恋愛は究極の存在意義確認行為

【読み】 れんあいはきゅうきょくのそんざいいぎかくにんこうい



 言い換えよう。

 恋愛とは、相手を絶対化する行為である。彼にとって彼女、彼女にとって彼は、唯一かけがえのない相手である。お互いはお互いのためにある。そのような存在に男女相互がなることが恋愛だ。

 でも、その相手はだれでもいいわけではない。無差別恋愛というのは、事実上ほとんど不可能だ。

「いや、おれはどんなやつでも付き合う」と言う人もいるだろうが、そのことを知った彼女がなんと思うか。だれでもいいからという理由で付き合われることほど、傷つくことはない。「だれでもよかったのに、なんでわたしと付き合ったの?」それはだれもが思う疑問だ。その問いのなかには、自分が相対化されてしまったことへのショックと怒りが含まれている。


 恋愛するとは、相手を自分にとって絶対的な存在と見なすということだ。恋愛の輪のなかで、彼にとって彼女はかけがえのない存在となり、彼女もまた彼にとってかけがえのない存在となる。相手がだれでもいいわけではない。その人でなければならないのだ。これこそ、究極の絶対化である。浮気が人を傷つけるのは、それが相対化の行為だからだ。浮気された方は、自分が彼/彼女にとってかけがえのない唯一の存在でなかったことに気づいてショックを受けるのである。

 現代社会はきわめて相対的だ。会社という組織のなかでも、学校という集団でも、地域社会という小集団の内部でも、自分がかけがえのない唯一の存在であると感じることはほとんど出来ない。むしろ、その逆である。人は交換可能な部品のように見える。人は相対化のなかで生きているのだ。だからこそ、人は自分が絶対化される世界、すなわち恋愛を求めるのだろう。恋愛は、相対化の世界で失われゆくアイデンティティを強力に補強してくれるのだ。


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