◆レビュアーの責任 2000.11.18
   
 まず、問うてみよう。
 よくインターネットでゲームのレビューなんかを見かけるが、クリエイターはレビュアーに対して、正しい解釈はこうなんだ、と言えるのだろうか。
 答えは、NOだ。
 第一に、現実的な問題。
 一人一人に対して、「君の解釈は間違っている。本当はこうなんだ」なんて、伝導できるだろうか?
 次に、根本的問題。
 自分たちが狙ったことを狙った通りに受け止めてほしいのならば、そう受け止めてもらえるように作品を作るのがクリエイターの仕事ではないのか。クリエイターの仕事は、正しい解釈・正しい受け取り方へ導くために解説つきのビデオを添付することではない。
 あくまでも、作品を通してメッセージを伝えるのが、クリエイターの仕事である。ものをつくり終えて市場に放った時点でクリエイターの仕事は終わっているのだ。
 作品をどう受け止めるか、どう解釈するかは、まったく個人の自由である――ただし、これは受け手側から見た限りの話だ。

 さて、ここで問いを変えよう。
 書き手側に対する質問。
 インターネットや商業誌にレビューを載せている人は、自分が書いたものに対して責任を負わなくていいのだろうか。

 作品の解釈が個人の自由であるならば、たとえ間違っていたとしても暴論であったとしても、何を書こうが構わない気がする。書いた内容がいい加減であろうと、間違っていようと、読み手が判断すればよいことであって、書き手には責任はない、なんて言いたくなる。
 だが、ちょっと待った! なのだ。
 たとえば、人にものを言う場合。
 なんでも言っていいわけじゃない。情報の発信者であるにもかかわらず、「話し手の責任」より「情報の受け手の取捨選択の自由」の方を強調する人がいるが、精神的に弱い人に対してきつい言葉を言って、それでその人が自殺したとしても、同じように強調できるか?
 ものを書くってことも、同じだと思う。否、ものを書く場合は、より公共性が高い分、情報発信の責任が要求される。読み手がユーザーだろうとクリエイターだろうと、読む人たちに対して書き手は責任がある。
 もちろん、読み手の責任もある。自分が読む側に回る場合は、情報を取捨選択する自由を放棄して、あまりにも一方的に書き手に責任をなすりつける、なんてことは出来ないと思う。情報を取捨選択する自由は、行使するべきだ。
 でも、書き手はその自由に甘えてはいけない。甘えずに、あくまでも、書き手としての責任を果たすべきだ。
 人にはいろんな人がいる。
 感じ方も受け止め方も違う。何を快感と感じるか、何を不快と感じるか。何を面白いと感じ何をつまらないと感じるか。
 それは個人によって違う。
 自分が面白いと思っても、それを他人が面白いと思うかどうかはわからない。むしろ、面白いと感じないかもしれない。
 だからこそ、レビューを書く人は、自分の主観というものをはっきりさせ、自分と感じ方が違う人が間違って判断することが少ないように、努めて書くべきなのではないか。
 具体的に言えば、自分の期待、自分のテイスト、自分の嗜好というものを読み手に見せて、これはあくまでも主観的なんだよ、と示してあげる。自分はこういうテイストを持っているから、これが面白いのだ、気に入らないのだ、という言い方をしてあげる。自分はこういうのを期待していたから、これにはがっかりした、なんてふうに説明してあげる。決して絶対的な基準であるかのように振る舞ったり、客観的に見せかけたりしない。発売年数やタイトル名などについても、調べずに適当で書いたりなんてことはしない(適当で書く場合は適当であることを告知する)。
 レビュアーにはそういう態度が必要であり、それがレビュアーとしての責任の取り方ではなかろうか。
   

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