◆ゲームというゼロ人称 2000.4.17
   

 ゲーム、こと、美少女ゲームのアドベンチャーの一人称は特殊である。
 一人称とは、「おれ」や「わたし」など、自分を指す人称代名詞のことだ。小説には、その「おれ」や「わたし」という一人称で語る方法があって、「彼」や「彼女」の視点で語る三人称小説とは一線を画している。
 さて、小説の場合、一人称というのは、あくまでも語り手である。読み手は一人称に感情移入して物語を追いかけていくけれども、一人称の「おれ」や「わたし」が即イコール自分であるというには考えてはいない。語り手である一人称に感情移入しつつも、自分とは違う他人として眺めている。あくまでも「彼」や「彼女」になっていないだけで、「おれ」という名前の登場人物を眺めているような節がある。
 だから、小説の一人称は、一人称と言いながら、要素として三人称が入っている。
 ところが、美少女ゲームのアドベンチャーの場合は異なる。美少女ゲームで言う一人称は、確かに小説で言う一人称と同じく、呼び名は「おれ」であったり「ぼく」であったりする。
 けれども、小説では、「おれ」という一人称の登場人物の背中が見えたのに、美少女ゲームのアドベンチャーでは、主人公の見た目の映像で物語が進むため、主人公は語り手であると同時に、世界を見るインターフェースと化す。そして、このインターフェースであることが、アドベンチャーゲームの一人称に特殊性を与えている。
 たとえば、「おまえのせいで村が全滅した」なんてことを言われるとする。
 自分がチビキャラとなって姿が見えているRPGの場合、そんなに腹は立ったりしない。小説でもそうだ。「おれ」という人間は、他人なのだから。
 だが、主人公の見た目の映像で物語が語られるアドベンチャーゲームの場合、かちんと来てしまうのだ。それは、アドベンチャーの一人称がインターフェースだからだ。
 インターフェースであるがゆえに、外部からの刺激がそのままダイレクトに伝わってしまう。三人称的な要素がない分、攻撃的な言葉は、攻撃性がそのまま伝わってしまう。結果、頭に来る。
 美少女アドベンチャーでは、主人公を極端なやつにしたり、いやなやつにしたりしてはいけないと言われている。勿論、例外がないわけではないが、たいていはそういうことになっている。主人公は当たり障りのないキャラクターになっている。これも、アドベンチャーゲームの一人称がインターフェースだからだ。
 アドベンチャーゲームの一人称=主人公というのは、明確な主義や個性を持った一人の人間(他人)ではない。あくまでもプレイヤーが気持ちよくなるための乗り物であり、気持ちよく世界を見るためのインターフェースなのだ。
 だから、アドベンチャーゲームの一人称を、一人称と呼称するのは、少々無理がある。三人称的な要素はないのだから、厳密には一人称ではない。それで、自分はゼロ人称という造語を作って呼んでいる。一人称よりも三人称的な要素が少なく、インターフェースであるがゆえに主人公への同一化が激しい人称。それがゼロ人称だ。
 このゼロ人称のインターフェース性は、物語のテーマにも影響している。そもそも、主人公とテーマというのはつながりがある。テーマを描くための語り手として、主人公が設定されることが多いからだ。
 だが、ゼロ人称──アドベンチャー独特の一人称──は、インターフェースであるがゆえに主人公像が限定されてしまう。色をつけすぎると、世界を見る眼鏡としては不愉快になってしまうからだ。そのため、主人公像は限定される。限定されれば、テーマ性も影響を受けて限定されてしまう。美少女アドベンチャーで描ける内容は、限られているのだ。

   ゼロ人称であるがゆえに、アドベンチャーゲームで描けるテーマが限定されているからといって、それが悪いわけではない。いい場合もあるし、うれしくない場合もあるだけのことだ。たとえ限定されていたとしても、例外的な手法を繰り出すことは可能だ。それを探ることもひとつの面白みであり、限定内で面白いものを作るのもまた楽しいことだ

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