◆喪失としての母〜『銀河鉄道999』〜 99.9.18




 久々に『劇場版銀河鉄道999』見たよ。

 く〜っ。せつない。きつい。

 ラストのシーン。「行くな、メーテル〜〜〜〜!」と叫びたくなった。大切なものを失うときの胸の圧迫を感じたね。すげえつらかった。

 でね。

 そのとき、ふと思ったのよ。

 メーテルって、一般的には少年が大人になる前の思い出の異性として語られている。子供の頃の憧れのお姉さんね。本人も、

 な〜んて言ってたりするし。制作者もそういう位置づけで作っていたんだと思う。分析としてはそれが正しいと思うんよ。

 けどね。

 受けた感じは違うのよね。おれの直感では、メーテルってのは、いつか別れると知っていながら、でも、永遠にいっしょにいると思っていた人、という感じがするのよ。

 それは、たとえば母であったり、姉であったり、妹であったり、中学時代好きだった先輩だったりするわけね。

 いつか、その人と別れるってわかっている。

 母ちゃんはいつか死ぬし、姉ちゃんだって嫁に行くし、先輩だって卒業すりゃ会えなくなっちまう。

 でも。

 そういう永遠の終わりを実感しないで、中途半端に認識して生きてきてるわけよ、おれたちって。

 で。

 いざお別れのときが来たとき、本当に終わりなんだって、もう絶望的に、決定的にわかって号泣しちゃうわけよ。行かないで! って。


 『銀河鉄道999』って、ある意味、母親の喪失から始まってるのよね。母ちゃんを殺されて物語がスタートする。つまり、母親の喪失から物語が始まってるわけ。

 で。

 母親に似たメーテルが登場して物語が進展。

 さらに、母親に似たメーテルと別れて物語は終結。

 母親をめぐる物語ね。

 ただ、このときの母親って、あたたかく見守ってくれて抱いてくれて夕食作ってくれて怪我すると手当てしてくれる――ってそんな存在じゃない。いつもそばにいながら、いつかは離れてしまう、喪失するべき運命にある人って意味での母親ね。

 銀河鉄道999って、鉄郎の青春って言い方されてたりするし、メーテルって青春のなかの永遠の異性ってことになるんだろうけど、それじゃあ、女の人が見てせつなくなったりはしない。喪失の物語喪失への限りないオマージュだからこそ、性別と世代を超えてせつなくなっちゃうんじゃないかって思うのよ。

 制作者たちは青春を描こうとしたんだけど、結果的に、青春というなかでこそ凝縮して感じられる、喪失するべき存在への涙ってのが表現されちゃったんじゃないかな。

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