◆科学的勘違い 2003.2.1
   
 オカルトや心霊現象はすべて錯覚、科学的に説明できることだ、とやみくもにオカルトを否定する人たちには、ある種の間違いがあるように思える。
 まず、科学的説明そのものへの理解が十分ではないということ。
 そして、科学は世界の事象をすべて説明できると信じていること。
 やみくもにオカルトを否定する人たちは、どうやら科学を誤解しているようなのである。そういう人たちは、恐らく量子論の世界を理解していないのだろう。
 科学は、あくまでも仮説である。
 つまり、現段階で「正しいと信じられている」説明の集合である、ということだ。今「正しいと信じられている」説明が、永遠に正しいわけではない。科学が修正と変更の連続であったことは、少し歴史を繙(ひもと)けばすぐわかることだ。
 たとえば、エーテルというものがある。
 かつて世界全体は、エーテルが存在すると信じて疑わなかった。燃素というものも、19世紀の科学では存在すると信じられていた。だが、両者ともに20世紀の科学によって否定されてしまった。
 科学は、修正の積み重ねである。しかし、得意気にオカルトを否定する者に限って、科学は修正されるということ、科学で説明されていることのすべてが真実というわけではないということ、を理解していないようだ。オカルト否定論者の頭は、19世紀で止まっている。彼らの頭にあるのは、かつての神話的説明や宗教的説明なのだろう。
 かつて、世界を説明していたのは神話だった。
《なぜ雷が鳴ってるの?》
《ゼウスがお怒りになっているのさ》
 それが神話的説明だった。それが、やがて宗教的説明になった。神話の神様の代わりに、一神教の神様が、世界のあらゆる事象を説明する力となった。
 そして今。
 世界を最も雄弁に説明しているのは、科学である。
 しかし、科学がすべてを説明しているわけではない。宗教的な説明や神話的な説明ではおかしかった部分を科学が暴いただけであって、科学の説明がすべて正しいというわけではない。科学は修正されるものなのだ。そして、過ちを十分に含みうるものなのである。だから、科学が今オカルトの存在を証明できないからといって、即オカルトがまやかしであると言えるわけではないのだ。
 だが、得意気にオカルトを否定する者は、科学こそ全事象を説明しているものと勘違いしてしまう。そういう者は、中世の宗教者と同じレベルであって、なんら「科学的」ではない。
 科学が間違っているとか信用できないとか言いたいのではない。科学が厳密性を持っていることを否定したいわけではない。科学は、ある種の事象に対してはかなりの説明力を持っている。
 しかし、科学にも説明が難しいことはあるということなのだ。オカルトの大部分は、科学的には証明できない。確かにオカルトというのは、傍証ばかりで確実に「存在する」と言い切れるものがない。それに対して不信感を持つ気持ちはわかる。しかし、だからといってそれだけで否定するのはどうか。思考として浅すぎやしないか。科学的に証明できないからといってそれが存在しない、起こりえないと、即簡単に言い切れるものかどうか。それではあまりにも思考が早漏すぎやしないか。
 察するに、やみくもにオカルトを否定する者のなかには、得体のしれないものへの不安というのがあるのだろう。しかし、それはただの個人的な弱さである。おのれの弱さを隠すためにオカルトを否定するのはあまりにもみっともなさすぎるのではないかと、かつて中学・高校時代に熱狂的なオカルト否定論者だった自分は思うのである。
   

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