◆表層の危険 2000.1.15

 三宅裕司がボツワナに行った。

 ライオンと出会うドキュメンタリー番組である。ボツワナは、唯一ライオンが野生のまま暮らしている地なのだという。

 彼が訪れたのは、サバンナで家族とともにテント暮らしをしている自然学者のところだった。もちろん、子供たちはいる。5人である。

 危険なことはなかったかと聞くと、友達と歩いていて、興奮していたアフリカゾウと会ったことがある、と話してくれた。

 アフリカゾウは体重が5トンもある。

 もちろん、50キロほどの彼ならぺしゃんこである。小錦だってひとたまりもない。

 三宅裕司が、そんな危険なところに住んでいて、どうしてここを出ようとか思わないの? と尋ねると、卓見が返って来た。

 
 サバンナも危険。

 都会も危険。

 ただ、危険の意味が違うだけだ。


 そう。

 意味が違うだけ。本質は同じ。表層にとらわれてはいけないのだ。

 しかし、世の中、本質を見抜けず表層だけにとらわれて、表向きの違いをやたら強調し、それこそ絶対的差異であるかのように力説しまわる運動家の多いことか。表層が見抜けないくせにやたら大声で、すぐさま教育やら弱者の保護やら、国が弱るようなもっともらしい大義名分を振りかざす。

 
 サバンナも危険。

 都会も危険。

 同様に、ものの本質を見極められない人間、表層の差異ばかり強調する人間、それゆえ発言する資格のない人間の言葉が力を持ってしまう今という状況も、また危険ではないのか。サバンナといっしょにするな、と似非運動家は言うかもしれぬが、危険の意味が違うだけである。都会の危険だけではなく、言説的危険に対し、我々はもっと敏感になる必要がある。

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