今宵はプロバスクラブ・せせらぎ会と三田南ロータリークラブとの合同例会です。この日が来るのを待っておりました。せせらぎ会の皆様、どうぞくつろいでいただいて、お楽しみください。
さて、今日は「生と死」についてほんの少しだけ触れてみたいと思います。縁起でもないと、思われるかも知れませんが、人がどんなに華やかな人生を送ろうとも、その最後の幕は死であることは言うまでもありません。
日本人の死生観には宗教や哲学がないといわれていますが、死をどう迎えるかということに関心を持つことはとても大事なことだと思います。
脚本家の橋田寿賀子さんが90歳になって「私は安楽死で逝きたい」と公表したことも話題になりましたが、以前から日本では、尊厳死、あるいは安楽死についても議論が遅れていて、少しずつ先進国に追いつきつつあるところです。
ところで、論語に『未だ生を知らず いずくんぞ 死を知らん』という言葉があります。皆さんご承知の通り「生を知らずに、どうして死を理解できようか」が一般的な解釈ですが、それは違うと言う人があります。「死を知らずして、どうして生を理解できようか」というべきだ。人生がたった一回限りの大事なものであることを「死」によって理解していくのが人間の智慧なのだ、と言うのです。この説を唱えるのは親日家で元台湾総督の李登輝です。大病して悟りの境地に至ってわかった、とのことです。彼はクリスチャンでもあります。
正岡子規は『悟りとは いかなる場合でも 平気で死ぬることかと思っていたが、それは間違い。悟りということは いかなる場合でも 平気で生きていることだった』と言っています。
人間以外の動物は死後の世界には関心がありません。今を生きるだけです。動物たちは、すでに悟りの境地にいるのでしょうか。
李登輝の言葉と正岡子規の言葉をどう解釈したらよいのか、悩んでしまいます。
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