◆大衆性とわかりやすさ 2001.6.12
   
 こう言い切ってみよう。
 大衆性とは、わかりやすさのことである──あるエンタテインメントがより多くの人に享受されること、と定義した場合の話だけれども。
 エンタテインメントを目指すのならば、多くの人に受け入れられたいと思うのが常。
 でも、作り手として若い頃は、どうしてもマニアックな技巧や複雑さ・難解さを志向しやすい。
 そこに、作り手としての拠り所を求めてしまう。

 けれども。
 わからなければ、意味はなし。伝わらないものを作ってOKなのは、芸術だけ。
 エンタテインメントは、わかりやすさだ。
 わかりやすければそれでいいというわけではないが、わかりやすさがないものはエンタテインメントになりにくい。

 勿論、わかりやすさにも程度はある。
 たとえばシナリオ。
 大衆性はわかりやすさだからといって、あまりにも先が読めるチープな話を作ればいいわけではない。
 何も先が見えてこないのでは、イライラする。
 全部先が見えてしまうのでは、ウンザリする。
 畢竟、物語とは、すでに知っている筋の再現である。もう少し言い方を変えれば、物語とは、予想可能なことである。
 たとえば、東野圭吾の『秘密』。
 お話は、ある中年男性の妻と娘がバス転落事故に巻き込まれることから始まる。妻は死に、娘だけが助かるが、娘の体には、妻の魂が入ってしまっていた……という筋書きである。
 お話のベースがわかった時点で、我々は、多分、妻がいなくなるか、娘が戻るか、両方死んでしまうかどちらかだろうと予想できてしまう。だからこそ、安心しながら楽しめるのだが、かといって見え見えのお話を書くのはまずすぎる。あまりにわかりすぎると、ドキドキするものがなくなってしまうからだ。それではエンタテインメントとして魅力がない。
 要は、程度なのだ。
 どこまで先を読ませて、どこまでわからないようにするか。
 それが作り手の技だ。そして、それがあるからこそ、エンタテインメントはエンタテインメントとして機能している。

 複雑なことや難解なことをやって、それ見ろ、おれは凄いだろ、と叫びたくなる気持ちはわかるけれど、それでは大衆がついてこない。
 第一、クリエイターの力量を示すためにエンタテインメントが作られたのでは、たまったものではない。
 音楽であろうとお話であろうと絵であろうと、ものを作る人間としては、複雑なことや難解なことが出来て当たり前。
 その上で、シンプル(簡単)と複雑(難解)のバランスが取れなければならないのだと思う。そのバランスを取って出来るだけ多くの人が享受できるように表現できなければならないのだと思う。

 作り手として若い頃は、簡単なものを出したくない、複雑に走りたいと思ってしまうけれど、それを乗り越えなければ、大衆性への道は開けないのだろう。迎合とはまた違う問題ではあるけれど。
 自分への戒めとしても、そんなふうに思う。
 

あるエンタテインメントを鑑賞して内容がわからないのは、大衆性がないから、というのもあるかもしれない(大衆性があることが絶対的によいことかというと、それはまた別の問題)。
勿論、わからない理由は大衆性の欠如だけではなく、時として自分の基礎教養のなさや人間的理解のなさ、若さというのもある。男女を描いた映画の場合は、特に人間的理解の甘さや若さというものが原因になるようだ。

●どこまで読ませてどこまで読ませないか
 漫画家の弘兼憲史がこんなことを言っている。
「ドラマを盛り上げるには、ストーリーに意外性を持たせるのはもちろんですが、逆に読者の予想通りに創るというのも、ひとつの手なんですよ。(中略)つまり、意外性と安心感の組み合わせのさじ加減が大切なんですね」(『キャラクターはこう動かす』(小池一夫著・小池書院)


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