4つのテスト
  1.真実かどうか。2.みんなに公平か。3.好意と友情を深めるか。4.みんなのためになるかどうか。
今回例会プログラム
次回例会プログラム
12月11日
外部講師卓話(プログラム委員会)
ITC甲南クラブ会長 高井和代様
題  「ITCクラブについて」
12月18日
クリスマス例会 (親睦委員会)
今日のソング
「 よれでこそロータリー 」
卓話 日下会員
誕生日のお祝い
 
■2003年12月4日(木) 晴れ  第677回  No.21
点鐘(18:30) お客様
柴田会長 無し
 「  君が代 奉仕の理想 」
■会長談話
皆さん こんばんは 本日は、お客様はおられません
師走に入りました。風邪等ひかないようにお気をつけて下さい。
過日は、IMに25名が出席いただきました。  ご苦労様でした。

今年度、本山ガバナーのご指導の中のキーワード“ふるさと”をとりあげた内容に考えさせられた事と思います。

その中でのてい談より“芸事もロータリーも時流に合わせた考え方や手法が必要で常に変えていかねばならない。そして誰かがやってくれるのを待つのではなく自らが新しいものを創るという気概が必要だと話された事が印象的でした。

又、地域、ふるさとの文化の継承の為には年長者が若者に対してその良さを伝える機会を増やす努力をせねばならない。RCはそういった事に対して役立つ事が可能であるとも話されていました。参考にしたいものです。そして片木ガバナー補佐エレクトが誕生しました。次回IMの担当クラブとしても全員で支えて参りましょう。

今年度より12月は家族月間と制定されました。ロータリー家族とは我々会員の家族はもちろん、過去においての会員、及び物故会員の家族、プロバスクラブ、奨学生等、関係者は総てロータリー家族です。

近く行われますクリスマス例会も親睦委員会においてお世話にいただいておりますが、まず会員が出席者に対して思いやりの心でもって接していただけますよう今からお願いをしておきたいと考えております。

やがて子供や孫たちがロ−タリアンになる事も夢にみてみたいものです。

失礼いたしました。、


■幹事報告
宝塚RCより IM出席のお礼状を戴いております
PHD協会より 手紙を頂いております
年末年始のクラブ例会の休会変更の案内を 三田RC 柏原RC 宝塚RCより頂いております
週報を 芦屋川RC 柏原RC 三田RCより頂いております

■委員会報告
●出席委員会
会員数 出席会員 出席率 前々回修正
出席率
25名 20名 80.0% 84%
 
本日の欠席者:
  大前 坂林 中 中嶋 荻野各会員
前々回のメークアップ: 東野 関口会員 
結婚記念日のお祝い: 
  今安 荻野 古門各会員
誕生日のお祝い: 
  今安 坂林 島村 東野各会員


■ニコニコ
柴田会長 シークレット1等になってしまいました
柴田会長 片木さん 森本さん ご馳走様でした
林田会員 片木会員 先日はご馳走様でした 覚えておられるでしょうか?
古門会員 職業奉仕
味地さん お世話になりました
大上会員 職業奉仕
下山会員 写真を頂いて
岡本会員 シークレット2位の商品を頂いて
古門会員 シークレット代金
大上会員 シークレット代金

■本日のプログラム

      誓文払いについて                日下隆三 

 罪を払う義から転じて、商店で在庫品その他を格安に売り出すこと。
 江戸時代、陰暦10月20日に京都の商人や遊女が四条京極にある官者殿(冠者殿)に参けいし、一年中商売のかけひきにうそをいった罪を払い、神罰をまぬがれるように祈ることをいった。のち転じて商家がふだんおかしがちな虚言を恥じてたてた1日ということになり、罪ほろぼしの精進日とし、内では福の神として蛭子(えびす)をあがめ、店頭では良品、端物(はもの)を格安にひさぎ、神罰、仏罰のゆるされんことをひとえに願う風習を生じ、この売出しを誓文払または恵比寿(えびす)講とよぶにいたった。

 この売出しはおもに関西地方のならわしで、もとは多くは呉服店で蛭子切れを販売したのに由来するが、後には他の品種にもおよび、たんなる書入れの売出し日となり、10月20日に限らず次第に日数をまし、20日から3日間となり、さらに大正時代になって百貨店、商店街のさかんな販売政策から16日から向こう1週間となるにいたった。ただし時期は地方により一定していない。

夷 えびす 
 今日の<えびす>は七福神の1神として大黒とともに財服をさずける福の神の代表として最も知られているが、古くこの語は<えみし>とともに異民族を意味する通称であった。《伊呂波字類抄》には夷・蛮・戒・秋・辺の字などをこれにあてており、東北地方の蝦夷<えみし>だけが長く日本に同化せぬ異民として存在したために<えびす>とは蝦夷のごとく解されたこともあった。しかし《一本定家卿仮名遣》には海辺人を<えびす>と読み、異民族に限らず、島や海辺の辺境に住む人達をも<えびす>と称する用法も併行されていたことを示している。また中世には武士を<えびす>といい、鎌倉武士を京都では東夷<あずまえびす>と称したのは、<つわもの><ますらお><もののふ>などの武士を<えびす>として辺境者視したもので、これは異民族の俘囚(ふしゅう)や辺境者を兵士とした古代の兵制の遺風であろう。

 後年に破顔微笑し魚を抱えて釣ざおをかついだ神像に固定した<夷三郎殿>の<えびす>も、辺境者の神または武神として尊崇されたこともあったが、13〜14世紀ころ、市場の守護神として勧請(かんじょう)され始め、中世・近世を通じ商業が発達し福神信仰が盛んになるとともに、商人の信仰を集め、都市のこの祭りがはでになるとともにますます流布したようである。えびす信仰の大きな本拠の一つとなった西宮の<えびす社>は、もと広田神社の末社にすぎなかったが、社の神人百太夫の<えびすかき>すなわち人形芝居の源流をなした者たちの活躍は注目される。そして百太夫らの傀儡師(かいらいし)の輩は日本芸能を特色づけた辺境者すなわち<えびす>の一つとして存在した海人(蜑、あま)の系譜をになっていたらしい。