◆他者について 99.11.12

 他者について定義。

 他人と他者とは違います。他人ってのは、自分とは別の身体持ってる存在。別ってのは色・形・大きさが違うっていうんじゃなくて、自分以外の肉体を所有しているってことね。

 じゃあ、他者は?

 ぼくが使っている他者は、柄谷行人さんの言う他者です。

 最初に定義言っちゃいましょうね。

 他者とは、自分と言語ゲームを共有しない者のことである

 ばび〜ん。

 全然わかりませんね。もちっと具体的に言いましょう。

 他者というのは、たとえば、外国人がそうですね。外国人は他者です。

 外国人は、言葉が通じない相手です。日本語という共通の規則を持ってない人です。日本語を知っていると、《話す−聞く》という関係が成立しますが、日本語を知らないので、日本語で話しても聞けません。結果、別のレベルが立ち現れることになります。

 それが《教える−学ぶ》です。

 共通の規則を持っている相手とは、《話す−聞く》だけで、《教える−学ぶ》はありません。

 でも、外国人との間には《教える−学ぶ》が生まれる。

 子供ともそうですね。

 子供とコミニュケーションを取ろうとすると、いろいろと説明しなきゃいけない。

 これもまた《教える−学ぶ》です。


 整理しましょう。

 共通の規則を持っている間でのやりとりを、言語ゲームといいます。共通の規則というのは、大きい場合は日本語とか英語という言葉だったりします。小さい場合は、オタクだけの知っているマニアックな知識だったりします。野球についての知識もそうですね。巨人ファンと阪神ファンは、応援している球団が違いますが、野球についての知識(つまり、共通の規則)は共有しています。選手のことも知っています。ですから、言語ゲームは成り立ちます。でも、野球を知らない人は、野球用語も選手の名前も知りませんから、野球好きの人と話をしても、全然通じません。共通の規則がないからです。

 さて、もう少し話を進めましょう。

 1つの言語ゲームが閉じる領域が、共同体です。一般的に社会と言われているものは、共同体ですね。共同体というのは、市町村だけではありません。巨人ファンもひとつの共同体です。

 そして、外国人や子供のように、言語ゲームを共有していない者が、他者なのです。

 他者とのやりとりを交通(コミュニケーション)と言います。社会的とは、この交通で成立する関係です。これがマルクスのいう《社会的》です。社会的というのは、共同体内の関係じゃないんですね。違う言語ゲーム間に成立する関係、共同体と共同体の間に生まれる関係なんです。

 言語ゲームを共有しないのは、子供や外国人だけではありません。同じ日本語をしゃべっている人たちのなかにもいます。

 たとえば、オタクとカタギ

 オタクとカタギは話が通じませんね。通じさせるためには《説明》が必要です。

 説明ってことは、教えるってことですね。つまり、オタクとカタギの間には《教える−学ぶ》の関係が成立するわけです。これは立派な《交通》です。オタクにとってカタギは他者であり、同様にカタギにとってもオタクは他者なんです。

 《教える−学ぶ》という関係は、経済学に当てはめると、《売る−買う》という関係になります。

 ここで《命懸けの飛躍》というのが出てきます。お店に商品を並べたからといって、絶対買ってもらえるわけではありません。買ってもらえるか、買ってもらえないか。これはもう賭けです。勝負です。《売る−買う》の間には、凄い段差があります。平面的につながっているわけではありません。この段差を命懸けの飛躍というんです。

 上の考えを男女関係に当てはめてみましょう。

 男が女を口説くとき、自分と付き合うように《説得》します。女はそれを聞いて、男という商品を買うかどうか、つまり、OKするかどうか考えます。ものを《売る−買う》と凄い似てますね。女が男の誘いに乗るかそるかはわからない。選択権は女にある。口説きが成功するかどうかは、賭けです。つまり、《口説く−OKする》の間には、命懸けの飛躍があるんです。命懸けの飛躍があるってことは、男にとって女は他者、女にとって男は他者だってことですね。


 ぼくが使っている他者っていうのは、こういうことなんです。

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