◆ポストモダン補足 99.9.3



 90年代は、社会という一枚岩(モノリス)が粉々に砕けて、無数の岩の破片になっちゃった時代です。そこに趣味を同じくする人々が固まって住み着いている。テイストの数だけ破片がある。しかも、破片に住んでいる人同士はお互いのことを知らないで、自分の趣味で生きている(オタク的に生きている)。

 この状況をポストモダンっていうんです。

 歌謡曲でいえば、歌謡曲っていう「国民ならだれもが知っている」曲がなくなって、ロックならロック、演歌なら演歌、ポップならポップ、それぞれで盛り上がってるけど、だれも互いのことを知らないって状況ですね。趣味を同じくする無数の島に分裂しちゃった状態。しかも、ロック島の人は、演歌島のことを知らないんです。

 なんでこうなってしまったか。

 モダンって時代には、社会は発展してゆく、技術革新して生活は向上し、豊かになる……って発展的思想があった。社会が一枚岩のように、ある進歩的方向へ進んでいくという期待があったんです。社会は豊かになるぞ、生活はどんどんよくなっていくぞ、っていう期待ね。18世紀に始まった啓蒙主義もまだ続いていて、教育していけば人間はよくなるんだって考えられてた。19世紀から始まった産業革命も、これからどんどん便利になって生活が豊かになっていくんだと思わせてくれていた。進化論も、それを支えてくれてた。だから、歴史って「人間が発展していく段階」を書いたもんです。ちょっと話がそれましたが、資本主義にしても、共産主義にしても、「これから社会は豊かになる」「生活はどんどんよくなる」って期待を実現させるための、主義・政治体制だったんです。社会を進歩させるための政治体制だったんですよ。

 それがね。

 ソ連崩壊しちゃったでしょ。社会を進歩させる思想が潰れちゃったわけよ。

 するとね。

 社会は進歩的方向へ進むだろうって期待もなくなっちゃったわけ。だから今の子供たちって、地球はどうなるって聞かれて「破滅」と答えちゃうんだけどね。モダンの頃には、「地球の未来はよくなる」って答えてたのにね。

 秋元康も、こんなことを言ってました。今はもう国民全体にうけるCMを作ることは無理だと。限られた人たちに訴えるしかない。「みんな」って言葉はもう使えないんですよ。「国民」って言葉も意味なくなっちゃったんです。「一丸となって」なんて、無理ですよ
 
 今はポストモダンが徹底化されています。だからこそ、いろんな領域へトランスして、自分の枠をどんどん乗り越えていくことが必要なんです。自分が気持ちいいと思うところだけで生きていては、狭い人間になってしまいます。

 インターネットだってそうです。自由に渡り歩けるイメージがあるけど、実際はだいたい巡回路が決まってて、決まりきったとこしか行かない。それじゃ、もったいなさすぎる。自分の活動枠を超えてみる。複数の領域を横断してみるってことですね。すると、趣味的に生きるのとは違うよろこびを、このポストモダンの海のなかで見つけられるんじゃないかなあ。

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