◆エロ性とストーリー性の幻想 2003.2.1
   

 エロゲーの世界の話をしよう。
 エロゲーというのは、アダルトビデオとゲームが融合したようなイメージを持てばよい。ただ違うのはドラマ的な部分の扱いだ。ポルノというと、ドラマ的な部分というのは間違いなく不要な部分であるけれど、エロゲーの世界ではそうではない。ドラマはきわめて大切な部分である。恐らく、エロゲーというのが、文字というメディアを取り込んでいることにもよるのだろう。
 だが、昨今、お話の最後に申し訳程度に2、3枚のエッチなCGが現れて終わりというエロゲーが目立ちはじめている。つまり、ドラマ的名部分しかないゲーム、卑俗な言い方をすれば「抜けない」ゲームが増えているのである。オナニーの素材として使えないのだ。
 そんなものでもエロゲーなのかと問われれば、それでもエロゲーなのだと自分は答えるだろう。多様さは世界の豊穣さ。そういうエロゲーがあってもよいだろう。
 しかし、それこそがエロゲーであるとか、そんなのばかりがエロゲーであるという状況に陥っては本末転倒であろう。それでは決してエロゲーという呼び方をつづけることはできまい。
 エロの薄いゲームがあることが悪いと言っているわけではない。ポルノを愛していて、ポルノを理解していて、戦略的にエッチシーンを薄くするのなら構わないと、自分は思っている。しかし、ポルノを嫌っていて、ポルノとして扱われることがいやで、それで結果的にエッチシーンが薄くなってしまっているというのはどうか。ポルノを愛していないのに、なぜ18禁のマークをつけて売りに出すのか。単に、一般のマークをつけて売ると売れないから18禁のソフ倫シールを貼っているだけではないのか。それを卑怯な腰抜けと呼ばずして何と呼ぶのか。
 自分は、個別のメーカーを批判したくてこのようなことを書いているわけではない。そうではなくて、エロゲーの本質について喚起を促したいだけなのだ。というのも、エロの薄いゲームが氾濫して、エロゲーの本質が見失われかけているように思えるからである。自分はそれを、エロの薄いゲームのエッチシーン前に見るのだ。エロが薄いゲーム──すなわち、エッチシーンが2、3枚のゲーム──に限って、エッチシーンへの移行をうまく描いているものが少ないのである。だいたいが唐突に雰囲気が盛り上がり、いきなりエッチにジャンプしてしまう。自分はそこに、エロゲーの本質が見失われている状況、作り手がエロを愛していない状況、ポルノを愛していない状況を読み取るのである。
 いうまでもないことだが、エロゲーはエロゲーである。結果として抜けるゲームになるか抜けないゲームになるかはともかく、エロあってこそのエロゲーである。エロをどうするか考えてこそのエロゲーである。エロを愛してこそのエロゲーである。
 そこでよく問題になるのが、エロ性とストーリー性という問題である。エロゲー業界では、一般的に、エロとストーリーは対立すると言われている。エロとストーリーは相いれない、エロとストーリーを両立させるのは難しいというわけだ。
 だが、違うのだ。
 エロ性とストーリー性の仲が悪いわけではない。そうではなくて、エロ性と処女性が相いれないのである。ヒロインを処女に保ったままエロを高めていくのが難しいのである。ストーリー性を高くしたからエロを入れづらくなるというわけではないのだ。
 だが、元々ポルノというもの、エロというものに対して愛がないと、「ストーリー性が高いから」という口実をつくってエロから逃げてしまう。それはエロに携わる者としてどうなのか。
 エロ性とストーリー性は対立しあうわけではない。エロ性と処女性が対立するのだ。エロ性とストーリー性が対立するというのは、幻想なのである。
 そういう理解の上に、作り手たちには、エロを考えてほしい。マウスをクリックしながらそばにはティッシュペーパーを用意している子たちのことを、考えてほしい。絶対抜けなきゃだめだとは言わないけれども、エロというもの、ポルノというものから逃げないでほしい。
 我々は偉大なクリエイターではない。ゲームクリエイターではない。にもかかわらず「おれたちゃクリエイター」「おれたちゲームつくってるの」なんて思い込みをして逃げてほしくはない。我々はゲームをつくっていると同時に、ポルノをつくっているポルノ産業従事者なのだ。そのことを忘れないでいてほしい。

   

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