障害自体が犯罪を誘発するものではなく、育ってきた過程や、別の直接的なきっかけ」が事件を引き起こしたとのことだが、それでも、何か凶悪事件が起こると「障害」の名を持ち出して名前付けを行なう社会の姿勢が気になる。
 「障害」を付加してネーミングをするということは、その犯罪者があたかも自分たち健全者とは違うかのように振る舞うということである。どんなに真実として記述しているつもりであっても「これは特殊な事例です」「普通の健全な人ではなかったのです」というパフォーマティブな意味を人々に与えてしまう。犯罪は誰の中にも巣くうものであるのに、普通の人はそのことを都合よく葬り去って「やっぱり犯罪者はちょっとおかしい人やったんや」と安心してしまう。
 ネーミングは、真実を記述するためのもののはずなのに、かえって普通の人に対して真実を隠蔽し、真実に対して盲目にさせてしまう機能があるのだ。そして、「障害」だったと報道されることによって、その隠蔽機能が現実に機能してしまう。それが、不愉快で不愉快でたまらないのである。
 報道者たちは、言葉のパフォーマティブな機能について、理解がない。そして、そういう者たちが、社会不安を醸成しているのだ。
 なお、asahi.comの方は、見出しから障害名を外していて内容も詳しい。かつて犯罪についてのレポートで、幼児期に愛情をきっちりと受け取れなかった者、変に甘やかされて育った者は凶悪事件を引き起こしやすいという記述を読んだことがある。犯罪は家庭が生み出すのかもしれない。

   

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