オーストリア散策エピソード > No.112
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サラエボオリンピックで大惨敗
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オーストリアといえばスキーの盛んな国ですね。ところがこのスキー王国は、かつて一度だけ冬季オリンピックで惨敗したことがあります。下の表は1972年の札幌から2002年の米ソルトレークシティーに至るまでの冬季オリンピックにおけるオーストリアのメダル獲得数をまとめたものです。これによると、1984年に開催された旧ユーゴスラヴィアのサラエボオリンピックだけはボロボロになってますね。いったいこのとき、オーストリア選手団には何が起こっていたのでしょう?

開催年 開催地
1972 札幌 1 2 2 5
1976 インスブルック 2 2 2 6
1980 レイクプラシッド 6 2 2 10
1984 サラエボ 0 0 1 1
1988 カルガリー 3 5 2 10
1992 アルベールヴィル 6 7 8 21
1996 リレハンメル 2 3 4 9
1998 長野 3 5 9 17
2002 ソルトレークシティー 3 4 10 17

サラエボといえば、1914年6月28日にオーストリア=ハンガリー帝国のフランツ・フェルディナント皇太子とソフィー皇太子妃が暗殺された曰く付きの町です。町の名はトルコ語で「宮殿のある平地」を意味し、元はオスマントルコの支配下にありました。しかし1878年にオーストリア=ハンガリー帝国がオスマントルコ領だったボスニア州とヘルツェゴヴィナ州を占領し、1908年にはこの両州を併合してボスニア=ヘルツェゴヴィナとした歴史があります。

さて、オーストリア=ハンガリー帝国はいつもなら自分の版図に入った国に議会、学校、労働組合、鉄道、道路の整備や、土地改革といったことをしてくれるはずでした。しかし、スロヴェニアやクロアチアのケースとは違って、ボスニア=ヘルツェゴヴィナにはそうした社会の整備が全然もたらされませんでした。当時のオーストリア=ハンガリー帝国は、「オスマントルコの国力低下に乗じてセルビア人が台頭する前にバルカン半島北部を固めよう」ということしか考えていなかったので。おかげでボスニア=ヘルツェゴヴィナの人々にとって、オーストリア=ハンガリー帝国は単に自分たちの国を奪いにきただけという思いが強く残りました

それから110年も経った1988年、サラエボオリンピックの会場でユーゴスラヴィアの人々のオーストリアに対する憎しみが暴走を開始しました。彼らはオーストリアの選手が登場すると野次や怒号を浴びせ、その選手が失敗すると喜びの大歓声。さらにユーゴの民間警備員は警備をするどころかオーストリアのジャンプ選手をぶん殴るという始末でした。そしてオリンピック閉会後はユーゴの民衆がオーストリア選手団の寄宿舎に押しかけて投石までするという狼藉ぶりを発揮。こんな状態では、オーストリア選手にメダルを取る余裕なんて全然なかったでしょう。

ちなみに、このときのオーストリア選手団の監督は、ユーゴスラヴィアのスキー技術向上に25年も協力した人でした。どんなにユーゴのために力を貸しても100年以上昔のことで責められ続けるのを我慢しなきゃいけないというのは可哀想ですね。さすがにユーゴの監督はこの事態のトホホぶりを申し訳ないと言ってたそうですが。

こうしたユーゴの心ない民衆(もちろん大多数の民衆はマトモだったと思いますが)の妨害や威嚇によって、サラエボオリンピックでオーストリアが獲得したメダルはわずかに銅が1個だけ。実に史上最低のドン底記録となりました。まさに憎しみパワーの大勝利ですね。しかしのちのユーゴの歴史を見るなら、これは見せかけの勝利としかいえませんでした。

オーストリア選手団が去ったあとのユーゴでは、あのオリンピックのときの憎しみパワーがそのままブキミにくすぶり続けていたようです。そしてその憎しみはオリンピックのわずか数年後、今度はユーゴ国内の民族同士へと矛先を変えてゆきます。人々の心には第二次世界大戦の頃に起こったクロアチア人とセルビア人の虐殺合戦などの記憶が亡霊のごとく呼び起こされ、サラエボを首都とするボスニア=ヘルツェゴヴィナでも1992年にとうとう歯止めのかからない内戦が勃発してしました。

この不毛な戦いの結果、本来なら平和を目指すはずだったサラエボオリンピックのメインスタジアムは、今や皮肉にもこの内戦で犠牲となった人々の墓場になっています。あのときのオーストリア選手団に対する110年前の歴史の恨みが行き着いた先は、「人を呪わば穴2つ」という悲しい結末でした。もし1988年のユーゴスラヴィアの人々にオーストリア選手団を暖く迎えるような心のゆとりができていたなら、ひょっとするとあの内戦は避けられていたかも知れません。そう思うと、私はどうしても残念に思ってしまいます。

欧州で憎しみを忘れない国といえばほかにも、ドイツに執拗な謝罪を求め続けるポーランドがありますね。一方、同じくドイツに蹂躙されたことのあるチェコはその後、「第二次世界大戦の仕返しにズデーデン地方のドイツ人を迫害したのはやりすぎだった」と異例の表明をし、今では学校でドイツによるチェコ人迫害とチェコによるドイツ人迫害の両方を教えて、「戦争は勝っても負けても不毛。過去の憎しみよりもお互いに理解のある未来を」というふうに方針を変えました。そして2003年の統計によると、チェコの1人あたりのGDPは約8,791ドルで失業率は7.8%、ポーランドは1人あたりのGDPが5,398ドルで失業率は20.0%となっています。この差の中にも私は「憎しみの克服」の効果があるように思えてなりません。

憎しみは大きなパワーを生み出します。しかし、それは方向を間違ったり暴走したりしやすく、おまけいつかは取り返しのつかないツケが自分に返ってくるかも知れないという厄介な武器です。政治に便利だからといったり正義を振りかざしたりしてこれに手を染めるのは、やっぱりやめておいたほうがいいですね。

ついでながら、私は旧ユーゴ諸国の復興をあきらめていませんよ。欧州にはチェコというよいお手本があるのですから、そこから大切なことを学んでゆけば、復興の可能性はまだあると思います。

P.S. 日本では犬養基金(口座=郵便局 00120-2-196459)の資金の一部が旧ユーゴの人々の教育援助にも使われています。気の向いた方はご寄付でもどうぞ。私もユーゴ内戦の始った頃から寄付を続けています

◆参考資料:

Wikipedia - 冬季オリンピック
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%AC%E5%AD%A3%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%94%E3%83%83%E3%82%AF
Wikipedia - サラエボ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%A9%E3%82%A8%E3%83%9C

ドイツ 冬の旅 - 小国オーストリアの誇りと悩み
神品芳夫著、小沢書店
ハプスブルク帝国 1809-1918 - 第17章 暴力による解決 1908-14
A.J.P.テイラー著、倉田稔訳、筑摩書房
オーストリア・スイス現代史 - 19世紀から第一次世界大戦まで
矢田俊隆・田口晃著、山川出版



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