高畑勲と宮崎駿 99.8.4



 最近、往年のTVアニメ『母をたずねて三千里』を見ている。

 監督が高畑勲、場面設定・レイアウトが宮崎駿で、さすがに画面構成は秀逸。背景のワンカットワンカットに切れがある。内容も決して悪くはない。負けん気が強くてわがままで、強情で、子ども扱いされることがいやで、必死に大人になろうとしている少年マルコの姿がジェノバの街を通してしっかり描かれている。街の現実感も生活臭も、イタリア都市論でもやるのかいなという書き込み具合や。

 けど、なんかエンタテインメントとして煮え切らんものがある。

 なんでやろう、と考えてみたら、遊びがないんやった。見てる人を笑わせたろうとか、びっくりさせたろうとか、そういうおフザケの精神が薄いというか、メインやないみたいや。だから、ワクワク、うひゃうひゃがないんやろう。

 ところが、それが宮崎さんにはある。次はどこで落としたろか、どこで息止めさせたろか。そんな悪戯心がいっぱいや。『天空の城ラピュタ』を見てると、空賊どもとの猛烈チェイスのなかに、狙い済ましたギャグが炸裂、連発。さんざん大笑いさせておいて、さっと引く。

 うまい。実にうまい。エンタテインメントの真骨頂。

 その昔、『未来少年コナン』の演出をめぐって二人は喧嘩したことがあるそうや。コナンを一人の少年として現実の人間像に近づけて描こうとする高畑さんと、超人的に描こうとする宮崎さん。

 二人の違いは、力点の違いみたいに思える。

 描く高畑と魅せる宮崎。

 リアリストの高畑勲とエンタテイナーの宮崎駿とでも言い換えようか。

 高畑勲は、エンタテインメントを作ってるんやなくて児童文学を描いてるんやと思う。対する宮崎駿は、純粋にエンタテインメントを作っている。

 文学志向と娯楽志向。

 どちらがええとか悪いとかいうことはない。ただ、アニメを「エンタテインメント」として見るのが今の趨勢である限り、宮崎駿のほうが大衆からの評価はええやろう。けれど、高畑勲のアニメを「児童文学」として読み直すなら、評価の仕方が変わるやろう。

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