◆サッチーの構造



 今、4、50代の女性の関心を集めているのは、恐らくサッチーだろう。

 そう、野村監督の奥さんである。
 
 コロンビア大学への「留学」が「聴講生として行った」に変わったり、渡米年度が昭和27年、28年、29年と三転したりで疑惑増大、世の中サチヨ・パッシング状態なのだが、自分はマスコミと違って彼女を責めたてる気になれないのだ。

 別に彼女を擁護しているわけでもマスコミを批判しているわけでもない。彼女の言説が真実かどうかはともかく、パッシングのなかに、沈黙する大衆という、日本人の醜さが潜んでいると自分は言いたいだけなのだ。

 日本人はとかく沈黙する。

 幼稚園では元気だった子供たちも、義務教育を刷り込まれていくうちにだんまりこそ美徳と覚え込んで、学級委員会だろうがなんだろうが、公の場ではとにかく黙るようになる。もちろん、ズバズバものを言える子たちもいるのだが、「出る杭は叩き潰せ」とばかりにパッシングされる。かくして、「気づいていても言わない、いい子」が大勢を占めることになる。

 問題はここからだ。

 グループ内で悪いことをしている者がいる場合、沈黙する大衆は、それに気づいていないわけではない。むしろ気づいているのだが、言うのをいやがっている。発言によって自分が目立つこと、責任を取らされることを惧れているのだ。自分一人が手を挙げるのはいやなのである。

 しかし、挙手するのが自分一人ではない、全員なのだとわかった途端に、非難の対象に向かって一斉に「おまえが悪い! おまえが悪い!」と集中砲火を浴びせ出す。そして、相手が潰れようとお構いなしに、今まで物言えなかった鬱憤を徹底的に相手にぶつけるのである。

 醜いまでの豹変ぶり。

 正々堂々と言えない、個人の卑小さ。

 日本人の問題のひとつが、ここにある。

 この国の個人は、集団単位でしかものが言えない。個人単位で出来るのは、せいぜい陰で文句を垂れることぐらい。果たして、それを成熟と呼べるのだろうか。

タイトル一覧に戻る



トップページに戻る