◆活字よ、汝自身を知れ 99.11.19



 活字ってメディアとして一番遅れてると思うんよ。特にストーリーを楽しませよう、エンタテインメントしようとすると、もはや伝統芸能なみの古さ。小説っていま弱いよね。

 すげえ単純な議論するけど、コミックの場合、CGの出現で表現手段が豊かになってるでしょ? 映画も同じ。アニメも同じ。ゲームは言うに及ばず。みんな表現の幅が広がっている。でも、活字は?

 コンピュータが発達しても、活字メディアはな〜んにも進歩なしなのよね。全然恩恵被ってない。

 これって、もともと活字メディア自体に原因があると思うのよ。


 まず、原因その1

 活字メディアは単元的であ〜る。

 単元的ってのは、多元的の反対って意味ね。見せるものが文字ひとつしかないってことなのよ。

 映画なら音もある、映像もある、声もある。つまり、多元的なわけよ。マンガだって色もある、コマ割りによる変化もある。字の大きさだって変えることができる。ゲームだって、音も映像も声もある。多元的なのね。でも、活字メディアは字だけ。字の大きさを変えると「マンガみたいだ」と言われてしまうので基本的には出来ない。効果音も鳴らせないし、BGMも無理。もう貧弱。


 次、原因その2

 活字メディアは単層的であ〜る。

 単細胞じゃないぞ(笑)。単層的ってのは、簡単に言っちゃえばマルチの反対って意味ね。映画もコミックも単層的で、マルチ(多層的)なのはゲームだけなんだけどさ。

 ゲームだとマルチはいまや当たり前、恋愛アドベンチャーなんか複数の女の子を落とせるのが常識になってるよね。女の子同時攻略3人まで可能とかあったりしてね。ゲームの開始期間が4月で7月にはエンディングだとすると、それぞれ3人のヒロインと7月にハッピーエンドを迎えられるようになってる。もちろん、バッドエンドもある。ひとりの女の子を攻略してても、潜在的には別の女の子のストーリーが重なっている。つまり、多層的なわけね。同時進行が可能なのよ。

 ところが、小説はそうはいかない。

 ひとつの時間にひとつのストーリーを語ることしかできないのね。ひとつの時間に複数のストーリーを語ることは
ほとんど不可能。どこかに潜伏させるなんてことは、あぶり出しでも仕込まない限り無理なのね。とうていマルチメディアと成り得ない媒体なのよ。
 

 最後、原因その3

 活字メディアは線型的であ〜る。

 線型的っていうのは、イメージで言うと一本の線みたいなもんだっていうことね。始点から終点まで、ツツ〜〜と一本の線を引いていく感じ。それが線型的。

 これって、しゃべり言葉と同じなのよね。あることを説明しようとすると最初から最後まで順番にやってくしかない。読む方も、順番に追いかけていくことでしか全体像を把握できない。活字メディアって同時に提示することができないのよ。

 たとえば、3人の女の子がいて、右端の子はアイス食ってる、真ん中の子はチョコ食ってる、左端の子は道草食ってる(笑)とするじゃない? さあ、こいつを見せてやろうとすると、A子はどうのこうの、B子はどうのこうの、C子はどうのこうのって、誰か一人を最初にして順々にやってくしかないのね。まるで線を引いていく感じでしょ? だから線型的っていうんだけど、マンガも映画もゲームも、一発でその絵(=状況)を提示できちゃうわけね。これ、ゲームとか映画、コミックってのが図像的だからなんだけど。


 で、結論。

 だから活字メディアはだめだ、って言いたいんじゃなくて、だからこそ、活字メディアを使ってなにかするときには、うんとこさがんばらんといかんってことなのよ。特にエンタテインメントの世界ではそうだよね。他のメディアがどんどん侵出してきちゃってるもん。多元的なメディアが発達しちゃったいまでは、活字メディアって、基本的に弱いんだから、弱いは弱いなりの戦い方をせにゃいかんと思うのね。たとえば小説でいうなら、小説だからこそ出来ること、小説の強みってやつを再認識して他のエンタテインメントと張り合わなきゃだめ。質の悪いアニメかコミックかわけわかんないような小説出すのも商売としてはいいけど、それは本筋じゃない。小説はやっぱり小説であること、活字メディアであることをもっと自覚するべき

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