◆己こそ伯楽であれ〜新入社員へ 2001.7.9
   
 伯楽という言葉がある。
 名馬は常にあれど伯楽は常にはあらず、という韓非子の言葉で有名だが、意味は馬の善し悪しを見分ける人。転じて、優秀な人材を見抜く人のことだ。
 新入社員の頃は、どうしても会社や人事に対して伯楽を求めがちだ。
 入り立ての頃は、状況がわからない。わからないから、何をやりたいという気持ちも明確に持てない。持てないから流される。流されるから受け身になる。そのくせして、充実感は味わいたいという気持ちは持っている。だから、張りのない毎日が続いて自分の能力が生かされていないと感じると、「人事は何も考えてなくて、会社は自分のことを見てくれていない」などと考えてしまう。そして、転職や退社を意識し始めるのだ。
 本気でやりたいことがある人はいい。
 ない人の場合、そこに落とし穴はないか。「どこかにええ話転がってへんかな」なんて棚ぼた・受け身思考に冒されていまいか。

 勘違いしてはならない。
 まず、新入社員の自分に、市場的価値などほとんどないのだ(新入社員でなくとも、ほとんどの人の市場的価値はゼロに近い。他からも欲しいと思われるほど市場的価値のある社員は、実は極端に少ない。たいていの人は、市場という広範囲ではなく、組織という狭い範囲内での価値しかない)。
 次に、会社が才能や適性を見つけてくれるわけではない。会社はママでもパパでもない。金を払う他人だ。人の適性など、見いだしてはくれない。部課長も上司も、直接上下関係がある時は、才能やら適性やら、そういう本音を口にしてはくれない。だらだら会社に行っても、充実感も才能も適性も見つかるものではない。
 自分を見いだすのは、畢竟、自分だ。
 道も同じである。
 その道が会社の中にとどまる道であろうと外へ行く道であろうと、道は他人から与えられるものではない。道も、自分も、自分で見いだすものだ。
 伯楽を会社に求めてはならない。伯楽一顧なんて考えは、寸秒で捨てることだ。
 クラブという組織しか経験していない新入社員は、組織に入れば先輩が色々と教えてくれて、何回か回数を重ねているうちに何か面白いことが見つかるものだと無意識に待ってしまう。
 だが、人生も仕事の充実感も、待つものではない。
 自分と道は、自分が見いだすものだ。ただ漫然とサラリーマン生活をしているだけなのに、ただ待っているだけなのに、この会社にやりたいことはないだの自分は認められていないだのと、安易に口にしてはならない。
 決して、組織に伯楽を求めぬことだ。
 愚痴をこぼす暇と元気があるなら、己を見いだせ。
 伯楽は己の中に、己のネットワーク(友人や恋人や尊敬できる先輩、頭に来ることを言ってくれる奴)にいる。

   自分がコニカ(今のコニカミノルタ)に入社した頃、己の才能や適性なんてわからなかった。
 入寮初日、同期の連中を前に、ああ、違うとこへ来てしもた、他の連中の方が全然営業適性あるわ、メーカーに勤める人間っていうのはこういうもんや、おれは存在的に場違いや、と思っただけであった。
 しばらく研修を受けているうちに、営業はいやだな、適性ないな、という感覚が芽生えてきた。
 「女を口説けへん奴は営業できへん」。
 同期から言われた言葉が、身に響いていた。
 営業やるなら、酒と女とゴルフと車。
 それを嗜む感覚が営業する者には必要だと思った。そういう一般性──普通の人が嗜むことを自分も嗜むということ──を持っていないと、お客さんと話が合わないと思った。
 でも、その時の自分は女を口説けなかった。酒は好きでも、ゴルフと車は苦手。一般性はなかった。営業部隊に飛び込んで、先輩を助手席に車を運転するなんて無理だと思ったし、毎週ゴルフで自分の時間が潰れるのも、耐えられないと思った。
 若かったのだと思う。
 その後の自分を見ると、営業が出来ないわけではなかった。人一倍頑固であるがゆえに、自分の興味のないものを売る気持ちがないだけだった。待ってばかり、逃げてばかりの思考では、往々にして自分を見誤るのである。

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