12月14日、昨日は赤穂浪士が宿敵・吉良上野介を討った日とされています。ところが実際は今から314年前の12月15日、今日でした。
私たちが若い頃は今頃の季節になりますと、必ずといってよいほど、白黒テレビでも忠臣蔵の演劇や映画が放映されていました。ラジオから浪曲も聞こえてきたものです。
ある本に載っている「忠臣蔵の真相」という記事によりますと、討入りは元禄14年12月15日午前4時頃だったそうです。計画では、表裏24人の計48人、うち毛利小平太が脱落して47人になった。討ち入りの集合場所は、そば屋ではなく、堀部弥兵衛宅である。そこで乾杯をしたあと、いったん散会し、神埼与五郎、前原伊助、堀部安兵衛宅で仕度を整え、吉良邸前で三派が合流した。鳴物も、山鹿流陣太鼓ではなくて、各自の持つ小笛とドラ一個だった。
上野介は台所に続く納屋で、間十次郎に見つかり、表に出された時はすでに死んでいた。致命傷は武林唯七の剣だった。首を討ち取ったのは間十次郎だったが、吉良の刀傷は全身に26もあった。上野介のほか、吉良側の死者16人、負傷者23人に対して、浪士側は軽傷5人であった。舞台や映画で活躍する千坂兵部は殿中刃傷の前年,元禄13年5月に62歳で米沢で死んでいるから、この事件での暗躍はウソである。また天野屋利兵衛の話も真偽不明。
討入りが終わったのは午前6時頃。泉岳寺着が午前8時。引き上げのとき、江戸市民の人垣が出来たという事実はなく、一行の行列を見たのは辻番人くらいだった、となっています。
古い年代の人にとって忠臣蔵は、いま若い人のあいだで大人気の『君の名は』(菊田一夫原作の、ではありません。念のため)に勝るとも劣らない人気だったのですが、これも「今は昔」です。
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