◆姓名判断は占いか 99.7.17



 実は、筆者は占いが好きである。

 大学時代70冊以上もの関連書を買い漁り、手相、易学、タロット、占星術――なんでも手をつけた。もちろん、その中に姓名判断もあったのだが、この頃、市販されている姓名判断の本につとに疑問を覚えるようになってきた。

 なぜか。

 端的に言えば、いい加減なのである。たとえばこうだ。

 「33画は王者の数、天下を取る大吉数」「実業界では堤義明、本田宗一郎が33画の持ち主」

 例に挙げられている二人とも、ご立派な方々だ。さらりと読み流した人は、なるほど、確かに王者の数字だと思い込まされる。

 しかし、明智光秀はどうか。彼もまた総画33なのである。だが、我々は彼が三日天下で終わったことを知っている。この説明をどうつけるつもりなのだろう。

 「34画。不運数。病気や事故や災難に遭いやすい」

 不吉な脅し文句である。しかし、『鬼平犯科帳』で絶大な人気を得た池波正太郎が総画にこの数字を持っているのだ。

 「20画。短命、破滅の数」

 これもまた変な話だ。

 漫画家のカジワラタケシも総画20。富島健夫、服部真澄も内画20。大学生でありながら芥川賞を受賞した平野啓一郎も地画20。

 将棋の羽生義治も初年運を表す地画に20画。さらに社会運を表す外画には、不運の数字とされる14画。この2つで見る限り、どうあっても彼は若いうちに成功しないはずである。

 でも、あの栄華、名誉。大成功だ。ところがなぜか姓名判断の本に羽生義治の名前はない。

 結局のところ、都合のいい例しか載せられていないのだ。不幸を証明するためには画数の一つに凶数があればよく、幸運を証明するのにもまた画数の一つに吉数があればよい。統計だのどうだのと騒げるような緻密さはまったくない。論証自体がいい加減なのである。

 占いとは、本来御神籤ではないはずである。もっと総合的なものだ。算数みたいにはっきりと答えが出るものではない。

 たとえばタロットというものがある。絵の描いたカードをかき混ぜて未来を占うものだ。ヘキサグラム・スプレッドという占法の場合、

 「過去」
 「現在」
 「未来」
 「援助」
 「周囲の状況」
 「本人の態度」
 「最終予想」

 と、指定された位置に7枚のカードを展開して見るのだが、大切なのは「未来」と「最終予想」だとされている。

 だが、実際に占ってみると、この2つの位置に正反対のカードが出たりするのだ。未来は「よし」と出ているのに最終予想が芳しくないなんてことがあるのである。

 じゃあ、いいカードと悪いカードの数を取って加算すればいいじゃないかというかもしれないが、占いは算数ではない。7枚中5枚が「よい」カードだったからといって結果がよいとは限らない。1+1+1+1+1−1−1=で3でプラスだから結果は「よし」などとは出せないのである。なぜなら、配置されたカードは同一直線上にないからだ。X軸上の「+1」とY軸上の「−1」は加減乗除が出来ない。しかもその「+1」は、占うテーマによって「+10」にも「+0.1」にもなりうるのである。だから6枚のカードが悪くても、最終予想のカードがいいから結果はよし、なんてことだってありうるのだ。

 ヘキサグラム・スプレッドにおいて大切なのは「未来」と「最終予想」だというけれど、その2つですべてが決まるわけではない。2つが決定的要素になる場合もあれば、ただの一要素になる場合もある。それはテーマによっても変わるし、他のカードによっても変わる。大切なのは、木だけを見ずに森も見ることだ。要素一つ一つをチェックした上で、総合することである。それこそが占いの真髄なのだ。

 しかるに、市販されている姓名判断の本はどうだろう。
 
 木を見て森を見ず、なんてのはまだかわいいもの、やれこの数字があると不幸だの破滅だの短命だの、脅しをかけているとしか思えない。その上、改名しろ、さらには印鑑を作れと来る。まるで霊感商法だ。

 占いは恐喝ではない。

 人が幸せになるために、自分を知るために、手助けになるべきものだ。

 姓名判断だってそうである。

 総合的にやろうとすれば歯切れが悪くなる。となるとインパクトが弱まって商売的にプラスにならないのは理解できるが、どれもが脅迫まがいなのはどういうことか。自分が知る限り、例外は銭天牛の『姓名判断入門』ぐらいしかない。もっとニュートラルな、説得力のある姓名判断の本を望みたいところである。

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